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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

アートでないひとが読む『アート・ヒステリー』(大野左紀子)

2012-10-06 16:41:38 | アート
              

 大野左紀子さんの『アート・ヒステリー』(河出書房新社)を読みました。

 本来アートとはさほど縁のない人間だと思っています。
 それでもビックネームの美術展があったりすると観に行ったりすることがあります。
 それもさほど頻繁ではありません。
 それが現代アートになればいっそう疎遠となります。
 最近では、ジャクソン・ボロックやマックス・エルンストを観た程度です。
 それも、親しい人からチケットを頂いたからで、そうでなかったら自分で見に行ったかどうかはいささか心もとないものがあります。
 それでもしばらく前には、アンディ・ウォーホルやルネ・マグリットも見たことがあります。
 デュシャンへの関心は美術というより、現代思想絡みの文脈においてでした。

 そういえばこの書で取り上げられている「ゲリラ・アーティスト」のバンクシーが監督をした『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』という映画も観ています。
 これは面白かったですね。真贋(そんなものがあるのだろうか?)が入り乱れて、ついにはこれを撮ったバンクシー自身の立脚点そのものにも迫るという皮肉な構成は、つまるところ、現代アートというものの「二次性」、そしてそうであるがゆえの危うさのようなものを示しているように思いました。
 念の為にいっておけば、現代アートならずともあらゆる芸術がそうした「二次性」を含むものでしょうが、それらが顕著なのはやはり現代アートにおいてだろうと思います。
 どこかで、既存の作品のコピーを濡らして乾かしただけで自分の作品と称している「アーティスト」への非難を読んだことがありますが、それなら私にもできそうな気がしたものです(そんなことをする気は毛頭ありませんが)。

 とまあ、「教養主義」的にしか関わっていないのが実情ですが、しかし、上に述べたようにこちらから意識的に接近したのはすべて西洋の作家だといえます。
 もちろん、荒川修作や草間彌生のものなどは観ようとしなくとも視界に飛び込んでくるのですが、あえて注視する機会は少ないのです。村上隆のものも、図鑑やネットでは見ていますが、こちらから観に行こうとはしません。その作品で、一昔前の永井豪のマンガ『ハレンチ学園』をさらに進化させたような『マイ・ロンサム・カウボーイ』というフィギアが、ザザビーで約16億円で落札されたというニュースも、まさにニュースであってアートの問題としてはピンとこなかったのが正直なところです。
 こうした西洋偏重も、この著者の大野さんにいわせれば「父」への拝跪ということなのかもしれませんね。
 
 こんな私をこの書へ誘うのはその帯に書かれたこんな言葉かもしれません。
 「何なの?これ」「アート」「え、こんなことやっていいの」「うん、だって、アートだから」
 そして裏表紙の帯には「こんな人に読んでほしい!」とあって4項目ほどが挙げられているのですが、私の場合は強いていうとその4番目の「《普通》を選んでいるにもかかわらず《ちょっと謎めきたい願望》を抱く社会人」に相当するでしょうか。

 本書の第一章は「アートがわからなくても当たり前」と、ひとまずは私のような門外漢を安心させる仕掛けになっています。
 わからないものの代表としてピカソ、ないしはピカソ的なものが挙げられているのですが、これについて私はとても恥ずかしい思い出があります。
 もうずいぶん前ですが、何気なしに入った画廊でハガキ大のピカソのリトグラフか何かが展示されていました。黒一色で、私たちがボールペンのインクの出が悪いとき、傍らの紙にクシャクシャクシャと矢鱈に線を書いてみるような、まあ、いってみれば落書きのようなものです。
 しかし、それはとても魅力的でした。何が魅力的かというと、その作品ではなく価格でした。
 その作品の下には「10,000」と記されていたのです。
 ピカソの絵が一万円!それだけ出せば私もピカソの絵が持てるんだ!
 私は大いに逡巡しました。
 しかし、やや冷静になって考えるに、どうもおかしいのではないかと思えるのです。
 そこでもう一度よくあたりを見渡しました。
 すると、なんとすぐ横に「表示した価格は千円単位です」とあるではありませんか(あえて計算はしません。ご自分でどうぞ)。

 私の中で恥ずかしさが込み上げてきました。こうしたものの相場というかそうしたものに暗いということに対してではありません。
 たぶん、これが道端に落ちていても、「なんだ子供の落書きか」と拾いあげても見ないようなものに、「ピカソ」という名がついているだけで大枚一万円を払おうとしたおのれの浅ましさについてです。
 それ以来、アートと聞いただけでへっぴり腰になるのですが、反面、「価格」の権威からは免れてそれらを観るきっかけにはなったように思います。

 脱線の多い感想文ですが、本書の方に戻りましょう。
 この第一章では「アートがわからない / わかる」がどのような背景で語られるのかが述べられます。
 それは、著者がアーティストであった経歴、アートの教育に携わっていたことなども踏まえながらも、決してアートの範囲内からのみではなく、わが国への美術導入の歴史的経緯、美術をめぐる社会経済的な要因、さらには心理学的な要因(これについては後述の予定)などなど、さまざまな切り口から問題の所在を示してくれます。
 例えば、つい最近問題化している大阪の橋下徹市長と在阪の文化施設(文楽、オケ、児童文学館など)との関連といったアクチュアルな問題も登場します。
 そこで私たちは、「なるほど、一口にアートといってもそうした背景のもとに私たちに提示されているんだ」と納得するわけですが、まだ、「わからない / わかる」の問題が解けたわけではありません。

 そこで著者は、私たちの受けてきた美術に関する教育の問題へと遡行するわけです。
 そんなわけで、第二章のタイトルは「図工の時間は楽しかったですか」ということになるのですが、私の悪癖が出てまただらだらとした文章になってしまいました。
 この続きは改めて書くことにします。
 しかし、書きかけてはみたものの、別に見通しのある文章ではありませんので、またまた考えながら書いてゆきます。したがってその行方は杳としてわかりません。
 ただヨイショではなく、出来ればちょっとした「イチャモン」などもつけてみたいと思っています。 (つづく)
 





 

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「死ぬということ」 友人からのメールへの返事

2012-10-06 02:28:24 | よしなしごと
 以下はある友人から来たメールへの返事です。
 いささかしどろもどろですが、それが私の実情なのです。


           

<前略>
 二番目の「死」についてのご質問に適切にお答えすることは難しいですね。
 というのは、私自身、いい歳でありながら、それらとちゃんと向き合うことなく、ノンベンダラリンと生き続けているからです。
 加えて、「死」はまさに自分固有のもので、ある種の規定に添って死ぬことなどできないと考えているからです。
 ですから、これから述べることも、何ら一般性のない私の漠然とした想念にほかなりません。

 私たちは死について明確な表象をもつことはできません。
 というのは誰も死を経験したことはないからです。
 臨死体験というのがあるのだそうですが、それはある種の心理的な陥穽のようなもので、だいいち、「霞のようなものが晴れると急にお花畑が現れて・・・」などという話を聞かされても何の役にも立たないだろうと思います。

 といったわけですから、私たちは先人が語った死に関するものの中から、いくぶんたりとも腑に落ちるものがあれば、それを吟味するほかないわけです。

 一般に動物は死なない、その生を終えるだけだと言われたりします。
 それは動物が自分が死ぬということを知らないからです。
 なぜかというと動物には時制(過去・現在・未来)というものがないからだといわれます。
 ですからひたすらに「いま」を生きているのみです。
 しかもその「いま」は人間の「現在」とも違います。
 人間の「現在」は「過去と未来の間」にあるものだからです。

 動物にも過去の経験に依拠したり、未来を考慮しているようにみえる行為が観察されます。
 しかし、それらは彼らの意識のうちというより遺伝子に書き込まれたものだと推測されます。彼らとしてはそれも含めてひたすら「いま」を生きているのだということでしょう。
 これらのことから、過去・現在・未来をおもんばかることこそがいわゆる「意識」と大きく関連し、それが人間と動物を分かつものといえるかも知れません。

 ところで、動物は煩悩を持たず人間のみがそれを持つとすれば、それは上に述べたことと関連するだろうと思います。ようするに人間は過去を悔やみ、未来を憂う存在だということです。それはまた自意識をもつということ(他者をもつということ)でもあるでしょう。

 禅の修行というものはよく知らないのですが、そうした自意識のもつ拘束性のようなものを断って、「なぜなし」にただあることを承認するということではないかと思っています。浄土宗系の他力本願もまた、その自意識の強度による救済ではなく、大いなる者への同化としての他力の推奨であろうと思います。

 上に述べたことといくぶん関連しますが、ハイデガーという人は人間のみが死を知るということ、そして時制のうちにあることを踏まえて、死に先駆けて本来的な生を生きろと説きました。
 本来的な生とは日常的なおしゃべりやゴシップの世界、世常にのみ込まれない生き方のようですがそれが何であるかはわかりません。ハイデガー自身はそれを、チンタラした日常から飛躍するかに見えた当時のナチズムのうちに見てしまったことがあります(このハイデガーについての概括は極めて粗っぽいものですからあまり信用しないで下さい)。

 こうしてハイデガーは「死に先駆けて生きる」ことを説いたのですが、その弟子にして不倫相手だった(このへん実に週刊誌的ですねぇ)ハンナ・アーレントは、後年これとは違う立場をとります。そりゃあそうでしょう、いくら惚れていて尊敬する相手とはいえ、ナチズムへの同化はアーレントの許容の範囲を超えていました。なぜなら、アーレントはユダヤ人であり、一度は収容所に送られながらそこを脱出してアメリカへ亡命するという経験をしたのでした。

 ですからアーレントはその師から多くのものを学びながら、死生観においては違うベクトルから迫りました。
 彼女はいいます。
 「確かに人間は死ななければならない。しかし、人間は死ぬために生まれてきたのではない」
 ですから彼女は人間の生誕、始まりに注目します。
 一人ひとりの人間の生誕は、新しい自由の開けへの可能性であるというのです。
 新しい人、彼女や彼がこの世にデビューするということは、新たな自由の可能性の開けであるというのです。
 それはこの世界にとっての更新であると同時に、そこへと参入する諸個人にとっても第二の誕生だというのです。この世界にとっては「第二の創造」、つまり人間が自分たちの意志で世界を創ってゆこうとすることであり(もちろんそれが常に可能であるということではなくそれを試みるということです)、それへ参加する人にとっては動物的、生物学的生(ゾーエー)として生きることから、活動的な生(ビオス)を生きることだというのです。
 もちろん、アーレントのいう「始まり」は生物学的生誕にとどまらず、日々私たちの「始まり」でもあります。

 この両者ともに「死」は前提になっています。
 しかし、そのベクトルは違います。「死ぬから生きろ」というのと「生まれたことを噛み締めて死ぬまで生きろ」という違いのようなものです。

 どうやらご質問の趣旨とは大きくずれたようですね。
 しかし私は今のところ、こんなことしかいえないのです。
 いずれにしても死は流通や交換不可能なものですから、私たちはおのれの死を見つめるほかはないと思います。
 ただし、死は「絶対的な他者」ともいえるものですから、どんなに私たちがそれを考えても、ある日するりとそれをすり抜けてやってくるようなものだと思います。

 

コメント (1)
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