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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

クラシックとセックス 初映画二本立て

2009-01-08 15:33:03 | 映画評論
 二本立てといっても勝手に続けて二本観ただけですが、ひとつはサイモン・ラトル率いるベルリンフィルの東アジア演奏ツアーの記録『ベルリン・フィル 最高のハーモニーを求めて』(’08 トマス・グルベ監督)、もう一本は高校生のセックスを描いた『俺たちに明日はないッス』(’08 タナダユキ監督)。
 ああ、何という取り合わせでしょうか。
 でも観てしまったものは仕方がありません。

 お目当てはむろん前者ですが、後者は夕刻人と会うための時間つぶしのようなものでした。しばしば書いてきましたが、岐阜に名画座系の館がなくなってから、名古屋への交通費の節約もあって、こうして同じ日に二本を見る機会が増えました。 
 二つの映画の印象がごっちゃになるのであまりいいとは思わないのですが、今回のようにあまりにも落差が大きすぎると、かえって相互に干渉する余地は少ないようです。

      
               サイモン・ラトル

 さて前者の監督、トマス・グルベは、前作の『ベルリンフィルと子供たち』で、やはりラトルのベルリンフィルと、名もない子供たちのダンスが、ストラヴィンスキーの『春の祭典』でコラボレイトする様を描いて見事でした。
 今回の映画は、北京→ソウル→上海→香港→台北→東京というベルリンフィルの演奏ツアーをその土地々々のありようを交えて描いたものですが、主眼は、各パートの演奏者たちの音楽観、オケに対する態度などが次々と語られるところにあります。

 そこで披露されるものは実に多様です。そして、その多様なものがひとつになって音楽を形作るという共同作業としてオケがあり、そのコアとしての指揮者が存在することが浮き彫りにされます。
 各パートの演奏技術の秀越さもさることながら、それらの構築の差異が、オケの性格やその紡ぎ出す音楽の差異となって現れるのでしょう。

      
           「ベルリンフィルと子供たち」から

 ベルリンフィルを注視し続けて来たわけではありませんが、カラヤンのゲルマン的重厚からアッパドの南国性を経て、アングロサクソン流のラトルに至り、いい意味でのプラグマティックな状況への対応によって、未来への開かれた活動が可能になったように感じました。

 台北でのコンサートで、会場には入れなかった万余の聴衆が場外スクリーンでその演奏を楽しみ、最後に挨拶に出たラトル以下のメンバーと交歓する風景は音楽のもつエネルギーを示していて感動的でした。しかも、それらの観衆の大半が若者たちで占められていたことも特筆すべきでしょう。

 ちょうどこの映画を観た日、ベルリンフィルは今後、ネットで演奏会を公開すると発表しました。
 
あ、もう一本の映画ですか?高校生のセックスに対する開かれ(?)は羨ましかったです。もう半世紀後に生まれていたら・・。う~ん、でも、おそらく私なら溺れてしまっていることでしょう。

 




コメント (1)
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