1947年5月3日、現行の日本国憲法が施行された。
私は小学校の3年生になっていた(この4月以前には国民学校2年生、昭和16年から始まった国民学校令はこの4月に廃棄された)が、街々のあちこちには焼けただれた戦禍の跡などが生々しく残っていて、傷痍軍人といわれる負傷兵たちがあふれていた。
大陸に出征し、満州など北支にいた兵士たちはいまだソ連軍に抑留され、収容所での強制労働に従事させられたままで、留守家族にはその安否すら知ることが出来なかった。
現に、私の養父(実父はすでにビルマ=現ミャンマーで戦死していた)は、ハルビンから抑留されたまま、その生死もわからないままに母と私は、ただひたすら待ち続けるしかなかった。
もちろんこの国はアメリカの占領下にあり、その主権すらなかった。そうした国家としての主権回復の第一歩が憲法の制定であり、新しい国体を形成することであった。
だから、ほぼすべての人がこの憲法を祝い、国のあちこちでは提灯行列なども行われた。まさにこれは戦後復興の大きなターニングポイントであり、新しい国家としての再生の第一歩であったのだ。
私たち小学生にも、憲法についての話があった。
そのひとつは、日本は先の戦争を反省し、もう絶対に戦争をしない国になったのだということであった。
そしてもうひとつは、国民は天皇の臣民ではなく、国民こそが国の主人公だということであった。さらにいうなら、すべてのひとは等しく幸せになる権利があるということだった。
そして、これからは、戦前のように上からの絶対的な命令によってではなく、国民が民主的手段によって自分たちの運命を決めてゆくのだということであった。
強調しなければならないのは、これらは当時の、ほとんどすべての国民のコンセンサスであったということだ。
もちろん、その背後にはあの辛くて苦しい戦争の日々の経験があり、そして今なお、冒頭に述べたようなその悲劇が継続しているという強烈な現状認識があった。
だから、新しい憲法は、それまでの暗黒に差し込む太陽の光のようなものであった。繰り返すが、それは再出発を志す国民の圧倒的多数の共通の思いであったのだ。
いまその憲法が、法そのものとしても、またその解釈においても、そのきわめて恣意的な運用によってそれを犯そうとする勢力に狙われている。国民にとっての不幸は、その侵犯行為が時の政権によって行われようとしていることである。
彼らの主張の根拠は、その制定時と比べて、国際的な条件が変わったのだということである。たしかに変わったし、ある種のきな臭さも漂っているとはいえる(そうした状況は現政権そのものにも責任があるのだが)。
しかしである、現行の憲法が制定された折には世界が、そしてこの国を取り巻く状況が平和で安定していたのかというと決してそうではなかったのだ。
世界的にいうならばいわゆる東西の冷戦はすでに始まりつつあったし、中国大陸では国共の内戦が激化しつつあった。
また、隣の朝鮮半島では、後に朝鮮戦争(正式の勃発は1950年)に発展する火種がくすぶり続けていた。
一言でいうならば、当時の東アジアは、問題がらみといわれる現在のそれよりもはるかに危険で戦火が現実的で身近な状況であったのだ。
そんななかにも関わらず、日本国民は、そうした武力による国際間の問題の処理を行わないこと、またそれら戦場での趨勢に武力をもってかかわらないことを自分たちの進路として、300万のこの国の戦争犠牲者と2,000万に及ぶ近隣諸国の犠牲者の前で誓ったのだった。
これはひとつの理念といっていいが、しかし何よりも、それ以前に、まずもって歴史的経験のもっともリアルな咀嚼の結果であった。 先にいったようにこの経験は、300万のこの国の戦争犠牲者と2,000万に及ぶ近隣諸国の犠牲者によって裏打ちされ、しかもその当時のきわめて日常的な状況を背景にしている。
そしてこれは、同様に「犠牲者を悼む」と称して靖国という味噌も糞も一緒にしたオカルティズムへの拝跪とはまったくベクトルを異にするものなのだ。
その例証は、彼らは死者たちの鎮魂を詐称しながら、そうした状況をふたたび繰り返さないようにするためにではなく、まさに戦前的な「日本を取り戻す」ことに利用しようとしているからだ。
こうした行為を鎮魂とはいわない。死者たちの霊安を乱し、かれらの死を今一度踏みにじることなのだ。
私は国民学校から小学校に変わった5月、私たちに説明されたこの憲法とともに生きてきた。だから、これをいたずらに黒い手でいじくろうとする向きには激しく抵抗せざるを得ない。
この月の初旬に行われた各種世論調査において、憲法を守ろうとする志向が昨年同期よりもいずれも10%以上多くなっていることは嬉しい限りである。
おそらく、現政権のあまりにも露骨な軍事志向への反動だろうと思われるが、そうした監視の目を緩めることなく続けてもらいたいものだ。
と同時に、「解釈改憲」という、独裁国家においてはいざ知らず、おおよそ法治国家においてはあってはならない暴挙にも引き続き目を光らせる必要がある。
爽やかのこの季節に生み出された新しい理念の憲法を、葬り去るようなことがあってはならない。
私は小学校の3年生になっていた(この4月以前には国民学校2年生、昭和16年から始まった国民学校令はこの4月に廃棄された)が、街々のあちこちには焼けただれた戦禍の跡などが生々しく残っていて、傷痍軍人といわれる負傷兵たちがあふれていた。
大陸に出征し、満州など北支にいた兵士たちはいまだソ連軍に抑留され、収容所での強制労働に従事させられたままで、留守家族にはその安否すら知ることが出来なかった。
現に、私の養父(実父はすでにビルマ=現ミャンマーで戦死していた)は、ハルビンから抑留されたまま、その生死もわからないままに母と私は、ただひたすら待ち続けるしかなかった。
もちろんこの国はアメリカの占領下にあり、その主権すらなかった。そうした国家としての主権回復の第一歩が憲法の制定であり、新しい国体を形成することであった。
だから、ほぼすべての人がこの憲法を祝い、国のあちこちでは提灯行列なども行われた。まさにこれは戦後復興の大きなターニングポイントであり、新しい国家としての再生の第一歩であったのだ。
私たち小学生にも、憲法についての話があった。
そのひとつは、日本は先の戦争を反省し、もう絶対に戦争をしない国になったのだということであった。
そしてもうひとつは、国民は天皇の臣民ではなく、国民こそが国の主人公だということであった。さらにいうなら、すべてのひとは等しく幸せになる権利があるということだった。
そして、これからは、戦前のように上からの絶対的な命令によってではなく、国民が民主的手段によって自分たちの運命を決めてゆくのだということであった。
強調しなければならないのは、これらは当時の、ほとんどすべての国民のコンセンサスであったということだ。
もちろん、その背後にはあの辛くて苦しい戦争の日々の経験があり、そして今なお、冒頭に述べたようなその悲劇が継続しているという強烈な現状認識があった。
だから、新しい憲法は、それまでの暗黒に差し込む太陽の光のようなものであった。繰り返すが、それは再出発を志す国民の圧倒的多数の共通の思いであったのだ。
いまその憲法が、法そのものとしても、またその解釈においても、そのきわめて恣意的な運用によってそれを犯そうとする勢力に狙われている。国民にとっての不幸は、その侵犯行為が時の政権によって行われようとしていることである。
彼らの主張の根拠は、その制定時と比べて、国際的な条件が変わったのだということである。たしかに変わったし、ある種のきな臭さも漂っているとはいえる(そうした状況は現政権そのものにも責任があるのだが)。
しかしである、現行の憲法が制定された折には世界が、そしてこの国を取り巻く状況が平和で安定していたのかというと決してそうではなかったのだ。
世界的にいうならばいわゆる東西の冷戦はすでに始まりつつあったし、中国大陸では国共の内戦が激化しつつあった。
また、隣の朝鮮半島では、後に朝鮮戦争(正式の勃発は1950年)に発展する火種がくすぶり続けていた。
一言でいうならば、当時の東アジアは、問題がらみといわれる現在のそれよりもはるかに危険で戦火が現実的で身近な状況であったのだ。
そんななかにも関わらず、日本国民は、そうした武力による国際間の問題の処理を行わないこと、またそれら戦場での趨勢に武力をもってかかわらないことを自分たちの進路として、300万のこの国の戦争犠牲者と2,000万に及ぶ近隣諸国の犠牲者の前で誓ったのだった。
これはひとつの理念といっていいが、しかし何よりも、それ以前に、まずもって歴史的経験のもっともリアルな咀嚼の結果であった。 先にいったようにこの経験は、300万のこの国の戦争犠牲者と2,000万に及ぶ近隣諸国の犠牲者によって裏打ちされ、しかもその当時のきわめて日常的な状況を背景にしている。
そしてこれは、同様に「犠牲者を悼む」と称して靖国という味噌も糞も一緒にしたオカルティズムへの拝跪とはまったくベクトルを異にするものなのだ。
その例証は、彼らは死者たちの鎮魂を詐称しながら、そうした状況をふたたび繰り返さないようにするためにではなく、まさに戦前的な「日本を取り戻す」ことに利用しようとしているからだ。
こうした行為を鎮魂とはいわない。死者たちの霊安を乱し、かれらの死を今一度踏みにじることなのだ。
私は国民学校から小学校に変わった5月、私たちに説明されたこの憲法とともに生きてきた。だから、これをいたずらに黒い手でいじくろうとする向きには激しく抵抗せざるを得ない。
この月の初旬に行われた各種世論調査において、憲法を守ろうとする志向が昨年同期よりもいずれも10%以上多くなっていることは嬉しい限りである。
おそらく、現政権のあまりにも露骨な軍事志向への反動だろうと思われるが、そうした監視の目を緩めることなく続けてもらいたいものだ。
と同時に、「解釈改憲」という、独裁国家においてはいざ知らず、おおよそ法治国家においてはあってはならない暴挙にも引き続き目を光らせる必要がある。
爽やかのこの季節に生み出された新しい理念の憲法を、葬り去るようなことがあってはならない。
いっとき某政党による「反米愛国」なる語が叫ばれ犠牲者を出したこともありましたが、それもいっときのこで、ともかく平和の裡に半世紀を経ました。
しかし今、岩の連なりでしかないセンカクなる場所が一糸即発の状況にあります。
もはや社会主義国とはいえない中華意識満々の国に対して、この国は右から左(共産党)まで、「尖閣はまぎれもないわが国固有の領土」と宣言する国。
一発銃声鳴り響いた時、この国は相手国に負けまじと、「祖国防衛戦争」に一丸となるのではないか、そのことを怖れます。
アメリカ国民が岩山だけの無人島の領有争いに、中国との全面対決を賭して係ることを許容することなどありっこないのです。アメリカの国民はそんな馬鹿げた争いへの軍事的介入を決して許さないでしょう。
アメリカの世論は、ベトナム、イラク、アフガンと続く派兵の中で失われた多くの命や、その派兵の根拠の薄弱さに辟易としています。
そうした事態に嬉々としているのは戦争というものをリアルに考えたことのないあまちゃんの安倍氏とその周辺だけです。