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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

落とす側と落とされる側

2007-07-03 17:46:46 | 社会評論
 久間防衛大臣が辞任したようです。
 当然といえば当然なのですが、釈然としない問題も残ります。
 ひとつはなぜこんな国民感情とはズレた発言が出てくるのかということです。
 もうひとつは、彼はどのような過ちを認めて辞任したのかです。

 

 
 核の問題を考える立場に二つあるように思います。

 ひとつは、リアルポリティックスの中で、政治的な駆け引きの道具として、あるいはその軍事的、外交的、経済的効率の面から考えるプラグマティックな立場です。
 
 この立場は、核兵器を製造したり、保有したり、それを落としたり(あるいは落とさなかったり)する為政者の立場です。

 広島、長崎以降、原爆は落とされたことはなく、とりあえずは、バランスオブパワーの中で即使用されないかのようです。
 しかし、所詮、道具や装置としてある以上、その使用は潜在的な目標として前提されているのであり、偶発的な状況の中で使用される可能性を常に孕んでいるものですから、これは危険な綱渡りといえます。

 ましてや、現在の各国の核保有の総和は、全人類を50回以上殺戮できるキャパを持っているのですから、私達は、既に半世紀にわたって、こうした核の座布団の上に座っているのです。
 しかし、どうも人々はその事実に慣れすぎて、不感症になっているようです。

  

 核に関するもうひとつの立場は、それを落とすかどうか、その効率を図る為政者とは対極に、それを落とされる方の人々、既に死者となった20万の人々、これからなるかもしれない潜在的な犠牲者の人々の立場です。
 
 この立場からは、絶対に核許容論は出てきませんし、核をその保有や使用においての効率の問題として考える視点は出てきません。
 そしてこれこそが、被爆国としての私達が堅持し、核保有国への警鐘として語り継ぐべきことです。

    


 久間という人の「しょうがない」発言は、明らかに前者の、原爆の効率性について云々する立場、落とす方の立場に立っています。
 ここには、すでに亡くなった人たちや、これから亡くなるかも知れない人たちに付いては一顧だにされず、ただただその効用について語られています。
 だからこそ、結果として、既に亡くなった人、これから亡くなるかもしれない人へ唾を吐きかけ、足蹴にすることが出来るのです。

 久間という人は辞任はしたものの、政治的な手段としてのみ、核を考える基本姿勢は変わっていないようです。
 「首相に対して」謝ったり、友党としての公明党からも手厳しい批判に合い、観念し、辞職したようですが、それもまた、「選挙を控えて不利になる」という効率的な視点のみで、犠牲になった人々への謝罪の態度はまったく見られません。
 それどころか、「私の発言の主旨が理解されなかった」と、理解し得ない私達を馬鹿にした言い方が続いています。

 
 要するに、彼の原爆を落とす側から考えるという視点はいっこうに変わっていないのみか、この間の対応を見る限り、どうやら、わが安倍首相もその点ではあまり変わりがないようなのです

 

 政治は、人々の死を効率やデータの問題に還元してしか語れない面を少なからず持ちますが、しかし、最近はその非情さがいっそう増幅されているようにしか思えないのです。


コメント
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