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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

20世紀はどこへ帰郷したのか?  映画『エレニの帰郷』を観る

2014-02-06 21:37:40 | 映画評論
 テオ・アンゲロプロスの遺作、『エレニの帰郷』を観た。
 もちろん、この「帰郷」は、空間的にはエレニとスピロスの故郷であるギリシャへのそれであるが、同時に、1999年の12月末を現在時点とした映画とあっては、20世紀自体の「帰郷」ならぬ「帰結」をも含意している。

           

 アンゲロプロスの映画に魅せられた初期の頃、舞台はギリシャを出ることはなかった。戦争と革命の世紀、20世紀のまっただ中にあって、ギリシャでもまた、現代史を凝縮したような事態が渦巻いていたことを私はうかつにも知らなかった。彼の描くギリシャには、紺碧の蒼穹にそびえる白亜のパルテノンとは全く違って、重く湿って、寒色系のいくぶん尖った質量感をもった空気が流れていた。
 そして人びとは、周辺国との軋轢をも絡んだ、現代史上の出来事にもみくちゃにされながら生きてきたのだった。これを強烈なタッチで描いたのが『旅芸人の記録』であった。

           

 しかし、この『エレニの帰郷』では、舞台はローマ、旧ソ連圏、オーストリア、ドイツのみならず、アメリカ、カナダにまで至り、逆に、出発点であり帰郷の地であるギリシャは、それと示唆されるでけで全く登場することはない。
 これは、初期の作品でのギリシャでの出来事が、実はその国境の中に収まりきらぬ事態であったことのおさらいのようなものであろう。そういえば、この監督の各作品での「国境」の占める意味はとても大きなものがあり、この映画でもそれが実写として重々しく登場する。ついでながら、空港での入国検査のシーンも、国境がらみといえる。人が画定したものでありながら、人を縛り、その通過に何らかの犠牲を求める存在としての国境・・・。

           

 物語は、20世紀中葉に青春を過ごした一人の女性エレニと、二人の男性、スピロスとヤコブの遍歴を軸としながら、三代にわたっている。そして、アンゲロプロス独自の時空を自由に行き来する映像のなかで彼らの過去がジグソーパズルのように次第に明らかになってくる。
 それは、いくぶん甘いいい方をすれば、迫り来る状況に対しひたすら受け身になるのではなく、人間の尊厳や「愛すること、愛されること」を手放さなかった人たちの物語といっていいだろう。
 彼らは、自分たちが何であり誰であるかを声高に語りはしないが、20世紀中葉を回顧するシーンでこんな会話がなされる。
 ヤコブ「別世界を夢見たあの夢はどこへ消えた?始まりは全て違っていた。風も吹いていた。空にも住める。そう思う人までいた」
 スピロス「誰かが言ったよね。歴史に掃き出された、と」

           

 『エレニの帰郷』はアンゲロプロスが「20世紀三部作」として企画した二作目に相当する。
 これが遺作になったのは痛恨の極みだが、彼が20世紀を総括し終えなかったように、私の中でもあの20世紀は今なお終焉してはいない。むしろ、昨今の状況を見るに、20世紀が提起しっぱなしにした問題が、例えば、度し難いナショナリズムや経済至上主義など人間の尊厳に対する桎梏が、悪夢のように回帰しているかにも思える。

 この映画の冒頭は、監督Aの以下の様なモノローグで始まる。
 「何も終わっていない。終わるものはない。帰るのだ・・・。物語はいつしか過去に埋もれ、時の埃にまみれて見えなくなるが、それでもいつか不意に、夢のように戻ってくる。終わるものはない」
 そういえば、この映画の原題は『The Dust of Time』であった。

           

 これまで、ネタバレにならないように語ってきたが、最後に、以下ののラストシーンのみ紹介しておこう。
 2000年のたぶん元日、雪のブランデンブルグ門を背景にして、スピロスと孫娘であるエレニとが手を取り合って笑顔で私たちの方へと駆けてくるスローモーションのシーンである。
 アンゲロプロスの最後の映画を飾るに誠にふさわしい情景であり、彼が私たちに残してくれた希望の萌芽ともいえる。

 ただし、私はまだ、自分の20世紀を葬る言葉をもたないままにいる。


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テオ・アンゲロプロスのサウンド・トラックを聴く

2014-02-03 17:46:15 | 音楽を聴く
 あまり集中できない性格だから、読書でも音楽でも映画でもつまみ食いが多いような気がする。
 集中的に没頭することができないのだろう。
 そういえば、小学校の頃の通知表の所見の欄にはいつも「落ち着きがない」と書かれていたような気がする。だから親も、「落ち着きなさい」というわけだが、落ち着くということがどういうことなのか分からないのだから仕方がない。とうとうそのまま、この歳まで来てしまった。

              
 
 そんな私だが、一つだけ集中して追い続けてきたものがある。
 それがテオ・アンゲロプロスの映画だ。この人の日本上映作品は一応全て劇場で観た。
 その彼が、「二〇世紀三部作」の構想のもとに、まさに二〇世紀を総括するような作品を企画し、その第一作が『エレニの旅』であり、その第二作が『エレニの帰郷』、そして第三作が『THE OTHER SEA (もう一つの海)』になるはずだった。「だった」と過去形で語るのは、この三作目を撮影中に彼が交通事故で亡くなってしまったからだ。もう、一昨年のことになる。

 したがって、今名古屋地区で上映中の『エレニの帰郷』が実質上の遺作となるわけだ。ということで、私としてはこれを観ずしては「画竜点睛を欠く」とばかりにガッチリ予定に組み込んだ。

           

 そんな矢先、上記の三部作にさらに先立つ三本の映画(『シテール島への船出』、『蜂の旅人』、『霧の中の風景』)のサウンドトラック盤のCDをいただいた。クラシック風から、ジャズやロック調のものまで多彩な音楽が収められたもので、作曲者は全て、エレニ・カラインドロウ(英:ヘレン・カレンドルー)という女性の手による。通して聴くと、その多彩な才能が伺えるのだが、なんといっても主流を占める北ギリシャの湿った重い空気感を表現した哀愁を帯びたものが良い。
 これを聴いていると、アンゲロプロスのちょっと暗い寒色系の(『蜂の旅人』はやや違ったが)映像が彷彿とする。そして、いくぶん飛躍するが、アンゲロプロス同様に二〇世紀を回顧するとき、こうした哀愁がまとわりついて離れないのである。その悲哀の根幹には、かつてこれほど多くの人工的な死者を生み出した世紀はなかったという重い事実がつきまとっている。

           
              アンゲロプロス監督のための献花台

 さて、CDに戻ろう。このエレニ・カラインドロウというひと、『シテール島への船出』以降のアンゲロプロス全作品の音楽を手がけているようで、私がもっとも強烈に覚えている『ユリシーズの瞳』のなかで、確か、キム・カシュカシャンのヴィオラが何度も奏でるいたたまれないほどの悲哀に満ちたメロディも、きっとこの人の手になるものだろう。
 『エレニの帰郷』の中では、この人はどんな音楽を聴かせてくれるのだろう。
 前作に続き、映画のタイトルの中に彼女の名前が入っているとあって、もちろんその映像に則した素晴らしい音楽を聴かせてくれることだろうと期待はいや増しに膨らむのである。
 
 

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柳ヶ瀬・岐阜・市長選

2014-02-02 02:17:43 | よしなしごと
 視覚障害があって、ユニバーサル機能でこれに接していらっしゃる方がいたらお許し頂きたい。
 というのは、私自身はどうも視覚人間で、視覚による刺激がもっとも届きやすくできているようなのである。 

 だから、日記やブログによく写真を載せるが、なにか書くべきテーマがあって、そのためにそれに則した写真を撮ったり載せたりというより、どこかふらついいていて、「あ、これ面白そう」と写真を撮ってしまってから、それに付随した文章をひねり出すほうが多いような気がする。

           

 ここに載せた写真は、過日、岐阜の柳ヶ瀬で人と逢って別れたあと、バスの時間まで20分ほどあったのでそのへんで撮ったもの。
 かつては歩くのに人と肩が擦れ合ったという繁華街だが、まだ午後8時前というのに閑散としていた。

           

 地場産業の繊維二次加工(布地から衣服を作る=縫製加工)がその労働集約性からして成り立たなくなり衰退してから久しい。
 駅前の繊維問屋街は今や3分の2以上が死に体である。

           

 かてて加えて、県都でありながら、おとなりの名古屋と近すぎる。JRの快速でわずか18分の距離である。これは名古屋市内の周辺の区よりも名古屋の中心部にはるかに近い。

           

 だから、名古屋のベッドタウン化しつつある。
 実のところ、それでもいいのではないかと思っている。
 山河の自然には恵まれているのだから、これで文化施設などを充実させて、快適なベッド・タウンにすればいい。
 死に体の繊維問屋街を擁する駅前の再開発は、名古屋へ通勤する人たちのための高層マンションやアパートを林立させて、人を誘導すればいい。
 そうしてひとが増えれば、その家族などの岐阜での消費も増え、いまでは名古屋にとられてしまっている物品販売や飲食も多少は息を吹き返すのではあるまいか。

           

 今日は、岐阜市長選挙である。
 東京では、共産党に押された宇都宮氏が細井陣営との調整を頑なに拒否したが、この岐阜市では、れっきとした自民党の市会議員を共産党が積極的に支持するという奇妙な図式が見られる。
 政策協定が成立したというから、自民党と共産との政策はさほど違わないということだろう、たぶん。

 なんか、どんどん話がそれてゆきそうだからもうやめよう。




 

コメント (3)
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