六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

途中覚醒と悪夢の三題噺

2010-11-09 15:32:31 | よしなしごと
 しばらく調子が良くて安心していたら、数日前からまた深刻な睡眠障害に陥ってしまった。
 何度も書いたが、私の場合寝付きはいいのだが、途中覚醒で2、3時間もすると眼が醒めてしまって、その後数時間、どうしても眠れないまま悶々としてベッドでのたうち回るのだ。
 睡眠誘導剤は毎日欠かさないのだが、医師の話では途中覚醒に対しては決定的な効果は期待できないという。

 翌日がオフの時は昼寝という手もあるが、仕事だったり、時として車を運転しなければならないときは実につらい。
 一日中頭がどんよりしていて、もともと鈍い頭脳の活動がさらに劣化する。

 まあ、それらは前からのことで、それが私の属性だといえばそれまでだが、今回のものは目覚める前に必ずといっていいほど悪夢を伴うのが特徴である。
 それを三例ほど。

      

 足下が遙かにかすむような絶壁の上に立っている。
 高所恐怖症はないがさすがに恐い。
 つま先がほとんどその縁にはみ出すほどなのだ。
 ほんの一歩下がり、その辺の立木にでも掴まればひとまず危機を逃れられるのだがそれが出来ない。
 そのうちに、かすかだが体が前後に揺れる気がする。
 これは恐い。そんなとき、下を見るなといわれているのだがついつい見てしまう。
 遙か足下に樹海のようなものが見える。
 ああ、そこへと吸い込まれそうだ。
 体の揺れが激しくなってきた・・・・・もう耐えられない。
 
 とここで眼が醒めた。
 後はもう眠れない。

      

 次は長い夢の終わりの方なのだがそれまでの経過は忘れた。
 終わりの方だけ覚えている。
 通りを歩いていると誰かが窓から呼ぶ。
 それはもう10年以上逢っていない人で、それほどの関わりもなかったので日常では思い出すこともない男性だった。
 とはいえ声を掛けられた以上はと思ってその建物に近づくと、いきなりドスンという音とともに建物が揺れはじめた。
 地震である。私は立っていられずその場にへたり込んだ。
 窓にはもうその男性の姿はない。
 ただ、その建物が不気味にゆさゆさと揺れ続けている。
 石造りともいえるその建物は次第にその振幅を大きくし、このままでは倒壊は必至と見えた。
 しかも、悪いことにどうやらこちらへ倒れてきそうなのだ。
 数メートルも移動すればその下敷きにならずに済むのだが、どうしても体が動かない。
 建物はさらに激しく揺れる。
 その素材の一部がばらばらと体に降りかかりはじめた。
 ついに建物がこちらへ大きく傾きはじめた・・・・もう耐えられない。
 
 そこで眼が醒めた。
 後はもう眠れない。

 このときには地震だけはほんとうではなかったかと思った。
 それほどその揺れはリアルで全身に感じられたからである。
 室内にぶら下がっているものを確かめたが別に揺れているものはない。
 念のため窓から外を確かめたが、夜更けの街は静まりかえり、遠くで列車の音が聞こえた。

      

 これはナンセンスな夢である。
 しかし、連続性はある。
 まもなく、最近通っている近くのクリニックへ薬(まさに催眠導入剤)をもらいに行かなければならないのだが、そのついでにもらってくるべき薬を考えながら就眠した。
 ここまではリアルであり、以下が夢である。
 いきなり、そのクリニックのの受付の女性が自宅を訪ねてきた。
 「先ほど、隣の調剤所でお薬をもらって帰られましたね」
 「はい」
 「実はそこから連絡があり、その中に強い毒性のある青酸性の錠剤が一錠混じってしまったというのです」
 「えっ」
 「ですから、気を付けてお飲み下さいとのことでした」
 というと彼女は帰っていった。
 そんな危険なものが混じっているのなら全部廃棄すればいいのだが、そんな風にならないところが夢の夢たる所以だ。
 私はそのときそれぞれ違った三錠を飲まなければならなかった。
 どうかその青酸性のものが当たりませんようにと、まるでロシアン・ルーレットに臨む気持ちで数十錠ある中から三錠を選んで口にした。
 ちょっと舌の上で転がしてみたが異常はない。
 思い切って水で流し込んだ。
 しばらく様子を見たが何ともない。
 やれやれと思ったとたん、喉元でヒリリとした感触があった。そして胃の方から何ともいえぬ圧迫感があった。
 洗面所へと駆けるのだが、ものが倒れてきたり、コードが足に巻き付いたりでなかなか進めない。早く吐かなければと思うのだが、逆にどんどん吸収されているようで恐怖感に満たされる。
 圧迫感は次第に強烈になり体の内部から突き上げてくる・・・・・もう耐えられない。
 
 そこで眼が醒めた。
 後はもう眠れない。

 夢の分析や解釈などはしないでおこう。
 そんなことをしなくても私の抱え込んだコンプレックスはほぼ分かっている。
 ただし、この三つの夢の共通点から、断定できるひとつの結論がある。

 つまるところ、私は命が惜しいのだ。 
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私の学舎は明治村だった?

2010-11-08 03:00:27 | 想い出を掘り起こす
 久々に明治村(愛知県犬山市にある歴史博物館)へ出かけました。
 この明治村の正門は、私が学生時代の教養部の正門でした。
 また、旧六連隊兵舎跡は、学部時代の学舎でした。
 
 ただし今回は所用のためで、北門から入り、ごく一部にしか行きませんでした。

     
          フランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテル
              ここでお茶を飲みました


     
            聖ザビエル天主堂の門かと思いました

     
            こんな感じですから門だと思うでしょう

        
             ところが裏に回るとこんな看板が

        
          聖ザビエル天主堂の祭壇とステンドグラスです

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ついに取り壊されることになりました。

2010-11-06 02:44:54 | よしなしごと
 今年の7月10日付の日記で、かつての岐阜県知事官舎(なぜ官舎なのかもその折書きました)が宙ぶらりんな状態であることを書きました。
 たまたま撮影していたところ、県からこれの払い下げをうけた昔の知事の末裔からさらに購入したという人に会い、内部まで撮させてもらったのです。

     
           車寄せポーチのある玄関部分

 その折り私はこれをどうするつもりですかと尋ねました。
 彼は三つの道を示しました。
 そのひとつは県が県政資料として買い上げてくれるよう運動中であること。
 ふたつめは、このレトロな雰囲気を生かして飲食店などが買ってくれればということ。
 そして三つ目は今秋まではそれで粘るが、その両者ともに不可能な場合は建物を取り壊して更地にして売りに出すこと。

     
       斜めに走るは丸太造りの鴨居 これは珍しいという

 結果として最後の運命を辿ることになりました。
 昨日通りかかったら、取り壊しが始まっていました。
 車だったのでその写真はありません。

 取り壊すというと昨今のそれは徹底しています。解体という言葉が示すように、それぞれの部品を取り外して行く様な生ぬるいものではありません。
 でっかいショベルカーでどんどんばりばり、とにかく破壊して行くのです。
 
 内部を見ているだけに、往年の一流の職人の技が詰まった各部分も容赦なくただの木片として破壊されて行くのが残念に思われます。
 仕方がないですね、売れないものは単なるゴミなのですから。

        
            これが傘立てならぬ軍刀立て

 あの珍品の軍刀立てはどうなったのでしょう。
 年季が入って文字通り赤銅色に光っていたドアノブはどうなったのでしょう。
 欄間は? 書院風の違い棚付き床の間は? 珍品だという丸太のままの鴨居は?
 みんなやはり木くずの廃品として処理されるのでしょうね。

        
          下の凹みは鐺(こじり=鞘の先端の部分)を収めるためのもの

 持ち主に会ってその苦渋の選択を聞いていただけに責める気はしません。
 しかし、惜しい気はするのです。
 子供の頃から、このあたりのランドマークだった建造物がまた一つ消えて行くのですから。


 さらに詳細は7月10日付拙日記をご覧下さい。
  http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20100710





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ゆとりのない男のユトリロ見物 by 路面電車 @豊橋

2010-11-03 23:58:00 | アート
     

 金も時間も、そして何よりも残された寿命にゆとりがない男がユトリロを観に行きました。
 先月末から、豊橋美術館で始まった「ユトリロ展」です。
 リスクを負った仕事を月末に終えたので、余勢を駆って思い切って出かけました。

     
               豊橋美術博物館正面

 岐阜からJRの快速で約一時間半の旅、在来線の遠出は久しぶりです。金山以東にはほんとうに久しぶりなんです。なるほど、尾張や三河の町々はこの様に変貌したのかと感心しているうち豊橋着です。

     
                  美術館中庭
             

 ここに降りたつのもも久しぶりです。最初にきた頃は「丸物」という百貨店がありました。それはその後、「西武」に変わったというのですが、もはやその姿も見えません。

     
           これは展示作品ではなく売店のものです

 「ユル鉄」ちゃんの私の豊橋訪問の目的の一つは、路面電車にに乗ることです。
 駅前から乗り込みました、こうした地方都市の路面電車の楽しさは、いろいろなタイプの電車が走っていることです。色彩も形式も違います。花電車風のものも走っていました。
 料金は一律の150円(子供80円)。かつてと違いワンマンカーですが、運転手の息吹くが聞こえるような電車です。

     
      待望の路面電車ですが夕方から撮ったのでうまく撮れませんでした

 かつて、運転手さんと車掌さんのコミュニケーションの手段であった「チンチン」という音は今でもします。もう必要はないのかも知れませんがこの音がないとチンチン電車の風情がありません。

     
             公園の樹木は古くこんなに根が張っています

 それと忘れてはならないのが足下から伝わる路面電車独特の感触です。それは同じ電車でも、もちろん新幹線や在来線とも違うものです。ゴトンゴトンと足下に直接響く感触はまさに路面を走る感じがするのです。路面電車とは言い得て妙だとすら思います。

 豊橋公園前で降りました、
 ここはほぼ、かつての吉田城の城内です。私が目指したユトリロ展はこの中の豊橋美術博物館で行われているのです。

     
            なんとか公園祭りの際の日時計だそうです
 

 近頃はやりの、建物自体が自己主張をするような美術館と違って落ち着いたたずまいのうちにありました。

 今回の出品はすべて個人コレクター所蔵のもので、出品された92点のすべてが本邦初公開だとのことです。しかしながら、ユトリロはユトリロで、私のような専門家ではないものには、どれもどこかで見たような既視感があります。

 しかし、反面、そのどれもが彼の置かれた状況下での葛藤のたまものであることは知っていました。
 それにしても会場にはそれらがくどいほど説明されています。しかも何度も重複してです。あまりくどく説明されると、彼の作品がそのための挿絵のように思われてしまいます。

     

 絵画の(言語による)説明とか、その作家の経歴と作品との関連などは一筋縄では行かないものなのだと思います。
 現にユトリロは重度のアルコール依存症であり、監禁されながら筆を執ったと説明されていますが、だとするならば、私にもそこそこの絵が描けるはずです。
 え?お前はもう手が震えているから筆を持つのは無理だろうだって? まだ、震えてませんっ!!

     
    公園を借景としたヴィデオ室 ナレーターが下手だったがこの館のせいではない

 ひとは、自己制御が効かないと思われる人の芸術作品などを異常に評価します。身体障害や精神障害などをもったひとたちの作品についてです。
 確かに彼や彼女は、それなりのハンディがあって大変なのでしょうが、それを見聞きする私たちは、自分がまったき自己制御のうちにあって、揺るがぬ主体であるという幻想のうちに身を置いているようです。
 小理屈はともかく、今回来なかったといわれるユトリロの最盛期、「白の時代」の代表作も見たくなりました。
 以下がその主要作品だそうです。
 
?コタンの袋小路(1911年)(パリ、ポンピドゥー・センター)
?パリのサント=マルグリート教会(1911年)(ドイツ、マンハイム市立美術館)
?ラヴィニャン街の眺め(1911-15年)(ニューヨーク、メトロポリタン美術館)
?サン=セヴランの聖堂(1912年)(ワシントン、ナショナル・ギャラリー)
?パリ郊外(1910年) (倉敷、大原美術館)
?ノルヴァン通(1910年) (名古屋、名古屋市美術館)
?ラパン・アジル(1910年)(パリ、ポンピドゥー・センター)


 このうち、名古屋市美術館のものは見ているはずなんだけど、もう一度いってみようかな。

     
           夕映えの市役所 岐阜よりも立派じゃん

 批判的なことも書きましたが、なかなかまとまったいい企画でしたよ。
 パリの町、とりわけモンマルトルの詩情あふれるたたずまいがユトリロならではの筆で表現されています。
 私は、これまでもこれからもパリには行けないでしょうが、このユトリロや佐伯祐三、荻須高徳などの絵画が私のパリです。

        
       この公園がかつて陸軍第18連隊跡であることを示す歩哨の詰め所

 美術館を出ると、晩秋の陽はもう随分傾いていました。折からの曇天もあって光量も多くありません。しまった、路面電車などをもっと明るいうちに撮っておくんだったと思ったのですが後の祭りでした。

 でも路面電車に乗って好きな絵画をノンビリ観ることが出来るなんて、至福の一日といわねばなりませんね。
 11月は公私ともに多忙になりそうです。
 これを起点にエンジンをかけ直さなくっちゃ。

        
               帰りはこんな花電車に乗った

駅前の飲食店で冷たいお酒を頼んだところ、「八海山」や「銀嶺立山」の下に、申し訳のように「三河手筒」というお酒があるのです。名だたる酒に比べて単価も安いのです。どうしようかと思いましたが、郷にいれば郷に従えだと思い切って注文しました。
 それが大当たりでした。さらっとして随分口当たりがいいのです。
 まだ帰路があるので控えようとしていたのですが、ついお代わりをしてしまいました。蔵元は地元豊橋の伊勢屋酒造とありました。




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ヒヨドリを補食するカラス

2010-11-02 03:36:45 | インポート
  あるひとがヒヨドリをとり上げ、それについてコメントがあったのですが、やはりこの鳥は余り評判は良くないようですね。
 鳴き声がうるさいのと、果実やそのほかの農作物全般に被害をもたらすからのようです。
 私んちも、サクランボと枇杷ではかなりの被害を受けています。

 ただし私は、朝夕、彼らが梢やTVのアンテナでさえずる縄張り宣言はけっこういい声で美しいですよと指摘したのですが、それを聞いた人はあまりいないようで、反応はありませんでした。
 ただ、強調したいのは、この鳥の鳴き声はとても多彩で、濁音混じりでうるさいときや、ピーと甲高い警戒音で叫ぶ様や、縄張り宣言で恋の調べを奏でるときとはまったく違うということです。
 
 本来は渡りをする鳥で関門海峡や伊良湖では千羽単位の渡りが見られ、それはまた鷹の仲間の渡りと同時期なため、南下するための集結地では鷹がヒヨドリを狩るという事態もあるようで、伊良湖でのそれを写真で見たことがあります。

      
        まだ若いヒヨドリです.こうしたのが狙われるのでしょうか

 2、3日前のことでした。私の住んでいる都市郊外を車で走っていました。何でこんなところで?一端停車でいいではないかという箇所に信号があります。ここの信号はとても意地悪で、私が通りかかると必ず赤になります。母の入院中一年ほど通ったのですが、青の時は数えるほどでした。私は以来、信号とは人見知りをするものだという思いに取りつかれています。

 今回も赤でした。私が先頭です。本当に嫌みですね。
 所在なげに前を見ていると、フロントグラスをあたふたと横切る影がありました。そのすぐ後を、より大きな影が横切りました。
 そしてそれらは、私の停車していたすぐ左手の空き地に舞い降りました。舞い降りたというより最初の影が後から来た影に追いつかれ捕らえられた瞬間でした。

 最初の小さい方の影はヒヨドリでした。そして後の大きい影はカラスでした。
 まさにカラスがヒヨドリを補食した瞬間でした。
 羽の色からしてまだ若いヒヨドリです(若いのはまだ羽の色が薄い褐色なのです)。

 カラスは早速ヒヨドリをむさぼりはじめました。
 つつき回す度にヒヨドリの羽が舞い散ります。
 見聞はここまでです。
 後の車がけたたましいクラクションを鳴らしました。
 いつの間にか、信号は青に変わっていたのです。

 
 もう何年か前です。
 今池の街を歩いていたら、なにやら鳥の羽が上からハラハラと降ってきます。
 どうやら羽根は鳩のようです。
 見上げると一羽のカラスが何やらを必死につついています。
 それが鳩だったのです。

 こうした自然の巡り合わせに「倫理」を持ち出すことは出来ません。
 生物には正義も罪悪もありません。
 彼らは自分の「欲求」に従って生きているのです。

 ただし人間は別です。
 人間は「欲求」というより「欲望」に従います。
 この「欲求」と「欲望」の狭間に「倫理」が入り込む余地があるのかも知れません。
 それについては機会があったら書きたいと思います。

 とりあえずは、一羽のヒヨドリと一羽のカラスがかかわった出来事を報告したまでです。


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COP10を名古屋でやった意味は???

2010-11-01 04:57:41 | 社会評論
 以下は、30日の拙日記についての補足です。

  ================================ 

  長良川河口堰は最初から工業用水をとることを目的としていました。
 高度成長期の毎年20%の右肩上がりが永久に続くと思い、そうすると、愛知県や三重県の工業地帯で水が足らなくなるだろうと考えたバカな役人と土建屋が企んだのです。

     
     

      こんなグロテスクなものが自然の中にわがもの顔で・・・

 ところがどっこい水は完全に余り名古屋市も三重県も分担金を払ってまでそんなものは要らないと言い出したのです。
 やれ、高潮対策だ、塩害対策だ、洪水時の調整だ、などという言い分は、これが無用の長物で、ただただ環境破壊をするものだということが公然となった段階での後出しじゃんけんのようにいい出されたものです。

 4,000億円の税を使い、徳山村という村を全村水没させて出来た全国有数の徳山ダム(揖斐川上流)もそうです。
 出来たものの、このダム、何の使い道もないのです。
 そこではじめたのが休日などの「観光放水」です。
 国民は、自分たちの税が虚しく「放水」されるのを見せられるのです。

     
       全村民を追い立てて出来た徳山ダム しかしその用途は?

 それだけならまだしも、さらに1,000億の税を投じて、そのダムの水を木曽川や長良川に導水しようというのです。ダムの底にたまった死水を長いトンネルを掘って導水するというこの計画は、この水を流される川の生態系がこれにより著しく損傷されることを一顧だにしていません。
 
 こうなると作ってしまったという意地と既成事実、そしてそれらを正当化するためにさらに悪行を重ね、その結果としてまたもや土建屋が儲かるという仕組みが見え透いています。

 私も時折参加している長良川市民学習会では、「長良川に徳山ダムの水は要らない」と、「長良川河口堰を試験的にでもいいから解放せよ」という主張をしていて、私も先般、個人的に県に意見書を出したのですが、まさに木で鼻をくくったような官僚の作文が返ってきたのみでした。

         

 長良川はかつて、四万十川などと並んでダムのない有数の川、川と海との有機的な往還運動が見られる川であることを誇りにしていました。
 人工的に作った鮎の稚魚など放流しなくとも、伊勢湾から登る鮎で川があふれていたのです。

 岐阜市民としてこんなことは書きたくないのですが、今年の長良川の鵜飼いでは鮎の捕れる数が著しく減ってしまったのです。それは鵜匠たちをも戸惑わせるものでした。一艘の舟が、3匹しか獲らなかったこともあるようです。
 かがり火のもと、鮎が潜り、見事に鮎を捕らえ、誇らしげにそれを水面上で披露するとき、周りの観光船からどっと拍手が湧くのですが、そんな光景がめっきり減ったのです。

     

 今年の異常気象による一時的なものか、それとも川そのものの変質によるものかは今のところ不確定ですが、川漁師の人たちの見解では、年々変化はあるが長期的には確実に川の資源は減少しているとのことです。

 私がガキの頃、長良川は水生動物にあふれていました。少し潜れば魚たちが往来するのが見えましたし、橋の上からは、苔をはむ鮎の反転がきらめいていたものでした。

 こうした環境悪化が進行中の地元で行われるCOP10という会議が、「生物多様性」を掲げ、「希少絶滅生物」を看板に掲げながら、その実は子供たちに一般的抽象的な歌や芝居(「自然と大切にしなければいけないね」「そうだね、そうだね」)をさせるのみで、その実は資源の売買交渉の場であったとしたら、これっていったい何なの?といいたいわけです。

     

 COP10は無事終了したといわれます。
 途上国の生物資源の売買価格が決まったというのです。
 ようするに、「多様生物売買価格」や「希少生物商品化プラン」がまとまったということです。

 そんなことのために、多額の税金を使った会議を招致し、幼稚園の子供たちを動員して臭い芝居などさせるなといいたいのです。
 世の中は得てしてこうした欺瞞によって成り立っています。
 名古屋を中心とした生物の多様性が今どのような状況にあるのかは一切顧みられることもなく、そしてその改善には何の関係もなく、この会議は「無事」 修了したのでした。
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