六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

ここしばらくの絵日記

2015-06-29 18:05:49 | 日記
 なんか落ち着かない日々だ。
 すべきことが手に付かない。
 図書館に返すべき日が迫っているのに、読書が進まない。
 まあ、これはなんとか継続で切り抜けられそうだ。
 井筒俊彦さんのイスラムについて書いた本だが、これを予約している人はたぶんいないだろう。


 6月28日、@名古屋栄 大噴水の周辺では東北6県の美味いもの屋台と地酒地ビールが。チャイニーズ風のバンドが緑陰で「夜来香 (イエライシャン)」を奏でていた。とても居心地が良さそうでここに居たかったが、ある会合への通りすがり。やむなく素通り。


 今月中に仕上げるべき評論がひとつあり、書き始めたのだが、そのテーマに関し、新たな情報があるようなのでその本を読了するまで一時ストップ。
 それを読んだら一気呵成に書き上げたいが、その本がなかなか読み進めない。あちこち貼り付けた付箋のみが増えるのだが・・・。少し焦りも。


 6月29日、ちょっとした買い物。帰りに見た葛の群生する原っぱ。もう根っこを掘って葛粉をとるなんてことはしないのだろうな。

 
 実をいうと、そうした停滞には私生活での問題が絡み、お役所相手にしなければならない諸手続きや、窓口担当者との面談などあったのだが、一般性のない話だからここには書かない。それにこちらからポジティヴにできる事は限られている。


 30日、近所へ所用で。あまり通らない道に踏み込む。遠目にスモークツリーのような木が。しかし花が違う。ヒトツバタゴに似ているが色が違うし時期が違う。葉も違う。葉はアカシアに似ているが花が違う。なんだろう?

 
 というようなわけでブログの更新もままならない。
 だから取りまとめて、絵日記のようなものを載せてお茶を濁す所存。



 3mはあろうかというひまわりの群生。たくましい。もう花が終わって種子が露出しているものも。その並び方が整然としていて美しい。

 
 3日も更新しないと、とうとうあいつもくたばったかといわれそうな歳ので、ほとんど無内容ではあるが、これらがとりあえずは生きてることのアリバイ証明。


 田への水路、音は涼しげだが、干上がっている期間が長いので魚や水棲動物はいない。ただ、近くにジャンボタニシのピンクの卵が。彼らは生命力旺盛だ。
 
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怒りを鎮める梅雨の晴れ間の散歩から

2015-06-29 11:42:10 | 日記
 写真は後半の散歩道からのもので、前半の怒りの部分とは関係ありません。

 ご政道筋の話はますます剣呑になってきて、自分たちの施策が国民に理解されないのはメディアのせいでそれをぶっつぶせというところまで差しかかったようだ。
 無責任な暴言を振りまいた講師という男は、「飲み屋での放談だ」といったと報じられている。


 
 話の内容もだが、それ自身が許せない。飲み屋を舐めている!飲み屋での話は厠の垂れ流しでどうでもいいのだと言いたげだが、30年間飲み屋を営んできた身にはそれが許せない。
 自民党の「文化芸術懇話会」なるところで話された内容は、私のかつての店のカウンターで話されていたものよりはるかに次元が低いものなのだ。

 もしそれが、あの店のカウンターで話されたとしたら、私がチェックし、反論し、たたき出していただろう。そのようにした客も、数少ないがいた。
 飲み屋を舐めるんじゃないっ!と私の怒りはおさまらない。


 
 彼の発言は同時に、私の宝であり、貴重な遺産である今にも続く人間関係を、そしてそのネットワークを支えてくれている当時の顧客を、自分と同じレベルに引き下げて蔑んでいるという点で断じて許せない!

 こうした「どうせ飲み屋なんて・・・」という意識は、それ自身差別そのものであり、それに依拠して自分の見解とは差異を持つものは力づくで「潰してしまえ!」という発想につながるのだ。


 
 こんなことでウジウジしていてはこちらの健康にも差し支える。そこで梅雨の晴れ間を縫って散歩に出た。よく歩くコースだが、今回は久しぶりだ。
 ある意味では見慣れた光景だが、季節ごとの風情の違いが面白い。

 田植えの遅いこの地方だが、稲はだんだんたくましくなり、その緑も濃くなってきた。田の水面を渡る風がさざ波となって広がる。若い稲の葉先が揺れて、それだけでじゅうぶん美しいと思う。


 
 距離はあまりないが、じっくり見て歩く方なので時間はけっこうかかる。当然だが風景にも歴史がある。かつてあった木がなくなり、一枚の田が休耕田になり、田園には不釣り合いな家が突然現れたりする。最近の建築は、ブロックの組み立てのようなものだから、ちょっと見かけないうちに忽然と姿を現す。



 気がつけば、散策に値する範囲がどんどん限定されてゆく。
 それでも残されたかつての痕跡を求めて彷徨う。
 なくなってしまったもの、なくなりつつあるものを極力記憶に留めたいと思うのだが、老いの記憶力の限界、かつてあったものを想起できないことが多い。
 悲しいが、ものごとが更新されるということはこういうことなのだろう。

 百田のしゃっ面が、少しは希薄になったかな。

 

 
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