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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

PCの掃除をしていたら出てきたメモ

2011-02-05 17:32:03 | 歴史を考える
   
 
 パソコンを整理していたら、何かの勉強の折にノートした断片が出てきた。
 捨ててしまうのももったいないので、ここに再録しておく。
 なお以下は、ここに再録するにあたって私が追記した部分。




ドイツ青年運動
 ワンダーフォーゲル(渡り鳥)運動  左右民族進歩反動が混合
 遠足によるコミュニケーション
 第一次大戦後、ややこしいことに、左派も右派もキリスト教徒もユダヤ人もこぞって
ドイツ精神を熱烈に復興しようとした
 やがてナチズムへと吸収  失われたゲマインシャフトへの郷愁か


私の学生の頃、ワンダーフォーゲル部というサークルが各大学にあって、第二山岳部
(現在のトレッキングスタイル)などと揶揄されながらも結構盛んであったが(現在の
合コン風?の人気)、今でも存在するのだろうか。
 もともと日本への導入は1933年、当時のドイツとの友好国関係の中で、文部省主導
で始まった運動のようだ。


 
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「わが闘争」でヒトラー自身が「私はボルシェヴィズムから最も多く学んだ。」と言っ
ている その点の明確化
 ドイツの窮状、国際資本からの抑圧 それらをユダヤのせいにする
 今日もある論理 確かにユダヤ資本は民族そのものが国境を持たなかったその歴史的
特質として国際的だった
 しかし、それらの抑圧性は、民族としてのユダヤ性の内にあるのではなく、その段階
での国際金融資本のありようにこそあった
 生物学的優生学という疑似科学による「ユダヤ人種」としての対象化と差別の形成 
 そして、全面的抹殺へ
 
 それ以前から、人間の金銭欲に関する部分をユダヤ人へと対象化して憎悪するという
風習はヨーロッパに遍在していた 「ヴェニスの商人」 (vsキリスト教)
           
                 (マルクスやサルトルのユダヤ人問題の解明)


この差別の構造は対ユダヤ人に限らず、例えば日本での嫌中嫌韓の言説の下敷きとし
てほの見えるものである。
 ようするに歴史的に形成されたきたもの、彼我の諸関係で生み出されてきた状況を相
対化して見ることが出来ず、すべてを相手の内面的本質としてしまう見方。
 こうした見方は相互の憎悪のスパイラルに発展しやすく危険である。

 

コメント (1)
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私の時間と五つの時計

2011-02-04 04:27:28 | よしなしごと
 私たちに与えられた時間は物理的に算定された時間で、それは私の、あるいはあなたのリアルな時間ではないように思います。
 
 楽しみを期待する時間はなかなか来なくて、来たと思ったら瞬く間にに過ぎ去ってしまいます。
 哀しみの時間はあっという間に不意を襲い、しかも長く居座ったりします。
 あるいは、宿題のように何かをしなければならない期限はどんどん迫ってきます。

 このように時間は、私たち個人個人にとっては決して均質で一様なものではありません。
 私は私の時間を生きていて、その長短や経過の速さは専ら私の事情によります。同様に、あなたはあなたの時間を生きています。
 
         
           これは岐阜県立図書館の庭園のもの


 物理的に算定された時間は、そうした私の時間やあなたのそれなどの固有の時間をすりあわせる基準にしか過ぎないのではないでしょうか。
 あなたと私が出会う約束をするとき、そこでは物理的時間が基準となります。
 ただし、「ちょっと遅れるかも」とか「ちょっと早めに」という基準はもはや物理的時間のそれではないでしょう。

 列車や航空機の発着時刻などは出来うる限り物理的時間に忠実であろうとします。日本の列車の時刻表の信頼度は世界一だといいますが、JR福知山線脱線事故もまた、その日の遅れという事情から、物理的時間に限りなく復旧するためであったのが原因であったといわれています。

 それはともかく、私たちは自分の時間と物理的なそれとをすりあわせるために時計を見ます。それによって自分の行為を早めたり緩めたり調節しています。

 私は名古屋などへ出る際、自転車で約2キロ離れた駅へと向かいます。
 出かける前に時計を確認し、今出発すれば何分の列車に乗れるかの見当をつけて出かけます。
 私が駅まで到着する道程には5個の街頭時計が設置されていて、しかもそれはほぼ等間隔にあって、私がペダルを漕ぐ動作の基準となっていました。

       
           これはいつも5分ほど進められている

 その最初のものは、ある大きな酒の販売会社のものですが、これは正確には当てに出来ません。なぜなら、その時計は常に5分ほど進められているからです。当初は進んでいるのに気づかないからかなと思っていましたが、何年経ってもそのままだということでそれが故意に為されていることを知りました。
 つまり、配達などに遅れないように、管理上の配慮で進められているのです。
 しかし、社員はすべてそれを知っていますから、それによる労務管理上のメリットがあるのだろうかと考えてしまいます。

 その次は、ある化粧品の会社に取り付けられていました。こんな風に過去形で書くのは、それがもはやないからです。
 その化粧品会社は、「日本女性党」の支部らしく、選挙前にはポスターが貼ってあったり、選挙カーが駐車していたりします。
 ここは信号のある交差点の角で、絶好のチェックポイントだったのですが、いつのまにか時計がなくなってしまいました。

 次もなくなってしまった時計です。それは農協の支店のようなところにあったのですが、それが取り壊されるとともになくなってしまいました。去年のことです。
 ちょうど駅までの中間点ぐらいのところでしたから、やはり一つのチェックポイントを失ったことになります。

       
           これは正確 事実上の最終チェックポイント

 次はやはり信号のある交差点にある銀行の時計です。ここでおおよそ、何分の列車に間に合うかどうかを計測します。間に合いそうならペダルを激しく漕ぎます。間に合いそうになければゆっくりと進みます。

 最後のチェックポイントは駅の南口にある時計です。
 これを横目に見て、早足で歩くかゆっくり歩くかを最終的に判断します。

       
       家を出たのが2時ですからここまで約15分を要しました

 本当はこんなにいちいちチェックする必要はないのです。名古屋方面への列車は一時間に8本ほどあって、一つ遅れてもたいした時間差ではありません。にもかかわらずこんなにこまめにチェックするのは、冒頭に述べた私には私の時間があるという理屈とは激しく矛盾していますよね。

       
         名古屋オアシス21の時計 背後はTV塔

 
 私はすっかり物理的時間による制御に飼い慣らされているようです。
 そしてそれが世間様とのお付き合いのルールでもあるようです。
 最初の酒の販売会社の時計を進めるやり方に懐疑を付しましたが、それはそれで効果があるのかも知れません。特に私のように世間様の目を気にしてこそこそ生きている身にはです。

コメント (4)
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