6人部屋の病室 左側の真ん中に私はいた
標題のように、無事退院いたしました。
とは言え完治状態ではなく、病院にいる必要はなくなった程度ですから、まだ微熱はあり、グスングスンいっております。来週は通院です。
1950年代になって、ストレプトマイシンなどの抗生物質が普及するまで、結核は不治の病とされ、病死者も多く、またその治療などは長期化するのが常でした。
富裕層は高原のサナトリウムなどでゆっくり治療できましたが、そうではない人たちは日常的な空間のなかでその回復を待つしかなかったのです。
映画や芝居などでは、日当たりの悪い長屋の一室でゴホゴホといいながら臥せっている父のために、特効薬といわれる朝鮮人参を手に入れようと、娘が身売りをするいう話がよく登場したものです。
(この場合、父←→娘ですが、その他の対応、父←→息子、母←→娘、母←→息子はあまり出てこないのは一考の余地がありそうです。)
また多くの文学者が身近なものとして結核を描いたため、「結核文学」というわが国独自の分野が形成されたりもしました。実際のところ驚くほど多くの文学者がこの病の犠牲になっています。正岡子規、高山樗牛、国木田独歩、樋口一葉、滝廉太郎(音楽家)長塚節、石川啄木、竹久夢二(画家、詩人)梶井基次郎、堀辰雄(「風立ちぬ」)新美南吉などなど。
結核ではなかったのですが気管支炎で一週間ほど入院していました。
その間、最初の3日ぐらいは高熱や喉の痛みで全く余裕がありませんでしたし、快方に向かってからも色々課題があってさして暇でもありませんでした。目覚めるとパソコン相手にポニョポニョと文章を書いたりしていました。
しかし、どこへも出かけないというのはやはり楽なものです。私たちはどこかへでかけ、何かをして帰ってくるという過程で、かなりのエネルギーと時間を要しています。それだけに、出かける場合、その行程を含めて楽しく豊かなものでありたいものです。
話がそれました。
病室でのつれづれに若干のうたなどを詠んでみました。
短歌などは百人一首か啄木しか知らない私の、はじめの一歩です。
むろん、「気管支炎文学」などと名乗るつもりも毛頭ありません。
・名月や点滴の玉煌めきぬ
(9月19日 限られた病室の窓から月は見えませんでした)
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・熱高し第25番ト短調 エンドレスにて頭蓋を巡る
・地底から突き上げるごと咳激し 抗う術なく老躯が揺れる
・落下する点滴の玉 玉玉玉 時間と命かくて連らなる
・赤白は食後 緑は食間と 作用も知らず薬分けたり
・検査とて吸い上げられしわが血潮 いつ頃どこでできたものやら
・わたくしを囲む家族にみるデジャ・ヴ かつては囲む側にいたのに
・どこへでもいつでも一緒深い仲 点滴棒と同行二人
・経口食なく五日目の朝迎う われは水耕栽培人間
・怒れることあり病室に帰り来て そを反芻しひとり虚しき
・病室にこもりてよりの一週間 私がいなくも世界は動く
(ただし、重くて暗い世界。 Do you think so?)
*今日の日記は支離滅裂。病み上がり途上のうわ言としてご容赦。