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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【映画】まず生きる!それが『大阪ハムレット』

2009-02-07 14:15:14 | 映画評論
 映画を観て、「拾いものであった」と書くのはそれを作った人たちに失礼なことであろう。しかし、時折そういいたい映画に出会うことがある。
 前もっての情報や評価に全く接していなかったり、たまたま時間の埋め合わせに見たものが意外に良かった場合である。これはこれで映画を観る楽しみでもある。

 名古屋の主治医に検査結果を聞きに行く前になにか映画をと思い、その時間に符合したものとして『大阪ハムレット』という映画を観た。
 一見、ホームドラマ風のほのぼのとしたエンターティメントで、最後はちゃんとある種のカタルシスで締めくくられる面白い映画であった。

 

 しかしこの映画、さらっとしながら結構いろいろな問題含みなのである。
 性同一性諸害に立ち向かう少年、年上の女性に恋する高校生、シェイクスピアの『ハムレット』と格闘するやんちゃ坊主(彼は現実でもバッチギ的に格闘を繰り返す)、ファザコンを脱しきれない女性、「父」といわれた人の死後突然同居することになる謎のオッチャン、そして誰の子か分からない子を孕む肝っ玉オッカァなどなど、こてこての内容が盛り込まれているのだ。
 それらが終章に向かってうまく収斂して行くのは脚本の勝利であろうか。
 
 とにかく観ていて楽しい。
 何が楽しいかというと、上に述べたような結構シリアスな状況が、肩肘張った問題提起といった形をとらず、きわめて自然にストーリーの中で消化されていることである。決して、これが問題だぞ、これを観よという具合には描かれてはいない。

 実際には、家族とはなにか、血縁とはなにか、性的アイディンティティとはなにか、あるいは生きるとはなにかといった「ハムレット的」な重い問いを内包しているのだが、それらの問いが裸で露呈することなく、何度も言うが、ホームドラマ風の展開の中に無理なく組み込まれているのである。

 こうした描き方はいいと思う。
 ようするに、上に述べたような問題は、生活者の実感のうちで体験されることであり、それ自身をとりだして述べ立てることはその道の研究者ならばいざ知らず、当事者にとってはさほど意味を持たないのである。
 その意味では、「バッチギ的ハムレット」君が悟るように、「生きるべきか死にべきか」が問題なのではなく、まず「生きている」という現実こそが問題なのだ。

 様々な差異について、実際の世間の風は冷たい。頑固な偏見や抵抗は容易にはなくならないであろう。その意味ではこの映画は甘いかも知れない。しかし、現実の生活者はそれを生ききる他はない。繰り返すが、まず「生きている」ことが肝要なのだ。そしてそれが「大阪ハムレット」の解である。

 書き落としたが、この映画にはやはりぎとぎとの大阪弁こそがふさわしいようだ。いわゆる「標準語」だと、つい「概念」になってしまう状況や言葉を、大阪弁は生活の場で展開する力があるのかも知れない。

 松坂慶子のほんわかとしたオッカァぶりと、三人の子供たちのそれぞれの個性が良い味を出している。


 <追記>私の検査結果は、尿酸値が要注意とのことであった。
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寄り道をしたらズボンがハリネズミ

2009-02-05 01:08:45 | フォトエッセイ
 わが母ながら病人に会うだけでは気詰まりでつらい。
 だから見舞いの前後に寄り道をしたりして気を紛らわせる。
 病院から出たら向かい側のビルに少し傾き始めた陽が映えて綺麗だった。

 

 サラマンカホールへ、3月に行われるコンサートの前売りを買いに行くことにする(ひとつは大阪フィル・岐阜定期公演、もうひとつは藤原歌劇団合唱部プラス中部フィルハーモニー)。サラマンカメイトになっているおかげで1割引である。
 普通はネットで申し込むのだが、大阪フィルはサラマンカ主宰コンサートではないのでネットで買っても割引にならない。直接出かければ割引になるというので出かけた。もともと母の病院からさして遠くはない。

 

 途中、梅がほころびているところがあったので、車を止めて早速写真に収める。
 ところがである、いいアングルを求めてろくに足元も見ないでズカズカ草むらへ足を運んだのはいいが、そこはコセンダングサの群落で、自分の種子を運んでくれる間抜けな運搬人を待ち受けていたのだった。
 このコセンダングサ、花こそ可憐な黄色いものだが、その実は一センチぐらいの細い棒状のもので、その先がフォークのようになっていて繊維にしっかり突き刺さるのだからたちが悪い。
 むろんそんなことは知るよしもなく、あちこち歩き回りおまけに腰を落としてカメラを構えたりしたので、気づくと、ズボンの両脚はむろん、お尻や腰の回りまでくっつき虫がびっしりで、まるでハリネズミのような有様であった。

 気短にこすってもなかなか取れない。最後は一本一本、引き抜かなくてはならない。15分程も要しただろうか、もういいだろうと思ったのだが、うちへ帰ってよく見たらまだ多少残っていた。

 

 そんなことで時間を取られたが、なんとかサラマンカホールへ着き、所定の料金を払ってチケットを入手する。
 青みがかった建物がすっきりしている。この日はちょうどイベントがなかったせいで人気がない。
 振り返るとそちらは岐阜の県庁方面で、すっかり傾いた西日が建物をくっきりと照らし出していた。西日というのは交響曲の第四楽章のように対象を明々と映し出す。そして、やがてそれが暗転する前兆であるのも音楽の終曲に似ている。 

 
 
 さらに足を伸ばして県立図書館に向かう。今度発表することになっている勉強会の参考書を探す。借りてくるまでもないものを立ち読みしたりもする。
 結局該当するものを2冊と、ハンナ・アーレントに関する新しい書を一冊、それに、この間会った名古屋大学教授の坪井秀人氏の本を一冊、さらには台湾文学の本を一冊借りた。何とも一貫性のない読書癖である。
 図書館を出ると、日はすっかり暮れかかり、周辺の灯りと人影がなにやらひと恋しい風景を織りなしていた。





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春を待つ人々

2009-02-03 03:48:38 | よしなしごと
 

 春の訪れを待つ人は多い。
 この不況で職をなくした人、仕事が来ない中小や零細の企業主、外食控えで閑古鳥が鳴く飲食店主、その他、その他・・。
 なかなか春の兆しは見えないが、その中で懸命に今を生きる他はない。
 悲惨の拡大を最小限にとどめながら、修復を図るのが課題であるが、政治や行政の歩みはたどたどしい限りである。

 こうした状況とは別にわが身の春を待つ人々がいる。
 病院で暮らす人たちである。窓の外の風景は春めいてくるのだが、その人たちにとってはその風景へと踏み出すことが春の到来であろう。

 

 窓の外を眺めながら、車椅子で寄りそうような二人の男性がいた。
 そのうちの一人は、私がよく母の見舞いに行くため顔見知りになった人だ。
 時折、寒いのに、病院の外へ車椅子で出てタバコを吸っている。
 先日も、「こんなところで寒いでしょう」と声を掛けたら、照れたようににんまりと笑顔を返した。
 入院してまでタバコとは難儀な話であるが、それでも早く退院して堂々と吸えるようになったらいいと思う。年令からして今さら禁煙は無理だろう。

 

 これらの人たちに春が来ることを祈る一方、もはや春の陽光を浴びることが不可能な母を思う。蓮の花が咲き誇るところで春を迎える他はないのだろうと密かに思っている。







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