ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




鉄砲洲通りの横丁の家並み。中央区湊1-13。1987(昭和62)年7月26日

隅田川に沿った通りのほうから西を見ている。今は写真中央から左側の建物はビルに建て替わった。写真左のモルタル塗りの家が鉄砲洲薬局、その左の木造家屋は北川紙工所、さらにバス通り(鉄砲洲通り)を隔てて鉄砲洲稲荷神社が見えている。



鉄砲洲薬局。湊1-13。1987(昭和62)年7月26日

写真左の日本家屋は山崎タイプ社。右奥の倉庫は七洋紙業。その後ろのマンションは亀島川を越えた新川の秀和新川レジデンスだろうか。

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大月酒店。中央区湊1-13。1987(昭和62)年7月26日

新金橋から南高橋への通りの南高橋のすぐ近くから南へ入る横丁を見ている。その横丁は鉄砲洲稲荷神社の前の通り(鉄砲洲通り)の1本東の裏通りになる。
大月酒店の横の2階の看板は「あなたと豊かな街づくり/フジタ工業中央オフィス湊町連絡所」。



イシワタ産業。1987(昭和62)年10月11日

1枚目の写真の街並みを逆の方向から撮ったもの。モルタルの看板建築の建物はイシワタ産業が建てたものではなさそうだ。
イシワタ産業はHPによると、消防施設の器機販売・工事・保守を業務にしているようだ。1965年創業で三郷に埼玉工場がある。『日本橋白木屋百貨店火災に依り救助袋の研究開発を始める』という沿革の記述が興味を引く。白木屋火事は1932(昭和7)年12月16日に起こった。

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霞ヶ関信用組合岩本町支店。千代田区岩本町3-3。1988(昭和63)年8月5日

写真手前の通りは、近年は神田平成通りというようになった。右手へ行くと大和橋で靖国通りと合流する。左手はすぐに水天宮通りの岩本町3丁目交差点だ。
霞ヶ関信用組合の前身は霞ヶ関信用協同組合で、昭和27年の設立。写真の建物は見たところ戦前の銀行建築に見える。昭和22年の航空写真にははっきりそれと分かる建物が写っている。
霞ヶ関信用組は三菱銀行系で、1993(平成5)年に三菱銀行に吸収された。マークは三菱の中心に「霞」の字を重ねたもの。



霞ヶ関信用組合岩本町支店。1987(昭和62)年4月5日

追記(2011.10.14)
日本建築学会が公開している『 建築雑誌』の 昭和11年3月号(第50巻 第610号)の「竣工建築物」にこの建物が写真付で載っていた。
記載は「株式会社川崎第百銀行岩本町支店、位置:東京市神田区岩本町14番地、建築主:株式会社川崎第百銀行、設計者:矢部又吉、施工者:合名会社竹中工務店東京支店、昭和10年4月起工・同11年1月竣工、建築面積:70坪、2階建、鉄筋コンクリート造」。

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区立今川小学校の塀(北東の隅)。千代田区岩本町2-15。1987(昭和62)年4月5日

場所は靖国通りの南、水天宮通り(人形町通り)の東へそれぞれ少し入ったところで、旧町名は神田大和町。平成5年4月に神田和泉町にあった佐久間小学校と合併し、和泉小学校へ引き継がれた。岩本町の校舎の跡地は「岩本町ほほえみプラザ」という高齢者福祉施設と貸しホールなどになっている。今川小の資料室もあるそうだ。


区立今川小学校
1987(昭和62)年4月5日

『日本近代建築総覧』では「S4、RC3、設計:東京市、施工:大阪橋本組」。校舎の西側を撮った左の写真ではあまり古い建物には見えない。和泉小のHPの沿革に「昭21.3.25、校舎変換(岩本町2丁目に移転)」の記述がある。どこから移転したかというと鍛冶町の今川中学かららしい。「変換」する前はなんだったのだろう? また『日本近代建築総覧』の今川中は今川小とまったく同じ記載で、これまた疑問が出るのだが、調べてみる根気がない。

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中野ビル。千代田区岩本町1-3。1986(昭和61)年1月

昭和通りの紺屋町交差点の角にあった中野商店の中野ビルである。昭和通りの横断歩道から正面のビルの角を中心にして撮るべきだったが、思ったとおりには行動できないものだ。
現在は建替えて「ニュー中野ビル」の名称になった。


兵銀ビル(兵庫相互銀行東京支店)
岩本町1-2
1986(昭和61)年1月

上段左写真の中野ビルの後ろに秀和第一岩本町ビルが写っている。兵銀ビルはそのビルのさらに後ろ(南側)にあった。やはり昭和通り沿いである。戦後の建築のようにみえる。
写真手前の公園は地蔵橋東児童公園。地蔵橋というのは竜閑川(りゅうかんがわ)に架かっていた橋。児童公園の南は地蔵橋南東児童公園があって、その間に東西方向の細い道路があるが、それが川の跡である。昭和25年までには空襲の残骸を放り込んで埋立ててしまっている。この細い道路が日本橋と神田の境で、今でも中央区と千代田区の境になっている。

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民家。荒川区東日暮里4-23。1991(平成3)年6月30日

柳通りを東に流れてきた音無川は、写真の家の角でいったん北に直角に曲がる。すぐまた東へカーブして御行の松をかすめていく。


民家
東日暮里4-23
1991(平成3)年9月23日

1枚目の写真の左端にも写っている。2階の壁の部分が低い。そのぶん1階の天井の高さが低そうである。
現在は写真の2軒分の敷地に大きな住宅が建った。

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民家。荒川区東日暮里4-23。1991(平成3)年6月30日

写真の前の道路は反対側に音無川が流れていた道である。吉村米店があった路地の入口のすぐ東になる。写真左の2軒は現在、ビルに建替え中だが右の2軒はまだある。


民家
東日暮里4-23
1991(平成3)年9月23日

1枚目の写真の家からさらに東へ行ったところで、この家は今も変わらずにある。家の前の鉢植えの木が2階の庇に届きそうになっているが。瓦屋根のままになっている家は今では少なくなった。
家は公道から少し後退して鉢植えなどを置くスペースがあり、2階は半間ほど後退している。1階の屋根に物干し台を置く場合が多い。大正期に建てられた典型的な町屋住宅である。

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民家。台東区根岸3-25。1991(平成3)年6月30日

左写真の総二階建ての家はいつのまにかなくなって、現在は裏の家が見えている。写真右の門はその裏手の家のものだ。
右写真は2軒長屋になるようだ。



民家。根岸3-24。2001(平成13)年3月10日

3枚の写真とも、写っている家の前の道路は音無川に沿った古い道だ。昭和9年には暗渠になってしまったようだが、写真のあたりの家の前の石垣には、音無川のあった時代からのものが残っているかもしれない。音無川という名称は石神井用水の愛称のようなものかと思う。田に水を引くための農業用水である。
上野台地の裾から自然堤防だか砂州だかが三ノ輪の方向へ突き出していて、根岸の町はその微高地に乗っかった形になっている。音無川はその北側の裾に沿って引かれている。少しでも高度を稼いで北側の谷中本村や金杉村(現・西日暮里、東日暮里)に水を供給しやすくするためのルートだったはずだ。標高は東日暮里4南交差点で3.78m、そこから400m北へ行った第二日暮里小学校の前が2.73mだ。川の水面は道路より低いには違いないが田も同様だから1m近い差はあったのだろう。東京朝鮮第一初中級学校のあたりに1.6mの地点がある。明治10年頃の地図では池になっていた。

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