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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【ある思考実験】琉球独立論の根拠と可能性について 

2013-09-27 10:35:52 | 歴史を考える
         

 詩誌「あすら」拝読いたしました。
 ご送付へのお礼、ならびに感想などのご返事が遅れましたのは、よんどころない入院のせいですから何卒ご容赦ください。以下、感想のようなものですが、状況が状況だけに粗雑なものにとどまります。
 
 ただし、内容については本土の私たちが知っておくべき点を多々含むように思いますので、本来は貴姉への個人的な返信ではありますが、それを同時に拙ブログで公表させて頂きます段、何卒お許し下さい。
 また、問題の性格上、詩誌での論者各位との正面からの応答というより、それに触発された愚見の陳述に終わっていることもお断りいたしておきます。

 この詩誌の【特別企画】<琉球の帰属について・・・・>では、尖閣諸島の帰属問題が沖縄=琉球の帰属問題をも浮び上がらせているという共通認識のもと、その歴史を回顧しながら問題の所在を見出そうとする二つの論文がが紹介されています。
 前者は、以下に述べるような歴史的事実を顧みることなく、冷静な対応を欠いた日本社会の行く末の危うさを指摘し、後者は、やはりそれらを隠蔽したまま「国民国家を形成する民族」という概念が跋扈することを危惧し、国民国家の境界を越えること、そしてそのために国家という枠組みそのものの再検討をすること自らの課題として提示しています。

 さてここで語られている歴史上の共通認識とはなんでしょうか。
 それこそ、本土の私たちや、ある意味では沖縄の人びとからも隠蔽されている歴史的事実だと思います。
 それは19世紀の末まで、琉球は当時の清国や日本から冊封を受けるという東アジア的な意味での帰属関係にあったものの、この冊封という制度そのものは相手を独立した国家とみなしたうえで成立するものですから、したがって琉球は独立した国家として存在したということなのです。
 この関係が打ち破られるのが1879(明治12)年、清国の衰退につけ込み、日本が軍隊を派遣し、琉球王朝にピリオドをうち、沖縄県として日本への武力併合を強行した時点なのです。
 ようするに、明治12年までは、沖縄は連綿として独立した琉球という国家だったということなのです。
 ここが肝心なところです。

 <Wikipediaより>明治政府は、(琉球に対し)廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三迫ったが、琉球が従わなかったため、1879年3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで、3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、4月4日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされ、沖縄県令として鍋島直彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった(琉球処分)。

 
          

 以上が沖縄併合の様子ですが、この「琉球処分」というのはその当時から日本側によって用いられた言葉です。 

 ところで、1945(昭和20)、日本の敗戦に伴い、日本が明治以降併合したり実効支配をしていたすべての地域や国家は、日本の支配から解放され、それ以前の状態に戻されました。台湾も朝鮮半島も、中国大陸の一部、それに千島樺太などもそうでしたが、沖縄=琉球のみが戻されぬまま、アメリカの統治下に置かれました。
 
 さて、以上述べた経緯のなかに琉球独立論の根拠があります。
 ようするに、琉球の独立というのは、日本の一部が独立するということではなく、もともと独立した国家であった琉球がその主権を回復するということなのです。私は若いころ(1960年頃)、こうした考えを持った沖縄からの「留学生」(まだ米国の管轄下にあったのでそう呼ばれていました)と知り合ったことがあります。
 彼は琉球の独立を主張し、当時、本土では右から左まで一致してやみくもに叫ばれていた「沖縄返還」とか「本土復帰」というスローガンにはそっぽを向いていました。
 
 しかし、結果として沖縄は、日本がアメリカの占領下から脱した1951年のちょうど20年後、1971年、アメリカから日本へと引き渡されたのでした。
 それ以来、沖縄の日本への併合史は前期の1892~45の63年、後期の71年から2013年の42年間になりますが、1429年からの長い琉球王朝の歴史から考えると、簒奪された歴史はそれほど長くはありません。
 
 沖縄=琉球はなぜ他の地域のようにその主権を回復されることなく、日本に引き渡されたのでしょうか。それはやはり日米間に安全保障条約という軍事同盟とそれを巡る地位協定などがあり、米軍の東アジアでの最大の基地を維持するためには日本の領土にとどめておいた方が何かと都合が良かったからだと思います。なおアメリカは1854年、黒船来航時には琉球を独立国家とみなし、琉米修好条約を締結しています。
 
 こうして琉球の主権回復問題と米軍の基地網の存在とは当初から密接に絡み合っていたのだと思います。その証拠は、後に明らかになったように、1971年の日本への引き渡しに伴なっても、沖縄の人びとを愚弄するかのような日米間の密約が幾重にも付されていたのですが、その詳細は割愛します(いわゆる西山事件として有耶無耶にされたものです)。

 ところで、琉球が沖縄県として再び日本に統合されてから40年が経過したいま、独立論を論じるのは唐突かもしれません。
 しかし、再併合の際、それが日米間の取引として行われ、琉球の主権回復が具体的選択肢としてちゃんと提示されないまま終わったことを考えるとき、今一度、沖縄の人たちの間で議論があってもいいように思います。
 もちろん、具体的な選択は沖縄の人びとによってなされるべきことはいうまでもありません。

         
 
 さて、独立の困難性にも触れておきましょう。
 もちろん、日米両国の最後には軍事を伴う弾圧があることは当然予想されますが、それはさておくとして、独立を選択することに伴う問題点です。
 それは沖縄もまた日本本土と同様、いわゆる、グローバリゼーションの波に洗われてしまっているということです。この場合のグロバリゼーションとは、各種欲望の普遍化、肥大化、そしてそれによる生産力拡大への飽くなき追求の過程に組み込まれてしまっているということです。
 したがってもし、沖縄が独立するとしたら、現在よりもはるかに低い生産力のもとで、つまり、はるかに少ない諸欲望の充足に踏みとどまりながら、新たなバランスの回復の上に生活を構築して行けるかどうかが試金石になります。

 しかし、実はこの問題はこと沖縄に関するにとどまらず、極めて普遍的な問題なのです。
 今や、一九世紀に端を発する産業革命とそれを推進した資本主義というシステムは、膨大な商品群を生み出し、それらを貨幣として回収するために、それら商品への欲望を地球規模で拡散・拡大させます。それがグローバリゼーションの実態であることはすでに述べたとおりです。
 この無際限で無政府的な商品の大海は、もはや人びとに何が適切な消費であるかを考える余地すら与えず迫り続けています(その典型例が現今の中国です)。

 沖縄というと私たちは海に囲まれた恵まれた自然、オバアたちの伝統としきたりや自然との調和に満ちた豊かな生活、などなどをイメージします。
 しかし、それらがあえて強調されるのは、それらは残存してはいるものの、次第に失われゆくもの、ないしは痕跡として記念碑的にとどめおかれているものだからではないでしょうか。

 こんなことは書きたくはありません。
 しかしこれが全国の津々浦々で、高度成長期以来起こってしまったこと、そしていくつかの民俗風習を闇のなかに葬ってきたことの実際なのです。
 沖縄諸島が中央からの距離が遠いだけ、かつての自然とのバランスをもった文化が今なお残っていることを祈りたいと思います。
 そしてそれらが維持されているようなら、琉球独立はまったくの夢物語ではなく、いつの日にか、琉球独自の文化をもった自治の島として可能性につながるものがあるような気がします。

 少なくとも沖縄は、すでにみた武力併合の歴史から見ても、そしてその後の地上戦の体験からしても、さらには現状の基地でがんじがらめの状況から見ても、日本の中の特異点であることは間違いありません。
 そして、それは同時に、沖縄を「特異点」とすることによって生き延びてきた「本土」の私たちが思考すべき問題をも突きつけているといえます。
 
 以上はささやかながら、頂いた詩誌の所収論文に対する私の反応です。
 まとまりのないものになってしまって申し訳ありません。


なお、ネット上では、中国が沖縄を狙っているという書き込みがけっこうあります。上の私の取りまとめは、もちろんそれに与するものではありません。むしろ、ここまで蹂躙されてきた沖縄の可能性の条件のようなものについてのひとつの思考実験です。
詩誌でありながら、掲載された貴姉のお作などへの感想が後になりました。
 こちらの方は貴姉宛の別便にて送らせていただきます。



 

コメント (3)
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