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【人の生と死】 オイディプス三部作とアンティゴネー

2014-02-23 17:49:31 | ひとを弔う
 オイディプス王の物語はほとんどの人が知っているだろう。精神分析学でのエディプス・コンプレックスの由来がこの王によるものであることから、数あるギリシャ悲喜劇の登場人物のなかでもっとも著名といっていい。
 
 母を挟んでの父子関係の葛藤と、その段階からの離脱による自立の物語として知られるフロイトの提示したイメージはあまりにも有名なため、そちらの方面から解釈される向きが多いが、その背景には人の命運に関する皮肉ともいえる物語がある。

 機会があって、ソポクレスによるこのオイディプスとその子らをめぐる悲劇の三部作(その舞台である地名をとってテーバイ三部作ともいう)を読んだ。『オイディプス王』『コロノスのオイディプス』『アンティゴネー』の三冊である。

           
 
 テーバイ王の子、オイディプスの生誕時、「この子は父を殺し母をめとる」という神託があり、彼は荒野へと放逐され殺されることとなる。しかし、助けられて成長し、引き寄せられるように祖国テーバイへと向かうのだが、その途次、それと知らぬまま父であるテーバイ王を手にかけてしまう。テーバイへ入った彼は、残された未亡人である王妃、つまり自分の母と結婚し、男女2人ずつの子どもをなすに至る。

 こうした事実が、時系列に展開されるのではなく、推理小説の倒叙法のごとく事後的に明らかになってゆく過程がソポクレスの作劇術の巧いところだ。
 オイディプスはことの成り行きに絶望し、王位を捨て自らの目を潰し、さすらいの旅にでる。彼の母であり妻でもあった王妃・イオカステは自らの命を絶つ。

 実際に書かれた順序は違うようだが、その続編ともいうべき『コロノスのオイディプス』は彼の娘であり妹(同じ母から生を受けたのだから)でもあるアンティゴネーとのさすらいの旅を描いたものであり、同時に、彼の息子(であり兄弟である)二人のテーバイの跡目相続をめぐる争いが示唆される。
 しかし、もっとも大きな出来事は、オイディプスその人が、娘たちにすら知らせぬ墓地におもむき、ひっそりとその生を終えることである。
 コロス(合唱団)は歌う「あまたの苦しみが、ゆえなくしてあの人を襲ったが、その報いに正義の神はふたたび彼を高められることだろう」と。

 三部作の最後はオイディプスのさすらいに寄り添った娘、アンティゴネーの物語である。
 ただし、この物語と前の『コロノスのオイディプス』の間にはテーバイの支配をめぐるオイディプスの息子(であり兄弟である)二人(ポリュネイケスとエテオクレス)が相争う戦いがあり、なんと二人は刺し違えてともに死んでしまっているのだ。
 そしてテーバイの支配権はいまや、かつてのオイディプスの母であり、同時に妻でもあったイオカステの弟であるクレヨンの手にある。

 舞台はその骨肉相争う戦が終わった後、二人の死者(オイディプスの息子たち)の葬儀を巡る問題として展開される。 
 それは新しい支配者クレオンがテーバイの城にいて戦ったエテオクレスの埋葬は認めたものの、他国の軍勢に援助を受けたポリュネイケスの埋葬を認めず、野ざらしにし、鳥獣の蹂躙するままに任せたことにある。しかも、その葬儀を行おうとする者は死罪にするという掟を設ける。

           

 この措置をめぐりオイディプスの娘にしてポリュネイケスの妹であるアンティゴネーは激しく抗議し、聞き入れられぬや自身の手によってその埋葬を行おうととする。それらは、クレオンの配置した番人に見つかるところとなり、彼女は捉えら死罪を申し渡される。
 この宣告に対し、テーバイの長老たちからなるコロス(合唱団)は婉曲にその翻意を促すがクレオンは聞き入れない。さらに、その息子にしてアンティゴネーの婚約者、ハイモンが助命を請うがこれも退ける。そしてこの国の節目ごとにその助言でもって貢献してきた老いたる預言者、テイレシアスの諌めをも聞き入れようとしない。

 しかし、さすがにこの預言者の言葉は心に残ったのか、コロスの言葉にも耳を傾けたクレオンが、アンティゴネーを幽閉した場所へ足を運ぶのだが、その時、悲劇の全てはすでに終りを迎えていた。 
 自死したアンティゴネーの傍らでは息子のハイモンが寄り添うように自ら命を絶っており、それを嘆くクレオンのもとにさらに悲報が届く。それはハイモンの母にして彼の妻、王妃エウリュディケーもまた自らを刺し貫いたというのだ。

 かくして、オイディプスに端を発するテーバイの悲劇は終焉するのであるが、フロイトならずとも、これらの物語から幾多の教訓や典型などを見出したくなるであろうし、事実、学問や文学、芸術などに多くの二次作品を生み出すこととなった。

 ここでは私は、クレオンとアンティゴネーの関係に絞って考えてみたい。
 
 新たな王、クレオンは現世の人であり、リアリズムの人である。したがって、金銭による関係への猜疑が深い。
 これは、禁止したポリュネイケスの埋葬に誰かが金銭で雇われてその禁を犯すのではないかと考えたり、あるいは長年の信用でもってその地位にある預言者、テイレシアスの予言もまた、金銭によって歪められているのではと疑い、預言者によって諌められる場面もある。
 彼が現世の人でリアリストだというのは、この世で生きる人たちを金銭によるネットワークの範囲内で解釈しようとするところに端的に現れている。

              

 これに対するにアンティゴネーは現世のみならず、前世や来世ともつながっている。
 それが埋葬への固執に現れている。
 人びとはすでにして多くの人が暮らすこの世へと生誕によって現れ、そして死によって去ってゆくのだが、それにより、新しいものが加わったり、伝統的なものに変化が及んだりする。それが、人間の世界への登場と退出のありようである。したがって、人を葬るということは過去や未来の可能世界とのつながりの儀式であり、人間自身が自分の有限性を自覚するがゆえに普遍的な歴史の展望のなかに自らを見つめる契機でもある。

 人を葬るという行為は、言語などと相前後し、人間がその世界を自覚的にもつようになった始まりだという。したがって死者を弔うという行為は、時間的にも空間的にも、まさに復数の人びとと共有している世界自身の現れであるといえるのであり、反面、そこに住む人々の世界への帰依のありようなのである。

 リアリスト・クレヨンはそれを理解し得ない。したがって、過去や未来とのつながりに生きるアンティゴネーを否定するものとして現れる。しかし、それは同時に自分が複数の人たちと生きていることへの無自覚にも通じる。
 したがって彼は、すべてを、つまり彼の愛する者たちすべてを失う。それはもちろん、彼自身が、それら周辺の人々の生きる術やその視野をまったく理解しようとせず、それらを顧みることなく否定し続けたからであった。

 神託から逃れようと務めたにも関わらずその通りになってしまったオイディプスの悲劇は、一見、「神託」という超絶的なものに支配され、ひとの努力によっては如何ともしがたく思えるのだが、それでもなお、オイディプスの孤高な後半生は、それをも実存の条件として生き抜いてゆく物語だし(『コロノスのオイディプス』)、娘にして妹のアンティゴネーの行為は、この天と地の間で人びとの織り成す世界へと死者を、そして何よりも、自分自身を敢然として挿入してゆく物語といえる。

 悲劇はそれ自体人間の弱さではない。神々の神託や人間の掟などをその実存の条件としながら、それを生き抜いてゆく人間への賛歌でもある。


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