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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

私の時間と五つの時計

2011-02-04 04:27:28 | よしなしごと
 私たちに与えられた時間は物理的に算定された時間で、それは私の、あるいはあなたのリアルな時間ではないように思います。
 
 楽しみを期待する時間はなかなか来なくて、来たと思ったら瞬く間にに過ぎ去ってしまいます。
 哀しみの時間はあっという間に不意を襲い、しかも長く居座ったりします。
 あるいは、宿題のように何かをしなければならない期限はどんどん迫ってきます。

 このように時間は、私たち個人個人にとっては決して均質で一様なものではありません。
 私は私の時間を生きていて、その長短や経過の速さは専ら私の事情によります。同様に、あなたはあなたの時間を生きています。
 
         
           これは岐阜県立図書館の庭園のもの


 物理的に算定された時間は、そうした私の時間やあなたのそれなどの固有の時間をすりあわせる基準にしか過ぎないのではないでしょうか。
 あなたと私が出会う約束をするとき、そこでは物理的時間が基準となります。
 ただし、「ちょっと遅れるかも」とか「ちょっと早めに」という基準はもはや物理的時間のそれではないでしょう。

 列車や航空機の発着時刻などは出来うる限り物理的時間に忠実であろうとします。日本の列車の時刻表の信頼度は世界一だといいますが、JR福知山線脱線事故もまた、その日の遅れという事情から、物理的時間に限りなく復旧するためであったのが原因であったといわれています。

 それはともかく、私たちは自分の時間と物理的なそれとをすりあわせるために時計を見ます。それによって自分の行為を早めたり緩めたり調節しています。

 私は名古屋などへ出る際、自転車で約2キロ離れた駅へと向かいます。
 出かける前に時計を確認し、今出発すれば何分の列車に乗れるかの見当をつけて出かけます。
 私が駅まで到着する道程には5個の街頭時計が設置されていて、しかもそれはほぼ等間隔にあって、私がペダルを漕ぐ動作の基準となっていました。

       
           これはいつも5分ほど進められている

 その最初のものは、ある大きな酒の販売会社のものですが、これは正確には当てに出来ません。なぜなら、その時計は常に5分ほど進められているからです。当初は進んでいるのに気づかないからかなと思っていましたが、何年経ってもそのままだということでそれが故意に為されていることを知りました。
 つまり、配達などに遅れないように、管理上の配慮で進められているのです。
 しかし、社員はすべてそれを知っていますから、それによる労務管理上のメリットがあるのだろうかと考えてしまいます。

 その次は、ある化粧品の会社に取り付けられていました。こんな風に過去形で書くのは、それがもはやないからです。
 その化粧品会社は、「日本女性党」の支部らしく、選挙前にはポスターが貼ってあったり、選挙カーが駐車していたりします。
 ここは信号のある交差点の角で、絶好のチェックポイントだったのですが、いつのまにか時計がなくなってしまいました。

 次もなくなってしまった時計です。それは農協の支店のようなところにあったのですが、それが取り壊されるとともになくなってしまいました。去年のことです。
 ちょうど駅までの中間点ぐらいのところでしたから、やはり一つのチェックポイントを失ったことになります。

       
           これは正確 事実上の最終チェックポイント

 次はやはり信号のある交差点にある銀行の時計です。ここでおおよそ、何分の列車に間に合うかどうかを計測します。間に合いそうならペダルを激しく漕ぎます。間に合いそうになければゆっくりと進みます。

 最後のチェックポイントは駅の南口にある時計です。
 これを横目に見て、早足で歩くかゆっくり歩くかを最終的に判断します。

       
       家を出たのが2時ですからここまで約15分を要しました

 本当はこんなにいちいちチェックする必要はないのです。名古屋方面への列車は一時間に8本ほどあって、一つ遅れてもたいした時間差ではありません。にもかかわらずこんなにこまめにチェックするのは、冒頭に述べた私には私の時間があるという理屈とは激しく矛盾していますよね。

       
         名古屋オアシス21の時計 背後はTV塔

 
 私はすっかり物理的時間による制御に飼い慣らされているようです。
 そしてそれが世間様とのお付き合いのルールでもあるようです。
 最初の酒の販売会社の時計を進めるやり方に懐疑を付しましたが、それはそれで効果があるのかも知れません。特に私のように世間様の目を気にしてこそこそ生きている身にはです。

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4 コメント

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Unknown (さんこ)
2011-02-04 11:04:37
最後の写真を見て、あっと言っている人がいます。
長年、名古屋に住んでいるのに、こんな時計が、オアシス21にあるなんて、知らなかったそうです。

私たち、21世紀の人間や、動物は、時間泥棒に時間を掠め取られて、ゆったりと流れる時間を、無くしてるのかも知れませんね。
 もじゃもじゃ頭のみなしご、モモに時間泥棒をやっつけてもらうことは、もう不可能な状態なのでしょうか。
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Unknown (maotouyin)
2011-02-05 00:03:20
例えば私が村を出て、30分歩いて招賢まで行き、そこから1時間ほどバスに乗って離石(規模的には岐阜市くらい?)の町まで行ったとします。まず銀行でお金を下ろし、町一番のスーパーで買い物をし、ケンタッキーに入ってお昼を食べ、ネットの料金を払いに通信会社に行って、またバスに乗って村に帰るまでに、街頭や建物の壁などで時計を目にすることはないのです。
その代わりにというか、12時とか午後3時など、拡声器でピンポ~ン!とお知らせが入ったりします。腕時計をしている人もほとんど見ません。
理由は簡単で、必要としないから、あるいはあっても役にたたないからです。
私たちが一番時計を気にするのは、やはり交通機関に乗るときだと思うのですが、こちらでは“定刻運行”という文化がまだないのです。だいたいの時間は決まっていても、席が埋まらないとまず出発しないし、代わりに、ケータイで「今から3人行くから」などという連絡が入れば、ちゃんと待ってくれます。
出勤や登校に困らないかというと、困らないのです。こちらでは職場も学校も、基本的には“全寮制”で、朝の6時にジリジリ~ッ!とベルを鳴らせば、時計はいりません。もちろん最近はこの伝統も崩れてきていますが、それでも、バスターミナルの壁にすら時計はありません。
村人はもちろん、日の出日没と陽の高さ、腹時計でしょう。部屋の壁に時計がある家も少ないです。
しかし、最近離石に鉄道が開通し、太原、北京に向けて定刻に列車が運行されるようになりました。今回は見落としましたが、離石駅にはおそらく、立派な時計が設置されているのではないかと思います。
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Unknown (bb)
2011-02-05 11:34:29
老教授がさまよう真昼の街角には、たしか、針のない時計がありました(イングマール・ベルイマン「野いちご」1957)。キャプテン・アメリカ(ピーター・フォンダ)は、新しいバイクで旅に出るとき、はめていた腕時計を道に投げ捨てましたね(デニス・ホッパー「イージー・ライダー」1969)。孫たちの目覚めの時間を訊いたとき、「陽射しがもれてくるころ」という娘に、あいまいだとむくれたことを、目下反省中であります。
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Unknown (六文錢)
2011-02-05 13:35:42
 三者三様の時間に関する興味あふれるコメント、ありがとうございました。
 軍隊や学校、監獄や役所など管理性の高いところほど私やそれぞれの個の時間が共通の時間、公の時間に奪われて行くということでしょうか。
 そして、それが社会全体に広がったいわゆる管理社会・・・。
 まさに私の時間が盗まれる事態です。

 幼少時過ごした農村では、天皇陛下の写真はあっても時計のないうちがまだありました。私が疎開していた離れのバラックにも時計はなく、必要なときは母屋にあった柱時計を見に行きました。
 maotouyinさんのおっっしゃる「日の出日没と陽の高さ、腹時計」に近い時代だったと思います。

 中国においても、やがてそれらが公の時間のなかに組み込まれて行くであろう様子が見られますね。

 bbさんが例示されている映画のシーンはいずれも個としての実存が際立つ瞬間ですね。
 最後のbbさんの反省が面白い。
 

 
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