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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

湖北の秋を行く 観音の里&余呉湖など

2019-12-01 00:28:45 | 日記

 もう10日も経つだろうか、滋賀県は湖北地方に行く機会があった。以下はその記事であるが、遅れたのは、沖縄シリーズが長引いたためである。

 まずは石道寺から鶏足寺の周辺。近づくに連れ嫌な予感が。平日だというのに車は渋滞し、ぞろぞろと歩行者の列が続く。
 ついに警備員から駐車場は満杯、こちらへ進めとの指示が。で、その通り行くと、どんどん遠ざかり、またもとの渋滞の列のシンガリにつくことになりそう。

 そうなのだ、この石道寺から鶏足寺は、全国級の紅葉の名所として、遠くからの観光客も押しかけるのだ。ましてやこの時期、他県ナンバーの観光バスが次々と列をなしていた。

          
 ここは潔く諦め、次へ向かう。
 訪れたのは、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)庵。
 雨森芳洲は1668(寛文8)年~1755(宝暦5)年、江戸中期の儒学者として知られるが、とりわけ、朝鮮語、中国語に通じ、幕府が唯一行き来をしていた朝鮮との交流に努め、二度にわたって朝鮮通信使に随行したほか、両国の間にある対馬藩に仕え、朝鮮との友好関係の維持に尽力した。

          

          

 また晩年には、和歌に親しみ、「古今和歌集」を千回読破し、自分もまた万余の歌を残したという。
 この庵は、その功績をたたえ、彼の生家跡に建てられたもので、別名「東アジア交流ハウス」ともいわれ、韓国から訪れる人も多く、各展示品の説明にもハングルが添えられたり、音声の説明にも韓国語が交じる。

          

          
 

 一見、古風な記念館だが、東アジアの情勢が揺れている現在だけに、およそ三百年前に、その友好に生涯を捧げた芳洲の足跡を改めて偲ぶことは必要ではあるまいか。

          

              
 
 続いて向かったのは、国宝の十一面観音を安置する渡岸寺。
 かつて本堂に安置されていたそれは、今や本堂脇にしつらえられた宝物殿に移されている。

          

          


 今から1250年ほど前、悪疫が流行ったのを鎮めるため聖武天皇の命で作られたものという。

 かつては、金箔が貼られていたというが、450年ほど前の、織田と浅井の間のいわゆる姉川の合戦に際し、その戦火を免れるため、地中に埋めたため本来の面影は失われたという。
 なお、この姉川の合戦を恐れて仏像を埋めたり川に隠したという言い伝えは、この辺の寺ではけっこう多かったようで、他でも同様の話を聞いた。

          
 

 宝物殿の展示にされた利点は、普通は見られないその背面も含め、360度からの鑑賞が可能になったことで、ちょっと腰を捻ったようなエロティックな姿勢、右足をやや踏み出した様子、装束のヒダなどの線やディティールがよくわかることである。
 美術品の鑑賞としてはこれでいいのだろうが、お堂や厨子に収まった宗教上のシンボルとしてのアウラは失われているといってよい。
 これは、西洋で教会に飾られた絵画が、美術館に展示されるのと同様のことであろう。

          
 
 せっかくのアウトドア、寺や記念館ばかりではと、ちょっと車を走らせ、琵琶湖の北にある余呉湖を訪れる。

          
 

 琵琶湖から直線距離にして1キロほどしか離れていないのだが、水面の標高は50mほど高い.。周囲は6キロ余だから、周回道路の曲折を考えても車で10分もすれば一周できる。歩いているハイカーも見かけた。

          
 

 湖面は穏やかで、別名「鏡湖」といわれるのもよく分かる。周辺の景色の映り込みもきれいだ。この時期、渡ってきた水鳥たちも三々五々遊んでいる。

          
 

 一周したところで余呉湖漁協の棟続きの「舟戸」というひなびた食堂で昼食。1,000円のおまかせランチは、素朴な味付けだが、ワカサギの天ぷらを中心に、琵琶湖産の雑魚の佃煮や山菜など、リーゾナブルで美味しかった。
 なお、この湖はこれから、ワカサギ釣りのシーズンを迎える。

          
 

 午後は、予め到着時間を知らせておかないと拝観できない寺を訪問。なぜかというと、常駐する僧などがいなくて、集落の檀家の代表何人かが交代で訪れる人をもてなし説明するというシステムをとっているからだ。

          
 

 まず訪れたのは赤後寺(しゃくごじ)。ここも観音像である。風格がある像だが、手や足の先がない。聞けばやはり、姉川の合戦の折、避難させた際に失われたという。
 この像は別名「転利観音」と呼ばれ、「厄を転じて利となす」という意味だが、この「転利」の音がコロリに近いというので、苦痛なく死を迎えることができるという意味で信仰の対象になっているという。

          

          
 

 山の中腹にあるこの寺のロケーションがいい。下手な洋風建築がない眼下の集落の屋根瓦が、美しく輝いていた。

          
 

 続いては薬師如来と十一面観音を擁する西野薬師堂で、ここも同様に集落の檀家代表によって管理されている。
 この2体の像は、共に重文であるが、午前に観た国宝に遜色ないほど均整が取れた美しい仏像であった。
 この二体の仏像は併置され、その両脇にはわずかに残った十二神将のうちの二体が配置されている。
 聞けばそれぞれ、この近くにあったかつての大伽藍にあったもので、その伽藍そのものが応仁の乱以来の歴史の中で荒廃し消滅する中、かろうじて救い出されたものという。

          
 

 これまでの仏像はすべて撮影禁止であったし、ここもそうだったのだが、案内してくれた人の好意で、特別に撮影を許可してもらった。
 ただし、お堂の外からだったので、私の技術ではあまり鮮明に撮れなかったのは残念だ。

          
 

 最後は、この薬師堂と境内を同じくする正妙寺の観音堂で、ここには全国で唯一という千手千足観音があった。これまでの像と違って、全体に金箔が施され、江戸時代のものという。

          

             
                    この写真はネットから 

 たしかに珍しいが、そのお顔がなんだか怖い形相のうえ、手足もとっちらかった感じで、あまりありがたみは感じられない。でもまあ、丁重に見せてくださった集落の方に感謝せねばなるまい。

          
 

 お堂を出ると、すぐ西に伊吹山がそびえていた。子どもの頃から見慣れた山ではあるが、実は私がいつも見ているのは岐阜県側(東)から。
 それを比較すると、同じ山がどうしてこれほど違う容貌を持つのかというほど違う。滋賀県側からのそれは緩やかな曲線の優しい弧を描く山なのに、岐阜県側からみるそれはもっと角張っていて凛としているのだ。

          
 帰途は、近くの「浅井三姉妹の里」という道の駅で、地元の野菜を仕入れて帰る。値段は、いつも行く近くの農協と変わらないが、やはり土地の違い、この辺でしかないような日野菜や大きめのクレソンの束などがあり、それらをゲット。

 伊吹山と琵琶湖に挟まれた一帯は、なんとなく独自の土地柄が感じられるような気がする。

 

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