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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

湖北の秋を行く 観音の里&余呉湖など

2019-12-01 00:28:45 | 日記

 もう10日も経つだろうか、滋賀県は湖北地方に行く機会があった。以下はその記事であるが、遅れたのは、沖縄シリーズが長引いたためである。

 まずは石道寺から鶏足寺の周辺。近づくに連れ嫌な予感が。平日だというのに車は渋滞し、ぞろぞろと歩行者の列が続く。
 ついに警備員から駐車場は満杯、こちらへ進めとの指示が。で、その通り行くと、どんどん遠ざかり、またもとの渋滞の列のシンガリにつくことになりそう。

 そうなのだ、この石道寺から鶏足寺は、全国級の紅葉の名所として、遠くからの観光客も押しかけるのだ。ましてやこの時期、他県ナンバーの観光バスが次々と列をなしていた。

          
 ここは潔く諦め、次へ向かう。
 訪れたのは、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)庵。
 雨森芳洲は1668(寛文8)年~1755(宝暦5)年、江戸中期の儒学者として知られるが、とりわけ、朝鮮語、中国語に通じ、幕府が唯一行き来をしていた朝鮮との交流に努め、二度にわたって朝鮮通信使に随行したほか、両国の間にある対馬藩に仕え、朝鮮との友好関係の維持に尽力した。

          

          

 また晩年には、和歌に親しみ、「古今和歌集」を千回読破し、自分もまた万余の歌を残したという。
 この庵は、その功績をたたえ、彼の生家跡に建てられたもので、別名「東アジア交流ハウス」ともいわれ、韓国から訪れる人も多く、各展示品の説明にもハングルが添えられたり、音声の説明にも韓国語が交じる。

          

          
 

 一見、古風な記念館だが、東アジアの情勢が揺れている現在だけに、およそ三百年前に、その友好に生涯を捧げた芳洲の足跡を改めて偲ぶことは必要ではあるまいか。

          

              
 
 続いて向かったのは、国宝の十一面観音を安置する渡岸寺。
 かつて本堂に安置されていたそれは、今や本堂脇にしつらえられた宝物殿に移されている。

          

          


 今から1250年ほど前、悪疫が流行ったのを鎮めるため聖武天皇の命で作られたものという。

 かつては、金箔が貼られていたというが、450年ほど前の、織田と浅井の間のいわゆる姉川の合戦に際し、その戦火を免れるため、地中に埋めたため本来の面影は失われたという。
 なお、この姉川の合戦を恐れて仏像を埋めたり川に隠したという言い伝えは、この辺の寺ではけっこう多かったようで、他でも同様の話を聞いた。

          
 

 宝物殿の展示にされた利点は、普通は見られないその背面も含め、360度からの鑑賞が可能になったことで、ちょっと腰を捻ったようなエロティックな姿勢、右足をやや踏み出した様子、装束のヒダなどの線やディティールがよくわかることである。
 美術品の鑑賞としてはこれでいいのだろうが、お堂や厨子に収まった宗教上のシンボルとしてのアウラは失われているといってよい。
 これは、西洋で教会に飾られた絵画が、美術館に展示されるのと同様のことであろう。

          
 
 せっかくのアウトドア、寺や記念館ばかりではと、ちょっと車を走らせ、琵琶湖の北にある余呉湖を訪れる。

          
 

 琵琶湖から直線距離にして1キロほどしか離れていないのだが、水面の標高は50mほど高い.。周囲は6キロ余だから、周回道路の曲折を考えても車で10分もすれば一周できる。歩いているハイカーも見かけた。

          
 

 湖面は穏やかで、別名「鏡湖」といわれるのもよく分かる。周辺の景色の映り込みもきれいだ。この時期、渡ってきた水鳥たちも三々五々遊んでいる。

          
 

 一周したところで余呉湖漁協の棟続きの「舟戸」というひなびた食堂で昼食。1,000円のおまかせランチは、素朴な味付けだが、ワカサギの天ぷらを中心に、琵琶湖産の雑魚の佃煮や山菜など、リーゾナブルで美味しかった。
 なお、この湖はこれから、ワカサギ釣りのシーズンを迎える。

          
 

 午後は、予め到着時間を知らせておかないと拝観できない寺を訪問。なぜかというと、常駐する僧などがいなくて、集落の檀家の代表何人かが交代で訪れる人をもてなし説明するというシステムをとっているからだ。

          
 

 まず訪れたのは赤後寺(しゃくごじ)。ここも観音像である。風格がある像だが、手や足の先がない。聞けばやはり、姉川の合戦の折、避難させた際に失われたという。
 この像は別名「転利観音」と呼ばれ、「厄を転じて利となす」という意味だが、この「転利」の音がコロリに近いというので、苦痛なく死を迎えることができるという意味で信仰の対象になっているという。

          

          
 

 山の中腹にあるこの寺のロケーションがいい。下手な洋風建築がない眼下の集落の屋根瓦が、美しく輝いていた。

          
 

 続いては薬師如来と十一面観音を擁する西野薬師堂で、ここも同様に集落の檀家代表によって管理されている。
 この2体の像は、共に重文であるが、午前に観た国宝に遜色ないほど均整が取れた美しい仏像であった。
 この二体の仏像は併置され、その両脇にはわずかに残った十二神将のうちの二体が配置されている。
 聞けばそれぞれ、この近くにあったかつての大伽藍にあったもので、その伽藍そのものが応仁の乱以来の歴史の中で荒廃し消滅する中、かろうじて救い出されたものという。

          
 

 これまでの仏像はすべて撮影禁止であったし、ここもそうだったのだが、案内してくれた人の好意で、特別に撮影を許可してもらった。
 ただし、お堂の外からだったので、私の技術ではあまり鮮明に撮れなかったのは残念だ。

          
 

 最後は、この薬師堂と境内を同じくする正妙寺の観音堂で、ここには全国で唯一という千手千足観音があった。これまでの像と違って、全体に金箔が施され、江戸時代のものという。

          

             
                    この写真はネットから 

 たしかに珍しいが、そのお顔がなんだか怖い形相のうえ、手足もとっちらかった感じで、あまりありがたみは感じられない。でもまあ、丁重に見せてくださった集落の方に感謝せねばなるまい。

          
 

 お堂を出ると、すぐ西に伊吹山がそびえていた。子どもの頃から見慣れた山ではあるが、実は私がいつも見ているのは岐阜県側(東)から。
 それを比較すると、同じ山がどうしてこれほど違う容貌を持つのかというほど違う。滋賀県側からのそれは緩やかな曲線の優しい弧を描く山なのに、岐阜県側からみるそれはもっと角張っていて凛としているのだ。

          
 帰途は、近くの「浅井三姉妹の里」という道の駅で、地元の野菜を仕入れて帰る。値段は、いつも行く近くの農協と変わらないが、やはり土地の違い、この辺でしかないような日野菜や大きめのクレソンの束などがあり、それらをゲット。

 伊吹山と琵琶湖に挟まれた一帯は、なんとなく独自の土地柄が感じられるような気がする。

 

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読まないほうがいい話 読むなら「自己責任」

2019-10-03 15:00:21 | 日記
「てんとうデンデン虫症候群」をめぐる経緯について

 デンデン虫の抜け殻がひっくり返った状態のまま発見される事態の頻発を受けて、NASAの自然観察部門が非公式に調査した結果、カルフォルニア州のみで前年比56.8%増とという驚くべき数値に至っていることが判明。しかもそれらの現象は、ヨーロッパからアジアの広い範囲にわたって発生していることが確認された。なお、オセアニア大陸については、それに関する権威ある数値が今のところないため、そうした現象が起きているかどうかについては未確認としている。

 こうした結果を受けて、各国の諸研究機関がその原因などの解明に動き始めているが、そのうちのひとつ、日本の東動大(東京動物大学)の動物形態学研究室の根中幹札(ねなか・みきふだ)教授のチームが、この度、以下のような仮説をまとめるに至った。

         
 それによれば、こうした現象の始まりは、紫陽花の葉や木の幹を這っていたデンデン虫が、その独自のセンサーによる感受性により、太陽の黒点の増減などに過剰反応し、衝撃を受けた結果、まずはそこから「転倒」し地上へと落ちる(1)、その結果、地上にうまく着地した場合は上下に移動したということでそのままその場を去ることができるが(2)、そうではなく、不幸にしてひっくり返った状態になった場合には空間自体の上下逆転現象が生じることになり(3)、当該固体はその本能において正常への復帰を試みるが、一定の割合において、それを果たし得ない場合がある(4)、その場合当該固体は殻を捨てて本体のみの脱出を図るのだがそれも当初はうまくゆかない(この現象を「デンデン」という。日本では「出ん出ん」と表記されるようだ)。
 
 しかし、やがてその努力は結実し、本体のみの脱出を完遂するに至る(5)。その結果残されたのがひっくり返った状態での殻で、要するにそれらは、上記の(1)ー(5)の継起によって生じた現象である。したがって、それら一連の状況を「てんとうデンデン虫症候群」と名付けるべきだろうということである。

         
 では、脱出した殻のない本体はどこへ行ったのか。それについて根中教授は、「それらは各家庭の台所などに潜伏し、ナメクジになった可能性が高い」としている。
 なお、この仮設を揺るぎなきものにするため、同教授のチームは、今後の課題として、太陽の黒点などの自然現象とひっくり返った殻の増大との相関関係、デンデン虫においてのそれらの現象を感知するセンサーの有無の検証、さらには、脱出した本体の追跡捜査などの裏付けなどなどを必要としていて、とりあえず、ひっくり返ったデンデン虫のその本体への小型電波発信器などの装着を検討しているという。
 
 これに関連して根中教授は、ひっくり返ったままで地上でもがいているデンデン虫を見かけたら、現状を維持したまま、直ちに同研究室に連絡してほしいと呼びかけている。
 なお、この研究に対し教授は、「デンデン虫の歩みは遅々としているが、この研究成果はわれわれ人類にとっては大きな一歩となるであろう」と語り、さらに、私の名前(根中幹札)を音読すると「コンチュウカンサツ」になるのもなにかの縁と、この研究に寄せる並々ならぬ情熱を吐露してる。

この根中教授、デンデン虫を昆虫だと思っているようだが、その研究者魂に免じて、この際、大目に見ることとする。

これに対して、さまざまな反論もでているようだが、そのひとつに動物心理学専攻の蒸野白勢(むしのしらせ)教授のものがある。蒸野教授によれば、根中教授の説は、その過程を物理的な現象に還元するのみで、その動物の心的な状況に応じて生じる現象、つまり、その心理学的側面を虫、いや無視しているというもの。

         
 蒸野教授によれば、デンデン虫が転倒をしたという、まさにその事実にこそ真相解明の鍵があるとする。その転倒という事実は、デンデン虫に大きなトラウマとなって作用し、その心的抑制からの脱出が課題となる。その際、デンデン虫がとるのは、「転倒」という事実を逆手にとって、自らをそれに同化させることによって、つまり、自らをテントウ虫に変身させることによって、「テントウしたデンデン虫」という分裂状態を止揚し、新たなアイディンティティを構築するのだという。

 この説に対しても、事実確認の検証が求められているのに加え、動物の心理が、変身という具体的物理現象に昇華するとするにはいささか無理があり、唯心理論的偏向があるのではないかという批判も散見できる。

 話がテントウ虫とデンデン虫だけに、どうも、テンデンばらばらといった感が強いのが実情である。

 なおこれらの研究に対し、助成金を支給するかどうかについて、表むきは文科省、文化庁において検討中であるが、実際の決定は 萩生田大臣と官邸筋の協議において決せられるものと思われる。




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今日は何曜日? @ヘルシンキ 気がつけば無一文

2019-08-30 00:19:02 | 日記
         
 いざ海外に出るとなると曜日の感覚が怪しくなる。今日が何曜日かわからない、あるいは何曜日でも構わないような気がしてくる。
         
 私の場合もそうであった。サンクトペテルブルクからヘルシンキへ列車で着いたのはもう夜の時刻であった。しかし、白夜の国、まだまだ明るい。
 ヘルシンキ中央駅に着いたものの、この国で通用するユーロはまったく持ち合わせていない。残っていたリーブルと、円とを両替しなくてはならない。

         
 そこで到着早々、駅の案内担当のベストを着た人にエックスチェンジャーの所在を訊ねた。すると彼は、ある方向を指差したが、今日はもう終わってるといった。「Why?」に対し「Sunday」がその答え。更に詳しく訊くと、さっきまでやってたが日曜日は夜はやらないとのこと。
 かくして、はじめて来た街へ、文無しで放り出されたのだった。

         
 カードはあるからなんとかなるだろうと気を取り直し、少し道に迷ったが15分ほどで予約したホテルにたどり着いた。念のため、ホテルのフロントでエクスチェンジはしているかと訊いたら、していないけど明日の朝からここでしてくれると地図にマークをしてくれた。そこはいま通ってきた百貨店だった。

         
 「百貨店でエクスチェンジ?」と訊ねると、「いやその7階にBankがある」とのこと。まだ黄昏時のようだが、なんやかんやでもう午後10時ぐらい。サンクトペテルブルクを発って以来、飲食はしていない。なんとか胃の腑を満たさなければならない。
 フロントの女性(とても親切でかつ丁寧であった)は、よかったらうちで食べれば、精算はチェックアウトの折にといってくれた。でも、貧乏旅行で、ホテルのレストランで洒落込む余裕はない。

          
 すると彼女は、隣のオープンレストランのようなところを指差して、同じ経営だからここでどうだという。渡りに船と、そこへ座を占める。ウエイターは若くしなやかな黒人男性で、素晴らしくよく通る声でスローリー&クリアリーな英語で注文を聞いてくれる。

         
 とりあえず一品を頼み、赤ワインを注文する。それにとどめておいてよかった。エビやらサケやらのシーフードをベースにしたサラダ風の盛り合わせなのだが、それが実にビックサイズなのだ。パンをコンガリさせたものも入っていてそれで充分だった。ワインをお代わりする。それで16ユーロ、つまり1,900円ほど。

          
 しなやかな黒人男性の、センキューの笑顔に送り出される。
 ところで、今日が日曜日ということは明日は月曜日だ。そこでふと思い当たることがあった。フロントに走って確認する。そうなんだ、この国でも日本同様、月曜日は美術館関係は休館なのだ。

         
 にもかかわらず、冒頭に書いたように曜日に無頓着だった私は翌日の月曜日に、ふたつの美術館を含んだコースを予定していたのだ。部屋へ帰り、PCをつないでいろいろ調べ、予めの予定を変更したスケジュールを作成し直した。ああ、この段階で思いついてよかった。

         
 北欧の夏の夜は遅い。もう午後11時過ぎなのに、なんとなくざわめいていて、ホテルの窓から見える通りやオープンレストランにも客がたむろしている。もう一度街へ出たい誘惑があったが、今日の移動の疲れや明日の予定を考えて断念。日頃の睡眠障害も何のその、バタンキューで眠りにつくことができた。

 写真はいずれもヘルシンキ市内で






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故郷、伝統の喪失とそれが示唆するものへの私見

2019-07-30 11:54:19 | 日記
 失われたものへの嘆息は年配者の感傷に過ぎないが、同時に特権でもある。
 その理由は二つある。
 ひとつは、その在りし日のまざまざとした生きた像を、若い人たちがいかに想像を凝らしても再現前し得ないその像を、私たちはまざまざとこのマナコに焼き付けているということだ。
 それらの像は、私たちが生きた時代の血肉と関連しているがゆえに、私たちの郷愁を捉えて離さない。

        
                 *1
 もうひとつは、そうした失われたものの後を襲うもののほとんどが、今様の利便性、効率性重視のキッチュな代物に過ぎないということだ。
 田んぼ一反を潰して建てられた数軒の住宅、機能本位で、車二台分の駐車スペースをつけると緑のものを育てるスペースもない。相互に似通っているから、酔っ払って帰ったら、自分の家がわからないなるぐらいだ。
 
 また、広い田んぼを潰してできたドラッグストア。看板のみはゴージャスだが、その実質は大きなプレハブ。
 一定期間やって、ダメならさっと引き上げようという資本投下の論理を絵で描いたような造りなのだ。

        
                 *2
 古い伝統的なもののの新陳代謝一般を嘆いているのではない。先立つ伝統を破壊しながら生み出されるものを否定しようとするものでもない。
 それらが、とてもじゃないが新しい伝統とは無縁な一時的な「消費」の対象でしかないことを嘆いているのだ。
 私たちは今や、その伝統やその土地ならではのアウラと切り離された利便性と効率性のうちに生きている。だからある意味では、はじめっから故郷という観念とは無縁なのかもしれない。

        
                 *3
 私も含めて、かつて人はその伝統とアウラのうちに、つまり故郷のうちに住んでいた。
 そして何らかの形で、故郷を捨て、根無し草(デラシネ)として生きるようとも、それらの人々のうちにおいても、故郷はたとえ否定的な表象としてであれ、何らかの重みを失うことはなかった。

 いま、ドイツはライプチヒに住まう、わがわ若き畏友・小林敏明氏は、文芸誌「文學界」で、「故郷喪失の時代」というエッセイを連載しているが、この八月号で完結し、単行本化を待つという。
 彼の故郷を離れての暮らしは、ゆうにその人生の半分以上に至る。しかし、そのエッセイを読んでいると、そのタイトルにも関わらず、彼自身の望郷の念がひしひしと伝わる箇所が随所にあって、共感することしきりである。

        
                 *4
 「故郷喪失」を思索の対象とした嚆矢はハイデガーであろう。彼はそれを嘆くあまり、その悪しき伝統の復活をナチズムのゲルマン至上主義に見てしまったきらいがあるが、その弟子であったハンナ・アーレントもまた、故郷喪失を問題としていると思う。
 ただし彼女の場合は、ハイデガーのように全体主義的なものと短絡させるのではなく、むしろそうした全体主義の起源のうちに、深い故郷喪失をみてとり、それを人間と世界との関わりの問題として展開している(『全体主義の起源)』。

        
                 *5
 そして、前著に続く彼女の主著のひとつ、『人間の条件』、新訳では『活動的生』の後半で展開してる「世界疎外」の問題は、まさに人間が伝統や歴史と切り離され、それによって自己が「誰」であるかも奪われてゆく様を「大衆社会論」との絡みで論じている。
 したがって、故郷や伝統が失われたあとに来るキッチュなもの、あくまでも合理性や効率性に還元してやまないもの、それこそがやばいものといえる。
 そしてそれは、来たるべきシンギュラリティ(AI が人智を追い越す技術的特異点)において、最終的に人間がAI に置き換えられる基盤を用意するものかもしれないと密かに思っている。

 上から順次、写真の説明をしておこう。
 
 *1は、数年前まで、貸し農園として区画割りされ、この時期になると、ナスやキュウリ、トマトなどが栽培されていたのだが、利用者が減ったのか、貸主がもう貸さなくなったのか、次第の恐ろしいほどに雑草が生い茂っていたのを、とりあえず、草のみを刈って積み上げてある情景。
 今後何になるかはわからない。

 *2、3は個人の畑だがやはり数年前まで、この近辺ではないくらいきれいに耕作され、様々な野菜が作られていた。
 管理していたのは私より若い女性で、通りかかると、「こんにちは」と挨拶を交わす仲だったが、ある時、この写真の奥のこんもりとした部分の柚子の木がたわわに実っていたので、「見事ですねえ」と声をかけたら、「少しおもちになりますか」とのことで、「じゃあ、お言葉に甘えて」ということになった。
 私のつもりでは、畑仕事のついでに、2、3個をもいでくれるものと思っていたのだが、「ちょっと待って下さい」と道路を挟んだ自宅へ行き、ハサミを持ってきて実を取り、袋に入れてかなりをいただくことになった。
 そういえば柚子の木には棘があり、ハサミでなければ容易にもげないのだった。
 後日、私はお礼に絵葉書のようなものをその家のポストに入れておいた。
 それが今や、この有様である。なにかよくないことが起こったのだろう。

 *4、5はそのお宅の庭の部分である。
 ここもかつてはきれいに手入れされたお庭であった。今や、ご覧のような八重葎。もちろん、家も無人であることは間違いない。
 前の畑といい、このご自宅といい、これらを守りながらここで生活をしていたあの品のいい女性のことを思わずにはいられない。
 何らかの事情でここを離れたにしろ、どこかで元気でいてほしいものだ。
 

 







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動物三態 @名古屋東山動物園にて

2019-06-25 16:28:55 | 日記
【其之壱】
 名古屋の夏ってどうしてこんなに蒸し蒸しと暑いんだろう。インドへ避暑にでも行きたいな。

        

【其之弐】
 アッカンべ〜をしている顔に見えるって? サイですか。ちっともシリませんでした。
 え?舌に見える赤いものはなにかって、ちょっと恥ずかしくて言えません、

           

【其之参】
 近頃のテレビって、実にくだらないことやってるなあ。もう観てられないや。寝ちまお〜っと。ごろん。

        
        

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いまから少し前、梅雨入り前の情景(付:愚痴)

2019-06-12 01:04:47 | 日記
 わが街、岐阜にも梅雨がやってきた。
 梅が実る頃の雨の季節、「梅雨」とはよく言ったものだと毎年感心している。
 以下は、梅雨入り寸前に岐阜北部で撮ったもの。
 しばらくはこんな好天には恵まれないかもしれない。

          
 長良川球場の照明塔越しに観る金華山、山頂には岐阜城。

             
          
 屋上庭園風の個所。手入れが大変だろうと思う。

             
             
 その近くにある山法師の樹。ラグビーボールのように刈り込んである。
 この花が秋に赤い実に転じたらけっこう観ものだろう。

          
 この時期、どこでも南天は咲き誇っている。

 お前らの後半生の面倒なんてみきれないんだよ、自己責任でなんとかしろと国はいう。
 そんなこと言われたって、額面も、実勢的にも減少し続ける年金を補充するために、80歳の翁ができることなどなにもない。
 ただひたすら、出費を抑えることで防衛するしかない。
 
 アララ、風物詩のつもりがつい愚痴になってしまった。
 でも、老人の同士たち、参院選のあとには、もっとひどい状況が突きつけられそうな気配があるのですぞ。
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ツツジがほぼ満開になりました。

2019-04-27 15:57:47 | 日記
 白いツツジも・・・・
  
  
  

 赤いツツジも・・・・
  
  
      
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【戦争と言葉】言葉を閉じ、他者も自分も閉じた大日本帝国

2019-04-24 11:53:28 | 日記
 締切のあるものを書いたり、その他のものを読む合間に、黒川創氏の『鶴見俊輔伝』を読んでいる。遅々として進まないが、締切分を脱稿したら一挙に読み上げる予定。

 書の冒頭から、後藤新平や鶴見一族の、分野を問わぬ絢爛豪華たる人脈の豊かさとその広がりに圧倒されている。
 それらを含めた全体の感想は読み上げた段階で書きたいが、それはともかく、いままで読み上げた日米開戦の段階の話で、ちょっと興味深い点があったので、メモ代わりに書いておこう。

            
 それ以前から、日本の大陸への侵略以来きな臭くなっていた日米関係は、1941年12月8日の真珠湾攻撃をもって抜き差しならない戦争状態に至る。
 その折、伝記の主人公、鶴見俊輔はハーバード大学へ留学中であった。

 そんな時期のことである。アメリカにおいては、敵国となった日本の言語を学ぼうとする人たちが急増し、各日本語学校は大盛況で、日本語習得のためのテキストが編纂され増刷されたというのだ。

            
 当時、ハーバードでは、戦後日本大使となるエドウィン・オールドファザー・ライシャワーが日本語を教え、後に、日本文学の研究家となり、晩年は日本に帰化し、今年2月に亡くなったドナルド・キーンもいた。

            
 この、「敵国」の言語に対する、彼我の対応がまったく対照的なのだ。
 年配の方はご存知のように、私たちの国においては、英語は敵性言語として全面的に禁止されたのだった。
 ベースボールは「野球」になり(これはいまも継承)、ストライクは「よし」、ボールは「だめ」だった。

 うかつにに英語を話そうものなら、スパイの疑いで憲兵隊へ連行され、下手をすれば拷問にあったりしたものである。
 ジャズは敵性音楽で、愛好家は押し入れで布団を被って蓄音機でそれを聞いたという。

         
 先の戦争において、アメリカが全面的に正しかったと強弁するつもりはないが、この言葉に対する対照的な対応は面白い。
 アメリカが、自分に挑んできた東洋の島国の実情を知ろうとしてその言語を学んだのに対し、私たちの国は、自同的、かつ自閉的に自らのうちに閉じこもったのであった。

 これによりこの国は、国際情報からも閉ざされたまま、無限地獄ともいえる最後の段階にまで至った。
 むやみにもてはやされた孫子の兵法、「彼を知り己を知れば百戦あやうからず 」の言葉とはうらはらに、「彼を知る」こともなく、したがってそれとの比較で「己を知る」こともなく、あの悲惨への突入を余儀なくされたのだった。

 なお、最後の写真の回答はおわかりだろうか。アレですよ、アレ。お皿にご飯を盛って、その上から、あるいはその横にかけるアレ。
 

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Cocco「ジュゴンの見える丘」を聴きながら・・・・。

2019-03-19 14:58:54 | 日記
        
 沖縄の玉城知事が安倍首相と会談をした今日、以下のようなニュースが・・・・。
  https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190319/k10011853291000.html
 
 以下に報じられ、歌われたジュゴンでなければいいと思う。
  https://www.youtube.com/watch?v=JAYJgrLOcyg
 
 Coccoのスピーチがいい。最後の英文のそれも・・・・。
 もちろん、その歌も・・・・。
  
 玉城知事の要請は、工事を一時ストップして話し合うというものだったが、安倍首相の回答は、話し合ってもいいが工事は継続したままというもの。
 これは例の「真摯に受け止めて、寄り添う」というやり方。
 この「安倍語」を、一般的な日本語に翻訳すると、ようするに、「聞く耳などもたない、何を言おうがそんなものは無視し、しつこくいうようなら痛めつけるだけだ」ということ。
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青春をかすめた名古屋テレビ塔私話 今生の別れか?

2018-12-28 02:13:22 | 日記
 今年最後に名古屋へ出た過日、少し時間があったのでテレビ塔へ何十年ぶりかに登った。
 ここは、名古屋の中心部、久屋大通公園に建つ日本で最初に完成した集約電波塔である。その高さは180m、展望台は90m、その上階の野外展望台は100mの高さにある。

         
 なぜ、取り憑かれたようにここへ登る気になったかは、ここの営業が来春1月6日に一旦終了し、メンテナンスや改装のため20年夏以降まで閉鎖されると聞いたからである。
 二年近く先、傘寿を越えた私が永らえている保証はない。たとえ命はあったとしても、ここまで来てこの塔とまた対面できる健康状態にあるかどうかはまったく不確かだ。

         
 もちろんそれだけではなく、このテレビ塔に関しては、その誕生以来、私の青春をかすめるような思い出がかなりあるからである。
 最初にこの塔を見たのはまだそれが完成していない時期であった。 
 1953年、岐阜住まいの中学生だった私は、中日新聞の名古屋本社の見学に訪れた。その本社屋はいまのそれよりももっと中心部に近く、小さなビルだった。とはいっても、当時の岐阜の山猿から見たらけっこうな社屋ではあった。

            
 ここが社会部、これが新聞を印刷する輪転機といろいろ案内されたが、詳細はさっぱり覚えていない。
 鮮明に覚えているのは、屋上に伝書鳩の鳩舎があり、それ専用の担当者がいて、その説明を聞いたことだ。そうなのだ、まだ伝書鳩が記事運搬の一翼を担っていた時代なのだ。

 いまのように携帯もなく、メールもない時代にあって、僻地からの記事の送信は、記者が携帯した伝書鳩の帰巣本能に頼っていたのである。
 貴重な特ダネを託した鳩が、鷹に襲われてだめになったという話はその折に聞いたのか後でのものだったかは今となってはわからない。

            
 この新聞社見学の後、市の中心部に向かっていた私の目に飛び込んできたのが建設中のテレビ塔だった。何ができるのかはよくわからなかったが、当時の景観からしてそれは異様であり、とんでもないものができることを予感させた。
 この塔は、翌54年の6月に竣工しているが、岐阜にいた私にはその前後の記憶はない。

 次にお目にかかったのは55年、私が高校2年生の折だが、そのときは至近距離からではない。岐阜から名古屋で中央線に乗り換え、長野県に至る行程で、東海道線の枇杷島あたりから中央線の大曽根あたりまで、テレビ塔はずーっと左手にそびえていた。この区間は、鉄道の経路そのものがテレビ塔を中心に弓弧に描くように走っていたからである。当時はまだ高い建物はあまりなかったから、その区間ではず~っと見えていた。

         
 遠目からの眺めだったが、ああ、あの時の鉄骨がこんなふうにそびえているのだとある種の感慨にふけった。その頃、ひとつ年上の文学少女だった人との三度目ぐらいの初恋に悩んでいたので、当時の列車の切ないようなリズムともども、その記憶は苦くしょっぱい味を伴っている。

 その次にお目にかかったのは1956年末か57年初頭、名古屋の大学に入学試験の申込み願書を提出に行った折である。進学校ではなかった私の高校では、教務がそれらを手配してくれることはなく、自分ですべてを行わねばならなかった。
 その帰途、私は出来上がったそれと至近距離で対面した。途上のそれは、なんともつかない中途半端で無骨な様子だったが、出来上がったそれは、収まるべきものが収まるところに至ったという感じで、異様は威容へと変じていた。
 しかし、その折には、それから3年ほど先に、その塔の足下の広場にあれほどお世話になるとはまったく思っていなかった。

         
 1957年春、私は運良くその大学に潜り込むことができた。
 かくして、名古屋が日常の場である私にとって、テレビ塔は遠い都市のシンボルから一層身近なものになったというわけである。

 本題にゆきつく前にじゅうぶん長くなってしまった。私の悪い癖だ。ここらで一旦中断し、続きは明日か明後日に載せようと思う。  (続く)

 
 写真は建設途上のTV塔(これはネットからの借用)と、同塔展望台からの陽が上がっている間の映像。次回は、陽が落ちてからのものになる予定。
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