久々に郵便局まで歩いた。春にはちょっとした川をはさんで桜並木となるいい道である。
なぜみぞれ模様の寒さにもかかわらず徒歩にしたかというと、いくぶん危機感があったからである。
それは私の貴公子のようなスリムな体型と関係する。
170センチ59キロ、体脂肪率18%ほど。なぜこの私がアダルト・ファッションのモデルに誘われないが不思議なほどだ。まあ強いて難といえば、顔にしまりがない(よくいえば優しすぎるのだ)のといまの若い連中に比べたら若干(若干ですぞ)足が短いせいなのだろう。
それはさておき、その貴公子の体型が危機に瀕しているのだ。
体重が2キロほど増えた。それに連れて体脂肪率も20%を示すようになった。
原因は分かっている。以前なら多少寒かろうがなんだろうが徒歩か自転車で往来し、駅や建物の内部では出来るだけエスカレーターやエレベーターを利用しなかったのに、ここ一、二年、やれ今日は寒すぎる、やれ今日は疲れているとやたら楽をしたがって、車を濫用し、階段と見ると自分の足を使おうとせず怠けるようになったからである。
今年はとりわけそうで、風邪と腰痛に悩まされていることもあって、秋ぐらいから自分の足腰を使う機会がグンと減ってしまったのだ。この運動不足を、私の素直な体重と体脂肪が反映しているわけである。
で、一念発起、歩くことにした。歩き始めると、細かい水滴がさっと顔面をなぞった。時雨のかけらのようなものだ。少しひるんだが、歩くにつれてそれも収まりからだが暖かくなってきた。腰のちょうつがいも心配したことなく機能している。
少し落ち着いて周りを眺めるとそこはススキの道だった。
ススキは秋のものとされる。白い穂先が風に揺れて、それを逆光からうまく捉えるとまるで生命があるかのような写真になる。
この時期のススキはもはや完全に終わった枯れ尾花なのだろうが風情は悪くはない、というより私は好きである。
上手に品よく立ち枯れている株を見つけると、図々しくも自分とそれを重ね合わせたりする。
「私もあのように立ち枯れたい」とはいうもののどうせそんな具合には行くまい。もっとはちゃめちゃでどろどろし、自分の醜いところをさらけ出しながらのたうち回って死ぬのだろう。
そんなことを考えている私を慰めるように翡翠のつぶてが水面を走った。しかもつがいで。
どうも飛んでいるカワセミは色彩がよぎるのみであれよあれよという間に視界から消える。
しかし、今日は恵まれていた。いちど飛び去った彼らが、またもやつがいのまま戻ってきたのだ。
しょぼくれた爺さんが寒そうにひょこひょこ歩いているので、特別ショウを見せてくれたのに違いない。
時節柄、郵便局は混んでいた。私の用件は簡単に終わるものだったので、今度は川沿いの反対の道を通って帰った。もう、飛ぶ宝石にはお目にかかれなかったが、その代わり近くにある菜園によってみた。
つい最近までいろいろな作物に溢れていたのだがほとんど収穫され、残っているのは大根や蕪、それにねぎ、お雑煮用の正月菜ぐらいである。
都会に住んでいる人は蕪というものは根菜だから地中に玉を作ると思いがちだがそうではない。そうした先入観に影響を与えたのは、小学校の教科書などに出てくる大きな蕪をみんなが協力して引っこ抜く話で、協力を説くのは悪くないが、中には挿絵などでもろに蕪が地中にあるものもある。ここに引用したものはある童話社のものだが、やはり大半が地中に埋まっている。
実際の写真と見比べていただくとその違いが分かるが、でも写真のようだったら大勢がよってたかってという「協力」の主旨が生きてこないからこれはあえて強弁しないことにしよう。
さてさて、今年もうひとつのイベントは若い方たちとの西田哲学のお勉強、テキストは、あの「なければならない」という文体がが連発される「絶体矛盾的自己同一」。
う~ん、私は「絶体絶命的自己破綻」。
一応テキストは読んだがあとは無手勝流あるのみ。
なぜみぞれ模様の寒さにもかかわらず徒歩にしたかというと、いくぶん危機感があったからである。
それは私の貴公子のようなスリムな体型と関係する。
170センチ59キロ、体脂肪率18%ほど。なぜこの私がアダルト・ファッションのモデルに誘われないが不思議なほどだ。まあ強いて難といえば、顔にしまりがない(よくいえば優しすぎるのだ)のといまの若い連中に比べたら若干(若干ですぞ)足が短いせいなのだろう。
それはさておき、その貴公子の体型が危機に瀕しているのだ。
体重が2キロほど増えた。それに連れて体脂肪率も20%を示すようになった。
原因は分かっている。以前なら多少寒かろうがなんだろうが徒歩か自転車で往来し、駅や建物の内部では出来るだけエスカレーターやエレベーターを利用しなかったのに、ここ一、二年、やれ今日は寒すぎる、やれ今日は疲れているとやたら楽をしたがって、車を濫用し、階段と見ると自分の足を使おうとせず怠けるようになったからである。
今年はとりわけそうで、風邪と腰痛に悩まされていることもあって、秋ぐらいから自分の足腰を使う機会がグンと減ってしまったのだ。この運動不足を、私の素直な体重と体脂肪が反映しているわけである。
で、一念発起、歩くことにした。歩き始めると、細かい水滴がさっと顔面をなぞった。時雨のかけらのようなものだ。少しひるんだが、歩くにつれてそれも収まりからだが暖かくなってきた。腰のちょうつがいも心配したことなく機能している。
少し落ち着いて周りを眺めるとそこはススキの道だった。
ススキは秋のものとされる。白い穂先が風に揺れて、それを逆光からうまく捉えるとまるで生命があるかのような写真になる。
この時期のススキはもはや完全に終わった枯れ尾花なのだろうが風情は悪くはない、というより私は好きである。
上手に品よく立ち枯れている株を見つけると、図々しくも自分とそれを重ね合わせたりする。
「私もあのように立ち枯れたい」とはいうもののどうせそんな具合には行くまい。もっとはちゃめちゃでどろどろし、自分の醜いところをさらけ出しながらのたうち回って死ぬのだろう。
そんなことを考えている私を慰めるように翡翠のつぶてが水面を走った。しかもつがいで。
どうも飛んでいるカワセミは色彩がよぎるのみであれよあれよという間に視界から消える。
しかし、今日は恵まれていた。いちど飛び去った彼らが、またもやつがいのまま戻ってきたのだ。
しょぼくれた爺さんが寒そうにひょこひょこ歩いているので、特別ショウを見せてくれたのに違いない。
時節柄、郵便局は混んでいた。私の用件は簡単に終わるものだったので、今度は川沿いの反対の道を通って帰った。もう、飛ぶ宝石にはお目にかかれなかったが、その代わり近くにある菜園によってみた。
つい最近までいろいろな作物に溢れていたのだがほとんど収穫され、残っているのは大根や蕪、それにねぎ、お雑煮用の正月菜ぐらいである。
都会に住んでいる人は蕪というものは根菜だから地中に玉を作ると思いがちだがそうではない。そうした先入観に影響を与えたのは、小学校の教科書などに出てくる大きな蕪をみんなが協力して引っこ抜く話で、協力を説くのは悪くないが、中には挿絵などでもろに蕪が地中にあるものもある。ここに引用したものはある童話社のものだが、やはり大半が地中に埋まっている。
実際の写真と見比べていただくとその違いが分かるが、でも写真のようだったら大勢がよってたかってという「協力」の主旨が生きてこないからこれはあえて強弁しないことにしよう。
さてさて、今年もうひとつのイベントは若い方たちとの西田哲学のお勉強、テキストは、あの「なければならない」という文体がが連発される「絶体矛盾的自己同一」。
う~ん、私は「絶体絶命的自己破綻」。
一応テキストは読んだがあとは無手勝流あるのみ。
これでは「正体見たり」がついてまわる枯尾花そのものですが、菅内閣の「立ち枯れ」に接触するニュースを見て、まこと正体見たり!
しかし、こんな句を思い出しました。
「枯尾花悉皆仏性色の果て」
色の果てといえば、身長162センチの小生の定年時体重は56キロでしたが、現在は63キロ、体脂肪率32%。これは何を物語っているのでしょうか。
まあこちらも、ややメタ何とか気味の猫ですが。
なぜでしょうね。さんこさんがおっしゃるように食欲など私の方が旺盛そうですし、只今さんがたしなまれない高カロリーの酒類なども私は飲んでいます。
あとは間食(甘い物)と運動量の違いでしょうか。
私は間食はしませんし、それ以外でも甘い物はほとんど食べません。
運動に関しては、「運動のための運動は・・・」という守旧派ですから、自転車に乗る、歩く、階段を登る自然な運動に限られます。
とはいえ、それを僅かに怠っただけで上記のように数値が跳ね上がるのをみると、今後一層怠けて体を動かさなくなる可能性もありますから、只今さんの年齢に達した頃にははやりそうなる可能性は大であるわけです。
思っていました。
大きな蕪の話は、協力などという美しい
ことではなく、
ソ連の社会主義思想(コルホーズが舞台)
を広める話だから、教科書から追放されて
当然。
根菜だけに地「中根」だとお思いになったのですね。
コルホーズなどというほとんど死語をよくご存じですね。確かに、そうしたプロパガンダによく利用された話です。
ただし、この話自身はロシアの民話として古くからあり、トルストイなども書いています。
一般的にいって、みんなで協力すること自体は悪いことではないわけで、問題はなんに協力するかでしょう。
正しいと信じて一緒に引っ張っていたらとんでもないものを引きずり出してしまったというのは歴史上多々ある教訓です。
その意味では、私たちが状況を読むリテラシーを身につけるべきでしょうね。