ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




武蔵屋青果店。文京区本郷2-19。1988(昭和63)年10月16 日

すでに取り上げた大横丁商店街の建物だが、写っている範囲や見る角度の異なる写真があるのでまた紹介する。
上の写真は武蔵屋の並びが写っている。写真左よりの電柱のすぐ右に写っている関口書店と小山履物店のタイル張りの家は今も健在。武蔵屋の後ろに銭湯の煙突が見えている。当時の住宅地図では「コインランドリー」だが、銭湯の建物はあったのかもしれない。



加藤薬局。本郷2-24。1989(平成1)年5月5日



九谷焼商会、カサイ化粧品店。本郷2-24。1989(平成1)年5月5 日


桝水商店
本郷2-24
1988(昭和63)年10月16 日

桝水商店と書かれた袖看板がまだ残っている。どんな商売をしていたのか分からないが、なんとなく和菓子屋なら建物に当てはまりそうな……

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国鉄本郷保養所本郷閣。文京区本郷2-35。1988(昭和63)年2月21日(3枚とも)

壱岐坂通りと春日通りを結ぶ道路に面していた。写真てまえの方、向かいには有名な福士邸がある。
正式には電柱の看板にあるように「日本鉄道共済組合本郷保養所/本郷閣」というのだろう。大きい会社や団体は観光地や別荘地などに似たような名前の施設を持っていたりする。広い庭を持つ日本家屋だったり、古い西洋館だったりするが、実態はどういうものなのだろう。
国鉄の共済組合というのが国鉄の労働組合と関係があるのかどうかも分からない。保養所という名前の通り、病気の職員がここで静養しているとはとても考えられない。たぶん東京に出張してきた幹部の宿泊所なのだろう。
たてもの応援団」の「素敵な建物たち>旧十河信二邸」には『元国鉄総裁で新幹線の生みの親・十河信二の自邸で、昭和12年に建てられた。(中略)戦後の一時期進駐軍に接収され、返還後は国鉄の保養所「本郷閣」として利用されたが、保養所が閉鎖された後、解体された。』ということである。
撮影時に見た感じは、外観はきれいで、そう古い建物には見えなかった。



本郷閣の門



十河信二(1884-1981)は第4代日本国有鉄道総裁(1955-1963)。桜木町事故で引責辞任した島秀雄を復帰させて東海道新幹線の建設に取り組んだ。三河島事故(1962.5.3)や新幹線の予算超過の責任を取る形で、新幹線開業前に国鉄を辞めている。(「ウィキペディア」を参照)
西條の人」の年譜には、『1934年:満鉄退社。1935年:興中公司社長に就任。1937年:林銑十郎内閣の組閣参謀長就任。1938年:興中公司社長辞任。』とあり、十河が邸宅を建てたとされる1937年には、満鉄が設立した興中公司の社長だったかもしれない。

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BELNE(喫茶)。文京区本郷1-24。1988(昭和63)10月16日

本郷1丁目を南北に分割するように通っている壱岐坂通りの北側にあった古い建物を紹介する。この大通りは震災後に通されたので、坂道の名称は新壱岐坂という。坂下の白山通りで標高7.0m、坂上の本郷通りで23.07mだから16mの標高差だ。
上の写真の古いビルは壱岐坂下交差点の近くにあった。2階建てでずいぶんと小さいが木造にはみえず、たぶんRC構造だと思うのだが。1階はかなり改装されているようだ。喫茶店として使うにはぴったりのしゃれたビルだ。
写真左の横丁を入ると新坂がある。



壱岐、古藤田とうふ店、松尾薬局。本郷1-25。1988(昭和63)1月31日



キッチン・フラワーハウス。本郷1-25。1988(昭和63)1月31日



理容ヒカリ。本郷1-25。1988(昭和63)10月16日

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旭商事不動産。文京区本郷2-28。2007(平成19)2月16日

本郷大横丁の北側。右奥に入っている道路は本郷通りの1本西の裏通りになる。
旭商事の裏にも銅版張りの看板建築がある。


左:磯國商店。文京区本郷2-20。1988(昭和61)年1月31日
右:銅版張り看板建築。本郷2-24。2007(平成19)2月17日

推測で「磯國商店」としたが、商売はやっていないようだ。洋風の看板建築で、ありふれているともいえるが、ぼくはファサードのデザインがすっきりとまとまっていて気に入っている。こじつければアールデコにも見える。
右写真の家は加藤薬局のすぐ並びの、魚伊之と神原文具店の間の元商店。

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加藤薬局。文京区本郷2-24。1988(昭和61)年2月21日

撮影時にあっても本郷大横丁のなかで最も目を引いた建物だった。「都市風景の旅」というサイト内の「近代建築」には『S3(1928)設計古賀一郎 施工前田鉦松』とある。
現在も写真に写っている建物は、写真左端の三豊商店以外はほとんどそのままだ。


左:関根青果店と加藤薬局。1988(昭和61)年1月31日
右:2007(平成19)年2月16日

現在は薬局の営業はしていない。TVドラマなどに出演したりしているようで、1階の軒回りの看板の帯が塗り直されているのはその過程でのものだろうか。
それがあるだけでかつての商店街の繁栄をしのぶ手がかりになるような建物で、貴重だ。

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左:大阪屋茶店。文京区本郷2-29。1988(昭和63)年1月31日(3枚とも)
右:三豊商店。本郷2-24。

今回の写真3枚とも、本郷大横丁の大横丁通り商店街の店。
大阪屋の建物はまだあると思うが茶店ではなくなっている。
三豊商店のペンキで書かれているらしい字は「書畫/骨董/家具/楽器」。骨董屋だったらしいが、撮影時にはすでに商売はしていない。写真左の建築中のビルは「ラーメン鶴八」だった。


カサイ化粧品店、九谷焼商会
本郷2-24

現在はカサイ商店の建物はなくなって駐車場になり、写真左の空地(ジュン美容室だった)にはビルが建った。九谷焼商会は変わらず、「九谷焼」の看板を出している。

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武蔵屋青物店。文京区本郷2-19。1988(昭和63)年1月31日(2枚とも)

新壱岐坂の大通りに面する東洋女子短大のところから斜めに入る商店街がある。そこを東へ行くと本郷通りに出るが、本郷大横丁という。新壱岐坂の通りは関東大震災後に通されたもので、元は大横丁のほうが主要道路だった。壱岐坂の名称は大横丁のほうになっている。今でもこの商店街の両側、横丁や裏に古い建物が20軒位残っている。
写真の家並みは大横丁商店街の西のほうになる。写真右の交差店を北(写真手前)へ行くと春日通の本郷四丁目交差点に出る。
角の家は武蔵屋が買い取ったように見える。武蔵屋が古くからある八百屋だとすると、写真中央の3階建ての家が元からあった店のような気がするからだ。気になるのは角の家の裸婦のレリーフだ。建築時はどういう商売の店だったのだろうか。



裸婦のレリーフ

中途半端に寄ってみた写真で、電線も重なってレリーフの詳細ははっきりしない。『看板建築』(藤森輝信・増田彰久著、三省堂、1988年)では「人魚」としているが、左足を曲げて手を置いているようにも見える。想像してみるに、カフェー「マーメード」?

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出桁造りの家。千代田区神田須田町2-6。1983(昭和58)年8月

前の道路は一八通りで、左が多町、司町の方向。写真右のタイル張りの家は、内川自動車隣の洋風看板建築。看板が撤去されて骨組みだけになっている。手持の1986年の住宅地図では、すでに「OS85ビル」に変わっている。
「建築計画のお知らせ」を見てとりあえず撮影した1枚だ。



美文堂山内印刷。神田須田町2-6。1987(昭和62)年9月13日

写真右の家は1枚目の写真左に写っている「光陽」。同じ建物を床屋と使っている。住宅地図では「千代田理髪店」といったらしい。奥に写っているビルは靖国通りに面して立っている。
現在この一角は「ニッセイ神田須田町ビル」になった。


路地の家
1983(昭和58)年8月

上の写真右の路地。


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JR神田変電所。千代田区神田須田町2-2。1986(昭和61)年12月30日

JR山手線・京浜東北線と中央線が別れるその間にある。「歴史的建築総目録DB」には『電鉄神田変電所、昭和7年』とある。「廃景録>消えた近代建築」によると、平成15年まで建っていた。
3階建てと低層だし装飾の無い地味な建物だが、水平線を強調し角を丸くしたモダニズムの典型的な意匠ということで、「Site Y.M. 建築・都市・俳諧>Tokyo Lost Architecture」でも取り上げている。

左:1992(平成4)年7月5日、右:1987(昭和62)年2月1日

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東服。千代田区神田須田町2-6。1986(昭和61)年12月30日

前の通りは靖国通りで写真右手はすぐJR山手線のガード。「東服」は写真左の家で、住宅地図での名称。その右の家はすでに空家のようにも見える。



内川自動車。神田須田町2-6。1983(昭和58)年8月

写真左へ行く道路は十八通りで、写真右奥へ行くとすぐ靖国通りへ出る。当ブログ前回のタカイ金物店が写真右端に写っている。写真左のタイル張りの看板建築にはまだ袖看板が懸かっているが社名はフレーム外で読めない。1986年の住宅地図ではすでに空白だ。


洋風看板建築
1986(昭和61)年12月30日

2枚目の写真左の家。1階には解体工事用のフェンスが立てられている。

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