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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

枯れ尾花の道を行く おまけのカワセミとカブ

2010-12-24 17:14:13 | 写真とおしゃべり
 久々に郵便局まで歩いた。春にはちょっとした川をはさんで桜並木となるいい道である。
 なぜみぞれ模様の寒さにもかかわらず徒歩にしたかというと、いくぶん危機感があったからである。

 それは私の貴公子のようなスリムな体型と関係する。
 170センチ59キロ、体脂肪率18%ほど。なぜこの私がアダルト・ファッションのモデルに誘われないが不思議なほどだ。まあ強いて難といえば、顔にしまりがない(よくいえば優しすぎるのだ)のといまの若い連中に比べたら若干(若干ですぞ)足が短いせいなのだろう。

           

 それはさておき、その貴公子の体型が危機に瀕しているのだ。
 体重が2キロほど増えた。それに連れて体脂肪率も20%を示すようになった。
 原因は分かっている。以前なら多少寒かろうがなんだろうが徒歩か自転車で往来し、駅や建物の内部では出来るだけエスカレーターやエレベーターを利用しなかったのに、ここ一、二年、やれ今日は寒すぎる、やれ今日は疲れているとやたら楽をしたがって、車を濫用し、階段と見ると自分の足を使おうとせず怠けるようになったからである。

 今年はとりわけそうで、風邪と腰痛に悩まされていることもあって、秋ぐらいから自分の足腰を使う機会がグンと減ってしまったのだ。この運動不足を、私の素直な体重と体脂肪が反映しているわけである。

 で、一念発起、歩くことにした。歩き始めると、細かい水滴がさっと顔面をなぞった。時雨のかけらのようなものだ。少しひるんだが、歩くにつれてそれも収まりからだが暖かくなってきた。腰のちょうつがいも心配したことなく機能している。

       

 少し落ち着いて周りを眺めるとそこはススキの道だった。
 ススキは秋のものとされる。白い穂先が風に揺れて、それを逆光からうまく捉えるとまるで生命があるかのような写真になる。

 この時期のススキはもはや完全に終わった枯れ尾花なのだろうが風情は悪くはない、というより私は好きである。
 上手に品よく立ち枯れている株を見つけると、図々しくも自分とそれを重ね合わせたりする。
 「私もあのように立ち枯れたい」とはいうもののどうせそんな具合には行くまい。もっとはちゃめちゃでどろどろし、自分の醜いところをさらけ出しながらのたうち回って死ぬのだろう。

 そんなことを考えている私を慰めるように翡翠のつぶてが水面を走った。しかもつがいで。
どうも飛んでいるカワセミは色彩がよぎるのみであれよあれよという間に視界から消える。
 しかし、今日は恵まれていた。いちど飛び去った彼らが、またもやつがいのまま戻ってきたのだ。
 しょぼくれた爺さんが寒そうにひょこひょこ歩いているので、特別ショウを見せてくれたのに違いない。

 時節柄、郵便局は混んでいた。私の用件は簡単に終わるものだったので、今度は川沿いの反対の道を通って帰った。もう、飛ぶ宝石にはお目にかかれなかったが、その代わり近くにある菜園によってみた。
 つい最近までいろいろな作物に溢れていたのだがほとんど収穫され、残っているのは大根や蕪、それにねぎ、お雑煮用の正月菜ぐらいである。

       

 都会に住んでいる人は蕪というものは根菜だから地中に玉を作ると思いがちだがそうではない。そうした先入観に影響を与えたのは、小学校の教科書などに出てくる大きな蕪をみんなが協力して引っこ抜く話で、協力を説くのは悪くないが、中には挿絵などでもろに蕪が地中にあるものもある。ここに引用したものはある童話社のものだが、やはり大半が地中に埋まっている。

       

 実際の写真と見比べていただくとその違いが分かるが、でも写真のようだったら大勢がよってたかってという「協力」の主旨が生きてこないからこれはあえて強弁しないことにしよう。

 さてさて、今年もうひとつのイベントは若い方たちとの西田哲学のお勉強、テキストは、あの「なければならない」という文体がが連発される「絶体矛盾的自己同一」。
 う~ん、私は「絶体絶命的自己破綻」。
 一応テキストは読んだがあとは無手勝流あるのみ。




コメント (6)
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