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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

この期に及んでなおダムの怪?!

2009-02-25 05:14:49 | 社会評論
 都市は人工的で田舎は自然であるという考え方は必ずしも現実的ではない。
 今から30年以上前、当時は岐阜の僻地といわれた徳山村へしばしば行ったことがある。アマゴやイワナの渓流魚を追ってであったが、村落は「自然」に溢れていて自然は手つかずであるように思えた。
 
 秋には周辺の山々が見事に紅葉した。
 渓から上がり、竿を収めてしばし周囲を見渡し、錦織なす紅葉にしばし見とれた。
 たまたま通りがかった土地の老人に挨拶を交わし、「綺麗ですねぇ」とその土地への賛辞をまじえて話しかけると、「昔はこんなもんじゃぁなかったぞ。見渡す限り全部紅葉だった」と言い放った。老人は「あの辺もあっちの方も」と指さして示してくれた。

 確かに老人の指さすあたりは、杉や檜の針葉樹が黒々とした影を落としていた。要するに、金になる樹は檜や杉であり、既にして自然は加工されていたのだ。
 私は老人の指摘に納得しながら、先ほど越えてきた峠の向こう側が、ある大製紙会社の社有地であり、立ち入り禁止になっていたのを思いだしていた。

 都市よりも田舎の方がドラスティックに環境の変化が迫られるのを知ったのはそれからしばらく経ってからである。
 私がのんびり釣りを楽しんでいた頃、既に徳山村は巨大ダムの建設計画の中で揺れていたのだ。
 老人が指摘した針葉樹と闊葉樹の織りなすマダラはおろか、居住する全村民の離脱を前提としたダム建設の話が進行していたのだ。

 

 いま、かつての徳山村のすべての村落は巨大な水の下に埋もれている。闊葉樹も針葉樹もあったものではない。
 しかし、その徳山村はなんのために全村水没しなけれがならなかったのだろうか。徳山村を覆い尽くした巨大な水量はどこへ行くのだろうか?
 いま、なおそれが不明なのである。
 既に3,500億円を投じたこのダムの用途は全く分からないのである。
 どこもかしこも水は余っている。
 濃尾平野の南部では、長良川河口堰の水すらもて余している。

 だから徳山ダムは水は貯めたものの、それをどう使うのかは決まっていない。巨大な導水工事をして下流域へという案もある。しかし、そのためにはさらに1,900億円の支出が必要となる。
 要するに、用途もはっきりしないものへ既に3,500億が投じられ、さらにその必要性も定かでないものに1,900億が投じられようとしている。

 

 凄いなぁと思う。
 しかし、ちょっと待ってくれと言わねばならない。
 この合計5,400億円の支出はどこかの奇特なひとが出すのではない。私たちの税金から支出されるのだ。
 こんな巨額の税が使われるようなら、マダラでもいいからあの紅葉が残っていた方がいいと今にして思う。
 
 ここで言いたいことは徳山ダムについてのセンチメンタルな回想や繰り言ではない。
 愛知県で予定されていて、「地元了解」といわれる設楽ダムについてである。
 これは本当に要るのか?地元が了解したというのは、ダムそのものの必要性というより、ここしばらくの格差政治がもたらした地域産業の切り捨て政策のせいではないのか?

 

 三河湾にに注ぐこの川のダムが、徳山同様、不要であることは目に見えている。そして、その不要な巨大プロジェクトに群がり稼ぐ連中も目に見えている。しかし、地元は同意した。ここに悲劇はある。同意した地元を責めることも出来ない悲劇がある。地元は格差政治の中で泣いてるのだ。

 全く無駄なものが巨額な税で作られようとしている。それくらいなら、その巨額の税を使って、地域の住民が潤う施策を考えることは出来ないのだろうか。
 徳山ダムの離村を決めた住人たちはそこにとどまっていても未来はないと判断したからだろう。しかし、土建屋に払う5,400億円の金をダムではなく、他の用途に使っていたら,その人々は住み慣れた故郷を捨てることはなかったのではと今さらのごとく思うのである。

 設楽ダムは、おそらくその付帯工事も含めたら5,000億を遙かに突破し、それらは土建屋の懐に入り、政治資金としてそれを決めた政党の懐を潤すであろう。しかし、5,000億を別のかたちで投下したら、土建屋を潤すのではなく、地域の活性化にほんとうに役立つのではないだろうか。また、そのための施策を考えるべきではないか。

 
 長良川河口堰にしろ、徳山ダムにしろ、はたまた設楽ダムにしろ、明らかに不要なものに巨額な税がばらまかれようとしている。
 この不合理が日本の政治の実情なのである。
 



コメント (1)
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