ウィキリークス(WikiLeaks)の創設者ジュリアン・アサンジ(Julian Assange)氏のイギリスにおける逮捕は、既にいろいろなところで明らかにされているように、氏がセックスをする際にコンドームを着用していたかいなかったかなどという全くもって陳腐な理由であることが明らかになっている。それが仰々しくも国際手配にまで至ったのだからあきれてものがいえない。
しかしこのマンガチックな現実の中にこそ、この事件が内包する問題があからさまに提示されているのである。
もちろんその狙いは彼の下半身の問題でではなく、ウィキリークスそのものであることはいうまでもない。それはかつて、沖縄密約事項を暴露した西山事件に対するのと全く同じ構造をもった汚いやり方なのである。
アメリカ連邦政府、ペンタゴン、それに追随する各国のエスタブリッシュメントの連合による抑圧と弾圧であるが、それが、機密事項をリークすると言うその行動にたいして向けられていると同時に、その活動の場であるネットという新しいメディアそのものに対する攻撃であることに注目する必要がある。
だからこの件については、既存のメディアは、その暴露された事実の美味しそうなところはちゃっかりつまんでおきながら、ウィキリークスそのものへの攻撃にはきわめて冷淡である。それどころか、世界の大新聞などが彼らを包囲する一翼を担ってさえいる。
それは日本のマス・メディアも同様である。もし彼らが本当に事実を報道することに自らの使命を感じているとしたら、今回のウィキリークスへの弾圧には自らも体を張って共闘態勢を組むべきなのにかかわらず、現実には対岸の火事よろしくきわめて陰険で冷ややかな眼差しを送るのみである。
もはやマス・メディアには、お上にぶら下がっておこぼれの情報をちょうだいするという記者クラブ体質がしみ込んでしまっている。そして、そうした体制に迫る新たなメディアとしてのネットを媒介とした報道への恐怖心や敵愾心に駆られているのである。
この事実は、マス・メディアがもはや媒体そのものとして守旧的なものに堕していることの証左に他ならない。
マクルーハンの言う如く、まことにもって「メディアはメッセージ」なのである。
大新聞が赤字に転落するなど、そうした守旧派の古いメディアは、早晩その使命を終えて消滅する運命なのだが、もし、もう少し頑張る気があるとしたら、今回の卑劣で不当な別件逮捕と、ネット上での報道規制強化の趨勢に、報道に携わるものとしてともに抵抗の姿勢を示すべきである。
まことに遺憾ながら、今のところその兆しは皆無である。
かくて古いメディアの凋落と歴史的使命の終焉は加速される。
*この間の流出、漏洩事件との関連を元に、前回、前々回の日記で、二回にわたり、「マス・メディアの凋落と新しい情報のあり方」と題して問題を提起しておきました。ご参照下さい。