これらの写真は、それぞれ一月の終わり頃のものです。
この日、実は愛機の MacBook Air のトラブルで名古屋のストアーを訪れたのですが、時間に余裕がありましたので、久々にゆっくりと名古屋の中心部を歩きました。
この辺はよく来るところなのですが、いつもはあちこち目線を泳がせる余裕もなく、従って風景もただ無機的に通り過ぎるのみです。
しかし改めて視線を上げて見回すと、結構いい街だと思いました。
それにしてもこの日、名古屋は喧噪に満ちていました。駅前でも、そしてこの栄地区でも・・・。
例のトリプル投票(愛知県知事選、名古屋市長選、市議会のリコール)の運動の真っ最中だったからです。
それから一〇日余、周知のような結果が判明し、あの辺りもすっかりふつうの冬の街に戻っただろうと思います。
ところでその結果についてですが、サヨクを自称する人のコメントに「こんな馬鹿な投票をした愛知県民、名古屋市民ってホントに馬鹿ばかりだと思います」(原文のまま)を見かけて私は激怒し、それに抗議致しました。
私は河村氏の限界や問題点について、おそらく彼よりもよく知っています。ですから、河村氏を支持せよというわけではありません。
このサヨク氏は、愛知県民、名古屋市民のこの選択がこの閉塞状況へのひとつの具体的な反応であることを全く理解していません。私の回りでも、苦渋の選択をしたひとが沢山います。彼女や彼らは、教条主義者の彼よりも遙かに悩み考えて投票したのです。
その選択が正しかったと言い張るつもりはありません。誤っていたかも知れません。
しかし、それを「馬鹿ばかり」と表現する彼の目線が問題だと思います。そこには、「唯一の真理や正義はわが方にある」という「前衛」の目線があります。従って、それに反する見解は「馬鹿」なものに過ぎないのです。
そして、そこに表出されたものを具体的に見ようとすらしないのです。
この「前衛の目線」というのはスターリニズムのそれです。
自分と見解を異にするものを馬鹿=人に値しないとして粛清し、集団で反抗するものには戦車隊を動員して圧殺する(かつてのハンガリーやポーランドでの事実のように)という思想です。
彼や彼の仲間の悲劇は、彼らのそうした前衛の目線(人民の解放などをいいながら人民に平気でつばを吐きかける)を人々は敏感に感じ取っていて、彼らが相対的に正しくとも決して彼らを支持しないことにあります。
彼は私の抗議にもかかわらず「こんな馬鹿な投票をした愛知県民、名古屋市民ってホントに馬鹿ばかりだと思います」を未だに取り下げていません。
私は、彼らが中央で権力を持っていなくて本当によかったと思います。もし彼らが中央政府を握っていたら、今頃は「ホントに馬鹿ばかり」な人民を抑圧するために、名古屋の街は戦車隊によって制圧されていたと思います。
繰り返しますが、河村氏が正しいのだというつもりはありません。ただ、そこでの選択はこの閉塞状況へのひとつの反応であり、河村氏を批判し、人格的にも嫌いだとした人たちの苦渋の選択も含まれていたことを知らねばなりません。
「前衛の目線」は、それらを具体的に見ることをせず、ただただ自分の優位に比べて、それに反する人々は「ホントに馬鹿ばかり」で済ませてしまうのです。
これは思考の頽廃ですね。ある意味、ネウヨよりも質が悪いと思います。
<補足>民主主義とポピュリズム
彼ら前衛のもうひとつの批判は、河村氏の手法をポピュリズムとして葬り去ることです。
しかし、ポピュリズムは民主主義に必然的に伴うリスクなのです。
独裁者は、いつの場合も「民主主義はポピュリズムに流されるから真理に基づく体制ではない」として民衆から民主主義を取り上げます。
ですから、ポピュリズム批判は、逆に、では民主主義を返上するのかという問いへと行き着きます。ヒトラーやスターリンはそれに「ウイ」と答え、現今のあらゆる独裁者がこの論理で権力に居座わっています。
この日、実は愛機の MacBook Air のトラブルで名古屋のストアーを訪れたのですが、時間に余裕がありましたので、久々にゆっくりと名古屋の中心部を歩きました。
この辺はよく来るところなのですが、いつもはあちこち目線を泳がせる余裕もなく、従って風景もただ無機的に通り過ぎるのみです。
しかし改めて視線を上げて見回すと、結構いい街だと思いました。
それにしてもこの日、名古屋は喧噪に満ちていました。駅前でも、そしてこの栄地区でも・・・。
例のトリプル投票(愛知県知事選、名古屋市長選、市議会のリコール)の運動の真っ最中だったからです。
それから一〇日余、周知のような結果が判明し、あの辺りもすっかりふつうの冬の街に戻っただろうと思います。
ところでその結果についてですが、サヨクを自称する人のコメントに「こんな馬鹿な投票をした愛知県民、名古屋市民ってホントに馬鹿ばかりだと思います」(原文のまま)を見かけて私は激怒し、それに抗議致しました。
私は河村氏の限界や問題点について、おそらく彼よりもよく知っています。ですから、河村氏を支持せよというわけではありません。
このサヨク氏は、愛知県民、名古屋市民のこの選択がこの閉塞状況へのひとつの具体的な反応であることを全く理解していません。私の回りでも、苦渋の選択をしたひとが沢山います。彼女や彼らは、教条主義者の彼よりも遙かに悩み考えて投票したのです。
その選択が正しかったと言い張るつもりはありません。誤っていたかも知れません。
しかし、それを「馬鹿ばかり」と表現する彼の目線が問題だと思います。そこには、「唯一の真理や正義はわが方にある」という「前衛」の目線があります。従って、それに反する見解は「馬鹿」なものに過ぎないのです。
そして、そこに表出されたものを具体的に見ようとすらしないのです。
この「前衛の目線」というのはスターリニズムのそれです。
自分と見解を異にするものを馬鹿=人に値しないとして粛清し、集団で反抗するものには戦車隊を動員して圧殺する(かつてのハンガリーやポーランドでの事実のように)という思想です。
彼や彼の仲間の悲劇は、彼らのそうした前衛の目線(人民の解放などをいいながら人民に平気でつばを吐きかける)を人々は敏感に感じ取っていて、彼らが相対的に正しくとも決して彼らを支持しないことにあります。
彼は私の抗議にもかかわらず「こんな馬鹿な投票をした愛知県民、名古屋市民ってホントに馬鹿ばかりだと思います」を未だに取り下げていません。
私は、彼らが中央で権力を持っていなくて本当によかったと思います。もし彼らが中央政府を握っていたら、今頃は「ホントに馬鹿ばかり」な人民を抑圧するために、名古屋の街は戦車隊によって制圧されていたと思います。
繰り返しますが、河村氏が正しいのだというつもりはありません。ただ、そこでの選択はこの閉塞状況へのひとつの反応であり、河村氏を批判し、人格的にも嫌いだとした人たちの苦渋の選択も含まれていたことを知らねばなりません。
「前衛の目線」は、それらを具体的に見ることをせず、ただただ自分の優位に比べて、それに反する人々は「ホントに馬鹿ばかり」で済ませてしまうのです。
これは思考の頽廃ですね。ある意味、ネウヨよりも質が悪いと思います。
<補足>民主主義とポピュリズム
彼ら前衛のもうひとつの批判は、河村氏の手法をポピュリズムとして葬り去ることです。
しかし、ポピュリズムは民主主義に必然的に伴うリスクなのです。
独裁者は、いつの場合も「民主主義はポピュリズムに流されるから真理に基づく体制ではない」として民衆から民主主義を取り上げます。
ですから、ポピュリズム批判は、逆に、では民主主義を返上するのかという問いへと行き着きます。ヒトラーやスターリンはそれに「ウイ」と答え、現今のあらゆる独裁者がこの論理で権力に居座わっています。