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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

ゆとりのない男のユトリロ見物 by 路面電車 @豊橋

2010-11-03 23:58:00 | アート
     

 金も時間も、そして何よりも残された寿命にゆとりがない男がユトリロを観に行きました。
 先月末から、豊橋美術館で始まった「ユトリロ展」です。
 リスクを負った仕事を月末に終えたので、余勢を駆って思い切って出かけました。

     
               豊橋美術博物館正面

 岐阜からJRの快速で約一時間半の旅、在来線の遠出は久しぶりです。金山以東にはほんとうに久しぶりなんです。なるほど、尾張や三河の町々はこの様に変貌したのかと感心しているうち豊橋着です。

     
                  美術館中庭
             

 ここに降りたつのもも久しぶりです。最初にきた頃は「丸物」という百貨店がありました。それはその後、「西武」に変わったというのですが、もはやその姿も見えません。

     
           これは展示作品ではなく売店のものです

 「ユル鉄」ちゃんの私の豊橋訪問の目的の一つは、路面電車にに乗ることです。
 駅前から乗り込みました、こうした地方都市の路面電車の楽しさは、いろいろなタイプの電車が走っていることです。色彩も形式も違います。花電車風のものも走っていました。
 料金は一律の150円(子供80円)。かつてと違いワンマンカーですが、運転手の息吹くが聞こえるような電車です。

     
      待望の路面電車ですが夕方から撮ったのでうまく撮れませんでした

 かつて、運転手さんと車掌さんのコミュニケーションの手段であった「チンチン」という音は今でもします。もう必要はないのかも知れませんがこの音がないとチンチン電車の風情がありません。

     
             公園の樹木は古くこんなに根が張っています

 それと忘れてはならないのが足下から伝わる路面電車独特の感触です。それは同じ電車でも、もちろん新幹線や在来線とも違うものです。ゴトンゴトンと足下に直接響く感触はまさに路面を走る感じがするのです。路面電車とは言い得て妙だとすら思います。

 豊橋公園前で降りました、
 ここはほぼ、かつての吉田城の城内です。私が目指したユトリロ展はこの中の豊橋美術博物館で行われているのです。

     
            なんとか公園祭りの際の日時計だそうです
 

 近頃はやりの、建物自体が自己主張をするような美術館と違って落ち着いたたずまいのうちにありました。

 今回の出品はすべて個人コレクター所蔵のもので、出品された92点のすべてが本邦初公開だとのことです。しかしながら、ユトリロはユトリロで、私のような専門家ではないものには、どれもどこかで見たような既視感があります。

 しかし、反面、そのどれもが彼の置かれた状況下での葛藤のたまものであることは知っていました。
 それにしても会場にはそれらがくどいほど説明されています。しかも何度も重複してです。あまりくどく説明されると、彼の作品がそのための挿絵のように思われてしまいます。

     

 絵画の(言語による)説明とか、その作家の経歴と作品との関連などは一筋縄では行かないものなのだと思います。
 現にユトリロは重度のアルコール依存症であり、監禁されながら筆を執ったと説明されていますが、だとするならば、私にもそこそこの絵が描けるはずです。
 え?お前はもう手が震えているから筆を持つのは無理だろうだって? まだ、震えてませんっ!!

     
    公園を借景としたヴィデオ室 ナレーターが下手だったがこの館のせいではない

 ひとは、自己制御が効かないと思われる人の芸術作品などを異常に評価します。身体障害や精神障害などをもったひとたちの作品についてです。
 確かに彼や彼女は、それなりのハンディがあって大変なのでしょうが、それを見聞きする私たちは、自分がまったき自己制御のうちにあって、揺るがぬ主体であるという幻想のうちに身を置いているようです。
 小理屈はともかく、今回来なかったといわれるユトリロの最盛期、「白の時代」の代表作も見たくなりました。
 以下がその主要作品だそうです。
 
?コタンの袋小路(1911年)(パリ、ポンピドゥー・センター)
?パリのサント=マルグリート教会(1911年)(ドイツ、マンハイム市立美術館)
?ラヴィニャン街の眺め(1911-15年)(ニューヨーク、メトロポリタン美術館)
?サン=セヴランの聖堂(1912年)(ワシントン、ナショナル・ギャラリー)
?パリ郊外(1910年) (倉敷、大原美術館)
?ノルヴァン通(1910年) (名古屋、名古屋市美術館)
?ラパン・アジル(1910年)(パリ、ポンピドゥー・センター)


 このうち、名古屋市美術館のものは見ているはずなんだけど、もう一度いってみようかな。

     
           夕映えの市役所 岐阜よりも立派じゃん

 批判的なことも書きましたが、なかなかまとまったいい企画でしたよ。
 パリの町、とりわけモンマルトルの詩情あふれるたたずまいがユトリロならではの筆で表現されています。
 私は、これまでもこれからもパリには行けないでしょうが、このユトリロや佐伯祐三、荻須高徳などの絵画が私のパリです。

        
       この公園がかつて陸軍第18連隊跡であることを示す歩哨の詰め所

 美術館を出ると、晩秋の陽はもう随分傾いていました。折からの曇天もあって光量も多くありません。しまった、路面電車などをもっと明るいうちに撮っておくんだったと思ったのですが後の祭りでした。

 でも路面電車に乗って好きな絵画をノンビリ観ることが出来るなんて、至福の一日といわねばなりませんね。
 11月は公私ともに多忙になりそうです。
 これを起点にエンジンをかけ直さなくっちゃ。

        
               帰りはこんな花電車に乗った

駅前の飲食店で冷たいお酒を頼んだところ、「八海山」や「銀嶺立山」の下に、申し訳のように「三河手筒」というお酒があるのです。名だたる酒に比べて単価も安いのです。どうしようかと思いましたが、郷にいれば郷に従えだと思い切って注文しました。
 それが大当たりでした。さらっとして随分口当たりがいいのです。
 まだ帰路があるので控えようとしていたのですが、ついお代わりをしてしまいました。蔵元は地元豊橋の伊勢屋酒造とありました。




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9 コメント

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Unknown (Tです)
2010-11-04 10:03:55
近隣でも旅をするといろいろな発見があり楽しいですね。竹輪は食べられなかったのですか?
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Unknown (只今)
2010-11-04 14:41:46
 昭和19年2月、豊橋からサイパン島に向かった第18連隊は、潜水艦攻撃を受けて沈没、連隊長以下2200名が死去。生き残った1800名はグァム島に転戦も、玉砕。
 この連隊の遺跡は、写真の歩兵哨所と市役所西の国道沿いに配転復元された西門が残るのみ。
 しかし軍都豊橋と言われたもう一つの第15師団は、建築学上も注目される明治期からの多くの建物を擁し、それらの幾つかは愛知大学が辛うじて保存しているようです。
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Unknown (六文錢)
2010-11-04 17:00:12
>Tさん
 岐阜から半日の旅(?)でした。
 竹輪なんですが、実は豊橋駅前で入った飲食店が、豊橋名物の某竹輪店直営のところで、魚介類の鮮魚の他、魚類の身でつくった「ギョロッケ」、それに文字通り竹にすり身を付けたものを目の前の炭火の七輪で焼きながら食べるという「竹輪」をいただきました。
 「三河手筒」という地酒を飲んだのもその店でです。
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Unknown (六文錢)
2010-11-04 17:08:26
>只今さん
 そこまでの詳細は知りませんでしたが、豊橋が軍都であったことは知っていました。
 もう半世紀ほど前、愛知大学へも行きましたが、当時は校舎も寮も兵舎そのもので、他にも軍施設の残骸が沢山あったような気がします。
 まあ、N大の文系学舎や、学生会館も兵舎そのものでしたから、私たちの若い頃は戦争記念館の中で暮らしていたようなものですね。

 

 
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Unknown (sannko)
2010-11-05 16:58:19
戦争記念館の中で暮らしたとは、言い得て妙ですね。
仏文の集中講義に来た、京都日仏学院のO教授は、「ここで、あの真空地帯のロケをしたのですか?」と、まじめな顔で尋ねました。当たらずとも遠からずですね。
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Unknown (六文錢)
2010-11-05 17:26:59
>sannkoさん
 板の張ってない土間のようなところがあって、先輩に「ここは何に使っていたのですか?」と尋ねると、「将校用の馬を飼っていたところだ」と教えてくれました。
 真偽のほどは分かりませんが、戦後十数年を経過していたにもかかわらず、かすかに獣の匂いを感じたような気がしました。
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Unknown (只今)
2010-11-05 20:13:18
 今は相撲の名古屋場所として全国的に知られているこの地の西南隅に、二棟の馬小屋がありました。
 そしてその一棟を住まいとしていたのは教育学の小川太郎先生。
 畳の部屋二間に親子四人、そこに置かれた蓄音機のなんと大きくみえたことか。
 
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Unknown (bb)
2010-11-06 13:02:01
緑豊かな豊橋公園(吉田城址)の記憶。中学時代のことです。うっそうたる森の中に入って行くと堀跡のようなくぼみに近づきます。そのとき級友が、「兵隊が首を吊った木があるんだ」といって、その木を示そうと上のほうを見て探しはじめました。どの木も同じようにしか見えない私は、いそいでその場をはなれてしまいました。

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Unknown (六文錢)
2010-11-07 01:07:18
>只今さん
 私が先輩から聞いた場所と一致するかどうか分かりませんがそんな場所が確かにあったのですね。
 小川先生とはとある選挙事務所で隣同士になり、手持ちぶさたな折とて親しくお話しをしたことがあります。1957年か8年のことです。
 なお、私の養父は、この六連隊から満州に派兵されました。

>bbさん
 あの辺のご出身でしょうか。
 確かに首をつれそうな木が沢山ありますね。
 旧日本軍の消灯ラッパに、「新兵さんはつらいよね~、また寝て泣くのかね~」という歌詞を付けたくらいですから、首をつる兵士がいてもおかしくはないでしょうね。
 たぶん、軍の処理は事故死でしょうが・・・。
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