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人間の性と愛 『パリ、ただよう花』を観る

2014-02-21 02:12:00 | 映画評論
 観る前に2、3の新聞評らしきものを読んだが、実際に観た感想からいうとどれも少し外しているのではないかと思った。
 それらによると、主人公の花(ホア)は自由奔放に男たちと体を重ね合わせてゆくように述べられているがけっしてそうではない。彼女は無作為に誰とでも寝ているわけではない。
 主としてその性行為の相手となるマチューにしたところで、半ば強姦に近い形の強引さで結びつくに至ったのだ。しかも、一旦そうなってからの彼女は、社会的階層が異なり、すれ違いも多いマチューとの性愛を大切にしている。

           

 ところで、性行為と愛情とを関係づけるのは人間特有のことだと思われる。もっとも、この「関係づける」ということ自身が人間の思考という特殊な営為に根ざすとしたら、これは何かをいったことにはならないのだろうが。

 問題は、人間の性行為が、動植物の子孫を残す(ためという目的意識に基づくのではなく本能的にそうなのだが)行為からみたら、それ自身「疎外された性」として特殊化されたものであるからだろう。
 人間の性は、人間が人間になった当初から、それ自身エンターティメントであり、儀式であり(天皇が執り行う新嘗祭や大嘗祭にはそれらが様式化されているという。ただしこの場合は生殖という共通概念による豊年の祈願と思われる)、ヨーロッパ中世の騎士道や、江戸の遊郭においての様式美の発露であったりするなど多様な側面を持っている。

           

 一方で、愛情と性行為を関連付ける歴史も古い。大半の人々はそうではなかった時代においてすら、各種の古典に見る限り、性行為は愛情の発露として固く結び付けられている。
 いわゆるプラトニック・ラブは、性行為を伴わないことによってその美学を貫徹するようであるが、しかしながらこれも、性行為を抑制することによる快楽や満足の追求であるとしたら、やはり性とは無関係とはいえない。

           

 かくして人間においては、性と愛情は結合されながらも微妙にねじれたありようとしてある。端的にいってしまえば、性行為のない愛情も、愛情なき性行為も、どちらも成立可能であるしそれらは相互に変化し相互転換さえする。そしてその狭間で、性行為や愛情の過剰や過不足などなどが取り沙汰されたりする。しかも人間の諸関係が社会的に規制される面をもつとすれば、それら男女の現実的な関係は多くの選択肢やバリエーションをもつ。

           

 ホアとマチューがまさにそれである。彼らの階層の差異は映画のなかで幾度も出てくるし、最後にホアがマチューの故郷を訪ねるシーンは象徴的である。
 パリという人びとの諸関係を溶解するような都会での肩肘張ったマチューの姿は故郷では見られない。ホアもまた、パリでのマチューとの関係とはその表情からして違う。それは彼女が、性愛というシーンから抜け出て、中国でのインテリ女性として准教授の妻となることを決意しながら、なおかつマチューとの性愛の日々を忘れがたいとする残響のようなものを伴って訪れるからだ。

           

 性行為と愛についての物語は正直いってわからないことが多い。これは私自身がこれまで生きてきた間に十分実感している。したがって、ホアにだってそれはわからないし、だから「ただよう」しかないのだ。
 そのただよう様子を、ハンディカメラの揺れる映像が寄り添うように捉えつくしている。

 全編にわたってポルノ映画のようにセックスシーンが登場する。しかし、観終わった印象としては、これはホアの純愛映画、少なくとも純粋な他者との関係を模索する映画なのだという思いが強い。

 彼女は『ボヴァリー夫人』のエマや『人形の家』のノラの末裔なのだが、時代に洗練されて、最終的にはきわめて理知的にも思える。それがいいことかどうか、私にはわからない。

 

コメント (5)
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