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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

小説『1984年』の完成・・覗き見と告げ口の社会を生きる

2009-01-27 03:13:05 | 社会評論
 これは、他のところで、ネット上の私の友人が現代の監視社会について触れている問題提起に対し、私が応じたものの掲載です。

 もう何年か前です。全国の高速道路を走る何十万台の車の中から容疑者の車を見つけ出し、その車が死体遺棄現場に向かっていた状況証拠をつかみ、逮捕に至ったという事件に接しました。
 その折、「へぇ、そんなことが出来るんだ」と感心する一方、もはや誰にも知られずに移動することが出来ない社会に住んでいるのだと実感しました。

 

 また、最近の犯罪報道などでも、都市部のみならず郊外でも、意外な場所での監視カメラの設置が伺われ、その監視ネットワークは随分緻密であるようです。
 さらには、人工衛星からの地上の映像が、今やセンチメートル単位で解像可能だと知り、これぞ現代のパノプティコン(放射状に獄舎を設置しその中央に監視室を設けるような全展望監視装置のこと)、神の視座だと思ったものです。
 これも何年か前ですが、犯罪防止のため各地の公園で死角をなくすため、生け垣を低くし、木陰を生み出す樹木の伐採が行われたこともあります。もはや、酔っぱらって立小便すらできないのです。

      
 
 ようするに知らない間に、ピープ(覗き見)とチクリ(告げ口)がインプットされた空間に居住し行為するというのが至極当たり前の現実となってしまったのです。
 ジョージ・オーウェルの小説『1984年』の日常化といってもいいでしょう。
 それらが、一方でのプライバシーや個人情報の保護というお題目と並行して実現されたこと、そして、どこからもさして問題として取り上げられることなくスルスルっと実現してしまったことも異様といえるかも知れません。

 

 私がなにか反社会的な行為をしない限り、それらの監視装置からのリアクションはないとはいえ、理不尽な越境的侵犯の可能性(小説『1984年』の世界です)を秘めた装置の満遍なき普及はやはり気味が悪いものがあります。
 まさに権力は遍在するで、私が自由を謳歌する際にも、それはそうした監視下での許された範囲内においてでしかないということは、お釈迦様の掌中にある孫悟空の自由にしかすぎないということでしょうね。

 私のような古い人間はそれに違和感や不快感、忌々しさを感じるのですが、おっしゃるように若い人たちはそれが習い性になったというか、すっかり内面化されてしまったというか、そうした監視社会が当たり前となっているようで、むしろ監視されていることに安心すら覚えているようですね。

    

 総てがデジタル化されるゲゼルシャフト(利益共同体)な社会の進展にともない、相互のまなざしが交差する中にいるという擬似的なゲマインシャフト(情念に根ざす共同体)として、これら監視社会が受容されているのでしょうか。

 こうした中で、このシステムにねじ伏せられることなくディオニソス的にそれを異化し、はみ出してて行くことの可能性への問いは重いと思います。
 「現代思想」とやらに依拠した評論家諸氏は、幾分アジテーション気味にそこからの脱却を言いつのりますが、その具体的手だてを示そうとはしません。

 

 フーコーやドゥルーズ、デリダ亡き後、彼らの遺産を継承しながら、そのアクティヴでアグレッシヴな展開、実践的にバージョン・アップした展開が求められているように思います。
 もはや私に、それらを展開する能力がないことへの口惜しさを自覚しつつこれを書きました。

コメント (4)
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