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六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

スウパアへの道

2018-11-17 17:40:32 | 日記
 ここ2、3日、なんだか食欲がない。これぐらいはと思って作ったた食事を残してしまう。
 これではだめだと思い、なにかうまいものを見つけようとスウパアへ買い物に出かける。

     

 従前の天気予報では今日は雨ということだったが、抜けるような晴天に恵まれた。
 ここしばらくで、田んぼはうんと減ってしまったが、ここは道の両側に残っている。のり面もコンクリートやアスファルトで固められていないから、つくしが出るし、スミレが咲く。ノビルの群生もある。

          

 刈り取られた田んぼに怪しげな影が・・・・。

 柿の木がまだ実をつけたまま紅葉していて、逆光で撮ると美しい。

     

 しばらく見ないなぁと思っていたトンビが数羽集まっていた。カラスも一羽、二羽。写真を撮ってからしばらく観ていたら、飛び立った彼らが上昇気流に乗って弧を描くようにどんどん上に登って行く。
 これを鷹がすると、鷹柱といって珍重されるのだが、トンビでは誰も相手にしない。

     

 スウパアへ着いて売り場を回ったが、食欲のない身にはどれにも文字通り食指が動かない。ありきたりのものを買って帰る。

 明日は、ある会食の機会があるから、そこで食欲の回復を図ることとしよう。
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植物の営み その生命力 (1)

2018-11-13 01:40:23 | 日記
 JR岐阜駅のバスターミナルに囲まれた一角はちょっとした庭園になっている。ここのウリは、県内の名桜の子孫が集められていて、いながらにしてそれらを楽しむことができるということである。淡墨の桜、臥龍桜、荘川桜などなどであるが、これらはみな、ソメイヨシノがつくられるよりも古い時代のエドヒガンザクラである。

 岐阜県下のこれら名桜は、それぞれ山間地にあり、開花時はそのロケーションによるが、岐阜駅前という平野に集められたその子孫は、本家より先に、しかもほとんど同時に開花し、それを愛でる者の眼を楽しませてくれる。

         

 しかし今回は、季外れの桜を語ろうとするのではない。
 それらの中に混じっている合歓(ネム)の木についてである。はじめての人は合歓と書いてネムとは読めないだろう。ではなぜこの字があてられたのか。やはりそれは中国にルーツをもつ。

 合歓(ごうかん)とは歓楽を共にすること、愛し合うものが共寝し、喜びを分かち合うことである。夜になると葉をぴったし閉じるこの植物の特徴から名付けられたものである。 
 毎夜毎夜では疲れるだろうという向きは合歓を即物的に捉え過ぎである(笑)。

         

 岐阜駅を利用する折、バスを降りるとエスカレーターでデッキのような通路を通って駅構内に入る。その横手にあるのが合歓の木である。だから、四季折々、それを観る。
 いまは実の季節である。最初、黄緑のモロッコインゲンのような実がぶら下がる。それらが熟し切ると、その鞘が褐色になる。

         

 そしてやがて、その実が弾け、次世代を担った種子が地上にばらまかれる。ただし、こうした人工的な庭園では、それらの繁殖はほとんど許容されないであろう。
 それでも必死に花や実をつける植物は、愛おしいではないか。

 植物は、基本的には動けない。だから、与えられたロケーションで自らの営みを展開するほかはない。変わらぬ植物の営為を左右するのはまたしても人間である。

         

 近代以降の人間は、環境世界と共存するというより、それらを対象や資源とし、支配し、取り込み、配列し直し、ときには排除し、絶滅に追い込む権限を謳歌している。
 こうした環境世界の支配が人間を豊かにしているともいわれる。効率の世界ではそうかもしれない。
 しかし、世界のもつアウラのようなものから超越したと自認している現今の人類は、かつての人類より本当に豊かになっているのだろうか。

 おっと、合歓の木の話からの脱線が激しすぎる。
 失われつつあるかも知れない「合歓」という言葉に引きずられて、いろいろ考えが膨らむのはいたし方ないだろう。


 上記の合歓の話、どこか既視感があると思ったら、2年ほど前、お友だちのブログで似たような話があり、私もコメントを付けています。
  参考までにその方のブロブを貼り付けておきます。

     http://blog.livedoor.jp/shography/archives/1060664946.html
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旧友を送る会でのハプニング

2018-10-28 01:43:09 | 日記
 

 ドイツ在住の友人にして哲学者・小林敏明氏、ご実家にご不幸があって一時帰国されたいたのだが、28日帰独されるというので、親しい仲間が集まりしばしの別れを惜しんだ。



 その席で26日が私の80歳の誕生日だったということで、サプライズのお花を頂いた。



 子供の頃より、誕生祝いはしばしばもらってきたが、今回のものはとくに嬉しかった。 
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大王わさび農園と黒澤明の「夢」

2018-10-21 01:19:13 | 日記
 先ごろの信州の旅、松本から少し北上した安曇野の大王わさび農場に立ち寄った。ここは北アルプスからの流れ、蓼川の清流をうまく使った植え付け面積日本一のわさび園である。

          

 以前、夏に来た折は、黒い日よけ(日射しが強い時期はこれが必要らしい)がわさび畑の表面を覆っていて、緑の広がりを期待していた私を落胆させたのであるが、今回は覆いもとれて、緑のわさびの列が伸びやかに走っていた。

             

 長さ一キロにも及ぶわさび畑も確かに見どころなのだが、ここにはもう一つの呼び物がある。
 それは、黒澤明監督の晩年の作品『夢』の第八話(最終章)で、笠智衆がでてくる「水車のある村」のシーンのロケ地がここだからである。

             
          
 
 あの映画に出てくる水車は未だ健在で回っている。ただし、映画ではたしか三連車で、今も三つの水車が回っているのだが、それを一挙にカメラに収めるには対岸に行かねばならず、そのルートが見つからないままひとつの水車のみを撮してきた。

          

 ちょうど昼時だったので、レストランでご当地ならではの「わさび丼」を食べた。レストランには、アメリカ人観光客がかなりいたが、彼らも器用にわさびを自分で擦ってわさび丼を賞味していた。

          

 売店で、一本700円のわさびを買い求めてきたので、いまも冷蔵庫の野菜室に入っている。とびきりうまいマグロの赤身などにつければ最高なのだが、それもままならず、一度、生キハダに付けたが、あとは奴豆腐などに使っている。
 でも、香りがいいから、擦り下ろしたものに醤油をポチョンと落としただけで酒が飲めたりする。
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草間彌生ワールド@松本市美術館

2018-10-18 01:27:29 | 日記
 先ごろの信州への旅では、松本へ立ち寄った。松本城(国宝)やその近くの旧開智学校(重要文化財)などへも立ち寄ったが、ここでは松本市美術館について記したい。

          
 
 などと偉そうにいっても、生憎の天候と夕闇が迫っていた関係であまり時間がとれず、企画展も常設展もパスをして、ということはほとんど館内に入らなかったのだが、お目当ての草間彌生のオブジェなどを観るにとどめた。

          

 なぜここで草間彌生がフィーチャーされているかというと、この松本市こそ、彼女の生まれ育ったところだからである。なぜこんな山都で育った人がという思いもあるが、大都会育ちでも精神的田舎者がゴマンといるから別にこだわることはあるまい。

          
          

 ありがたいことに、そのでっかい作品や、あらゆるものが水玉に彩色されたオブジェたちは、野外やそれに続く一角にあって、自由に鑑賞できる仕組みになっている。

          

 とにかく面白い。草間の作品への執着は鬼気迫るものがあるという人がいるが、そして実際にそうであるのかもしれないが、その辺を感知し得ない私には、まるでテーマパークの装飾のように楽しくかつ面白く感じられてしまうのだ。

          
          

 彼女の作品は、統合失調気味である彼女の苦吟の結晶だという人がいる。そうかもしれない。しかし彼女は、これらの作品を生み出すことによって自分の在り処を示したのではないだろうか。

          
 
 苦吟か苦悩かはわからないが、それを作品として対象化することは彼女にとってはある種の快楽であったのではないか。だとすれば、それを享受する私が素直に楽しく受け止めることは一つの応答ではなかろうか。

          

 それらを観ながら、8年前の「あいちトリエンナーレ」で、彼女のデザインによる赤い水玉模様が施されたバスや車が名古屋市内を走り回っていたのを思い出した。
 それらは、都市に投げ込まれたある種の異化作用かもしれないが、私にはそれらは日常的にそこにあっても少しもおかしくないように思われた。

          
          

 ひと通り観終わってから、無料では申し訳ないと、売店に立ち寄り、草間さんの作品による絵葉書を何枚か求めた。
 ここは、松本にお越しの際はぜひお立ち寄りになると面白いお勧めのスポットだ。

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ゆかしいというイメージばかりでもないようで

2018-10-17 18:07:57 | 日記
 以下の写真は、散歩の途上で見つけたある野草の実の部分です。
 なんの実かお分かりでしょうか。

          

 もう少し引いたものを載せましょうか。
 これだと葉の形状もわかるのではないかと。

          
 
 全体像はこんな感じです。
 もうおわかりですね。

           

 そうなんです。
 スミレなのです。

 
 芭蕉の『野ざらし紀行』に、
  「大津に出づる道、山路を越えて」という前置きのもと
    山路来て何やらゆかしすみれ草
 という句があります。山路を越えたところでこの花を見たら「何やらゆかし」となるのでしょうね。

 しかし、私の住むような半市街地では、この花はアスファルトの裂け目とか、ブロック塀の下などに生えていて、ゆかしい半面、とても逞しい感じがするのです。

 ところで芭蕉先生、他のところでもスミレを詠んでいて、そこでは
   何とはなしに何やらゆかしすみれ草
 なのだそうです。
 使い回しをしたのでしょうかね。



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百均ショップの心理学?

2018-10-13 01:19:33 | 日記
 先月末、私んちから数分のところに百均ショップがオープンした。
 当面、別に要るものはないが、郵便を出しに行くついでにどんなものがあるのか覗いてみることにした。必要なものができた折に備えての偵察というか、たんなるひやかしのようなものだ。
 百均とはいえ、何年か前までは中型のスーパーで、その後しばらくはドラアグストアーだったところだから売り場面積はかなり広い。この変遷には、この商域を舞台としたスーパー、ドラッグストアーの熾烈な闘いがあるのだが、それを書くと長くなるので省略する。

          

 百円でよくもこれだけというくらいの品揃えだ。とくに目的はないから、どこにどんなものがあるかを把握しておくべく、ひと通り見て歩くことに。
 最初はふ~ん、なるほどといった感じ。普段からあまり関心のない分野のものや、アイディア商品などは一体何のためにどう使うのかもよくわからない。そんなものをいちいち手にとって見ていては時間がかかってしょうがない。

          

 ほどほどにスルーして見てゆくうちに、ん?これは要るなぁというものに出くわす。あ、これも要る、それから、これも寒くなったら必要になるかも・・・・といった具合で、気がつくといつの間にか店内の随所に置かれているかごを抱え込んで、何品かをその中に。こちらからの主体的需要というより、商品を並べられた結果、受け身の需要が喚起されるということなのだろう。
 
 おまけに、あ、あれが必要なんだったと思い出すものもあって、「〇〇はどこにありますか」とこちらから店員さんに尋ねる始末。そして、それがないと残念がっている自分がいたりする。オイオイ、ひやかしだけだったのじゃやないかい。

          
 
 さらに歩を進めるうちに、自分の中の異常な購買意欲にはっと気付く。ちょっと見に来ただけのつもりなのに、「もっと買うものはないのか。もっと買わなければ」と目を皿のようにして探している自分がいるのだ。おそらくこれには、「だって百円だろ。買い物に失敗してもそのリスクは極小だし、うまくゆけばものすごく得じゃん」という意識が強迫観念のように作動して購買意欲を刺激しているのだと思う。

          

 それに気づいた段階でもう買うのはよして、どうでもいいものは棚へ返し、レジへ。
 残ったものは以下の六点。
 ・トイレ掃除用柄付きブラシ
 ・風呂の壁面掃除用柄付きブラシ
 ・食器用洗剤
 ・食器洗い用スポンジ6個セット
 ・冬季用スリッパ
 嗚呼!主夫魂全開の選択ではないか!

 え?ひとつ足りない?ん~、それはお遊び。
 最近、友人がかっこいいデジタル腕時計をしているのを見て、「それいいね」と言ったら、「これ百均で」ということ。その時は、百円なら安いなぁと思ったが、よく考えたらスマホをもってれば時計は不要だとも思った。
 しかし、今一度考えたら、いちいちスマホを取り出して時間を見るのも面倒だから、腕時計もありかなとつい買ってしまった次第。

          

 恐るべし、百均の魅力!ついつい買ってしまう裏には、失敗してもリスクは少ないという安心感、うまくゆけば、百均を利用しないで数百円で買っている連中の鼻をあかせるかもという快感への誘い・・・・などなどがある。
 かつて、テレビ通販の黎明期、ついついダイアルをして買ってしまい、家中がガラクタで埋まるという通販依存症が問題になったことがある(今も、ネット通販も加わってそれがあるかもしれない)。
 百均ショップがこれだけの規模で展開し、ウィークデイでもそこそこの顧客がかごを抱え、多い人は何十点も買うのをみると、そのうちに「百均依存症」が問題になりはしまいかと、私の中の妄想癖や要らざる杞憂症が全開するのであった。

写真 上の三つは今年7月、前身のドラッグストアが閉店した折のも。下の二つは今回オープンした百均ストア
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沖縄の民意を尊重することこそ民主主義!

2018-10-01 10:46:48 | 日記

        

 政権は、かくも明らかに示された沖縄県民の意志を尊重すべきです。それをも意に介さないとすれば、沖縄をやはり本土の植民地としか見ていないことを意味します。
 今を去ること六〇年前、アメリカ占領下の沖縄から「留学」で名古屋に来ていたA君が、それまでの沖縄の歴史から見て、「本土復帰」ではなく、「独立」を志向していたこと、それを主張し、政治活動を行うと強制送還されるというので、その趣旨のビラ配りを手伝ったことを懐かしく思い出します。
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惜別:樹木希林さん

2018-09-17 16:39:11 | 日記
       

 1960年代はじめから活躍していらっしゃったので、女性の年齢に疎い私は、同年輩かあるいは上でいらっしゃると思っていました。実際には私よりも5歳若くていらっしゃったのですね。

 たくさんの映画でお世話になりました。私の好きな映画にはたいてい、出ていらっしゃったような気さえします。ここ10年ぐらいでも以下の映画でお目にかかりました。みんな、ちゃんと映画館でお目にかかりました。

*歩いても 歩いても(2008年)
*悪人(2010年)
*奇跡(2011年)
*そして父になる(2013年)
*あん(2015年)
*海街diary(2015年)
*万引き家族(2018年)

 とりわけ、「あん」でのあなたの立ち居振る舞いが印象に残っています。
 まだ未公開が2本あるそうですが、いずれにしても寂しいですね。
 あなたに代わりうる女優さんはいないように思います。
 闘病をしながらのご出演、お疲れ様でした。
 どうかゆっくりお休み下さい。

 
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台風21号 わが家の被害

2018-09-05 00:53:14 | 日記
 今回の台風では、私以上に大きな被害を被った方が数知れずいらしゃるから、ぎょうぎょうしく言いたくないが、心配してくれたひともいるので、事実を報告しておく。

 おそらく伊勢湾台風以来の風だったと思う。
 築50年以上の私の家は、大きく揺れて損傷が危ぶまれた。
 後でわかったが、岐阜市の最大風速は39.8mだったとのこと。
 
 そのまっ盛り、ガラガラバリバリッと大音響が。
 これはっと思って玄関の戸を恐る恐る開けてみると、強烈は風雨が顔面に吹き付ける。
 音の正体はと思ってみると、飛んできたトタンが、うちのガレージの愛車のすぐ後ろで、どっかにひっかかったままバタバタ舞っている。その先端は私の車から何センチかという近さ。

         
    このトタンの左部分が風に舞っていた 右が絡まっていたので車が助かった

 トタンを除きたいのだが、風に荒れ狂うそれに近づく勇気は流石にない。猫を追うより皿を引けで、車を動かすことにした。動かすといっても、後ろはトタンに抑えられているから前に幾ばくか進めるのみ。庭木にくっつくほどに前進し、やっと2、3m進めたのみ。
 これで安心ではないが、トタンがひっかかったままでいてくれればなんとかなる。

 その時、車の運転席から前方の道路脇にある縦横何メートルかの病院の看板が支柱からふうわりと剥がれ、舞い上がるのが見えた。もし、あれがこちらへ飛んできたら南無三と思わず目を閉じた。幸いそれは、10mほど前方の道路に着地し、私の車とは反対方向へズルズル吹き飛ばされていった。

 まだ、いろいろ気になるところもあったが、これ以上屋外にいると危ないと思って家に閉じこもってじっと耐えていた。もいちど、バリバリっと音がしたが、もし車がやられていても、もう仕方がないと諦めてじっとしていた。

         

 風が小休止してから恐る恐る表を伺うと、2度めのバリバリっとの正体がわかった。
 ガレージの屋根が飛ばされて穴があいたのだった。
 拙宅のガレージは、亡きつれあいと私の車の2台が置け、自転車や小物が置けるけっこう大きなガレージである。 
 この損傷をみるに、部分的な補修では済まないだろう。全面的に張り替えたらどれぐらいになるだろう。見当もつかない。これで年金の何ヶ月分かがとぶ。

 人間は自然から生まれながら、いまや自然の運行そのものに影響力を及ぼす存在になっている。しかもそれは明らかに悪い方向にだ。温暖化によって赤道付近の海水温度はいつにもになく上昇し、今年は台風やハリケーンが量産されるといわれている。
 自然の反逆による罰が自然災害だといえないこともない。しかし、その罰を被るのが、自然破壊にもっとも罪がある連中ではなく、私たち庶民であることはやはり納得がゆかないところである。


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