小学校というものを卒業してからおよそ60年になる。
入学したときは国民学校だった。
入学した年、日本各地の都市は激しい空爆を受け、そのほとんどが壊滅した。
その頂点が広島、長崎である。
原爆投下は許されない行為だが、明らかな敗戦をそこまで引っ張ってしまった日本の軍部にも責任はある。
戦中戦後は、戦地への招集、家族の疎開、などなど日本人の大量移動があった時期であり、その趨勢は捕虜生活からの復員(主としてシベリア抑留)や疎開地からの都市への帰還が続いた敗戦後数年まで続いた。
この奥に滝が 曇っているのは黄砂のせい
私もそうした一員で、岐阜から大垣郊外への疎開、シベリアからの父の帰還、などなどを通じて岐阜へ戻ったのは戦後数年を経た1950(昭25)年の始めだった。
従って、私が卒業した学校には、5年生の3学期から在籍したのみである。
にもかかわらずその私に、同窓会の幹事クラスの仕事が巡ってきた次第は以下の日記に載せた通りである。
http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20100918
で、いよいよそれが実現し、72歳の面々が集まった次第。
場所は養老公園近くの温泉の里。
打ち合わせの段階で会った人以外よく分からない。しかし、話し込んでいるうちにだんだんその人の記憶がよみがえってくるのが不思議だ。今朝何を食したかすらよく分からないのに、60年前のことが鮮明に思い出せるのは記憶装置というものの一つの謎である。
昼食の後、養老公園へ。
養老の滝を是非観たいという人もいて、駐車場から滝までの道中でリタイヤーした人は途中で待つというルールで登りはじめる。
ここへは場所がら何度も来ているが、こんなに険しいルートだと思ったことはなかった。滝までたどり着いたのは約半数。私もその組にかろうじて入ったが、写真を撮りながら主力部隊を追いかけるのには、かなりしんどい思いをした。
養老といえば孝子伝説
おそらくもう何年もしたら、この滝をリアルに観ることは不可能だろうと脳裏に焼き付けた。麓ではけっこう高齢者が多かったのだが、滝壺周辺の平均年齢はグンと下がっていた。その中で、ベビーカー付きで登ってきた夫妻が少なからずいたことになるほど、若いってことはこういうことなんだと改めて感心した。
下りながら、一箇所で歓談していたリタイヤー組と合流し宿に戻った。
突然だが、岩盤浴というものを初めて経験した。10年ほど前、脳梗塞を経験して以来、サウナは敬遠していたのだが、岩盤浴はじわじわっと暖まるのでいいのだということで入る。
なるほど、最初はさしたることはないのに、じわじわっと暖かくなってくる。
かつて自分が店をやっている折、石焼きをメニューにし、様々なものを熱した鉄平石のの上で焼いて出したのを思い出した。あのとき、焼かれた素材は今の私の気持ちだったのだろうか。45分間を経過して、自分の体内の水分がすべて出たほどの汗をかいた。
孝子が酒を汲んだということでヒョウタンが名物
その後、夕食歓談と続くのだが、これを読む人にはあまり関心がないので省略する。
ただし、私のような年齢の者が思い出話をするとき、必ず戦争が絡んでくる。自分の父が兵士としてとられたこと、疎開したこと、喰うものがなかったこと、進駐軍が来たこと、復興の波に乗ることが容易ではなかったこと、うまく乗った奴が戦後成金としてのし上がったこと・・・。
草団子を焼く人 行列が出来ていた
時代が時代だから、中卒でとどまった人、高卒の人、大学へ進んだ人と各種だが、世間話の体験談の中ではそうした学歴に差異はない。むしろ、ず~っと地元にとどまった人の方が事態の変遷を正確に記憶し、尚かつそれへの適切な見解を持っている場合が多い。
一部屋へ集まっての深夜までの歓談は、既にして亡くなった数名の同級生へのレクイエムも含め延々と語られるのであった。
そのうちに、5年生の3学期からの編入という外様のような自分の立場にもかかわらず、同じ時代を、とりわけ戦中戦後の厳しく混乱した状況の中で、様々な選択をした様々の家族が生き抜いた歴史のようなものがそれぞれ浮かび上がってきて、私もまた、間違いなくそのうちにいたことを確認し、同時代を生きた同志のような感慨が浮かんでくるのだった。
始めは事務的な手伝いということではじめたのだったが、いつのまにか幹事級にになってしまったことは既に述べた。まあ、しかし、そこでの私の気まぐれな尽力で人が集まり、その語らいの中で往時の克明な記憶が掘り起こされ、それぞれがここぞとばかりに語ったのはとてもいいことだったと思う。
養老公園の紅葉は今年の気候の影響で例年より遅れいまいちだったが、自然の輪廻は多少のバリエーションがあっても繰り返す。
しかし人の被った歴史上の事実は不可逆で、これから改めてサイクルをやり直すことは出来ない。その不可逆性を一身にため込んでいるのだから、老人がシワ深くなるのは当然なのだ。
かくいう私も、往年の紅顔の美少年の面持ちを保ちながらも、歴史と私の生涯とによってもたらされた深きシワが、そのかんばせに刻み込まれるのをいかんともし難いのである。
先端のみの紅葉 これが全部赤くなったら・・・
帰宅した後、例のマドンナからこんなメ-ルが入っていた。
「有難う!六さんの優しいご協力を心より感謝いたします!・・・・・・ゆっくりおしゃべりして涙ぐんで別れました!」
入学したときは国民学校だった。
入学した年、日本各地の都市は激しい空爆を受け、そのほとんどが壊滅した。
その頂点が広島、長崎である。
原爆投下は許されない行為だが、明らかな敗戦をそこまで引っ張ってしまった日本の軍部にも責任はある。
戦中戦後は、戦地への招集、家族の疎開、などなど日本人の大量移動があった時期であり、その趨勢は捕虜生活からの復員(主としてシベリア抑留)や疎開地からの都市への帰還が続いた敗戦後数年まで続いた。
この奥に滝が 曇っているのは黄砂のせい
私もそうした一員で、岐阜から大垣郊外への疎開、シベリアからの父の帰還、などなどを通じて岐阜へ戻ったのは戦後数年を経た1950(昭25)年の始めだった。
従って、私が卒業した学校には、5年生の3学期から在籍したのみである。
にもかかわらずその私に、同窓会の幹事クラスの仕事が巡ってきた次第は以下の日記に載せた通りである。
http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20100918
で、いよいよそれが実現し、72歳の面々が集まった次第。
場所は養老公園近くの温泉の里。
打ち合わせの段階で会った人以外よく分からない。しかし、話し込んでいるうちにだんだんその人の記憶がよみがえってくるのが不思議だ。今朝何を食したかすらよく分からないのに、60年前のことが鮮明に思い出せるのは記憶装置というものの一つの謎である。
昼食の後、養老公園へ。
養老の滝を是非観たいという人もいて、駐車場から滝までの道中でリタイヤーした人は途中で待つというルールで登りはじめる。
ここへは場所がら何度も来ているが、こんなに険しいルートだと思ったことはなかった。滝までたどり着いたのは約半数。私もその組にかろうじて入ったが、写真を撮りながら主力部隊を追いかけるのには、かなりしんどい思いをした。
養老といえば孝子伝説
おそらくもう何年もしたら、この滝をリアルに観ることは不可能だろうと脳裏に焼き付けた。麓ではけっこう高齢者が多かったのだが、滝壺周辺の平均年齢はグンと下がっていた。その中で、ベビーカー付きで登ってきた夫妻が少なからずいたことになるほど、若いってことはこういうことなんだと改めて感心した。
下りながら、一箇所で歓談していたリタイヤー組と合流し宿に戻った。
突然だが、岩盤浴というものを初めて経験した。10年ほど前、脳梗塞を経験して以来、サウナは敬遠していたのだが、岩盤浴はじわじわっと暖まるのでいいのだということで入る。
なるほど、最初はさしたることはないのに、じわじわっと暖かくなってくる。
かつて自分が店をやっている折、石焼きをメニューにし、様々なものを熱した鉄平石のの上で焼いて出したのを思い出した。あのとき、焼かれた素材は今の私の気持ちだったのだろうか。45分間を経過して、自分の体内の水分がすべて出たほどの汗をかいた。
孝子が酒を汲んだということでヒョウタンが名物
その後、夕食歓談と続くのだが、これを読む人にはあまり関心がないので省略する。
ただし、私のような年齢の者が思い出話をするとき、必ず戦争が絡んでくる。自分の父が兵士としてとられたこと、疎開したこと、喰うものがなかったこと、進駐軍が来たこと、復興の波に乗ることが容易ではなかったこと、うまく乗った奴が戦後成金としてのし上がったこと・・・。
草団子を焼く人 行列が出来ていた
時代が時代だから、中卒でとどまった人、高卒の人、大学へ進んだ人と各種だが、世間話の体験談の中ではそうした学歴に差異はない。むしろ、ず~っと地元にとどまった人の方が事態の変遷を正確に記憶し、尚かつそれへの適切な見解を持っている場合が多い。
一部屋へ集まっての深夜までの歓談は、既にして亡くなった数名の同級生へのレクイエムも含め延々と語られるのであった。
そのうちに、5年生の3学期からの編入という外様のような自分の立場にもかかわらず、同じ時代を、とりわけ戦中戦後の厳しく混乱した状況の中で、様々な選択をした様々の家族が生き抜いた歴史のようなものがそれぞれ浮かび上がってきて、私もまた、間違いなくそのうちにいたことを確認し、同時代を生きた同志のような感慨が浮かんでくるのだった。
始めは事務的な手伝いということではじめたのだったが、いつのまにか幹事級にになってしまったことは既に述べた。まあ、しかし、そこでの私の気まぐれな尽力で人が集まり、その語らいの中で往時の克明な記憶が掘り起こされ、それぞれがここぞとばかりに語ったのはとてもいいことだったと思う。
養老公園の紅葉は今年の気候の影響で例年より遅れいまいちだったが、自然の輪廻は多少のバリエーションがあっても繰り返す。
しかし人の被った歴史上の事実は不可逆で、これから改めてサイクルをやり直すことは出来ない。その不可逆性を一身にため込んでいるのだから、老人がシワ深くなるのは当然なのだ。
かくいう私も、往年の紅顔の美少年の面持ちを保ちながらも、歴史と私の生涯とによってもたらされた深きシワが、そのかんばせに刻み込まれるのをいかんともし難いのである。
先端のみの紅葉 これが全部赤くなったら・・・
帰宅した後、例のマドンナからこんなメ-ルが入っていた。
「有難う!六さんの優しいご協力を心より感謝いたします!・・・・・・ゆっくりおしゃべりして涙ぐんで別れました!」