六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

七〇歳を過ぎてから絵筆を握った丸木スマの作品を観た

2017-08-05 11:57:29 | アート
 実現可能かどうかはまだ分からないが、あまりあちこち行けなくなったら、絵を書いて過ごしたいと思っている。絵心みたいなものはあるが、それを表現する才能だとかバックグラウンドの基礎的技法などはまったくない。だいたいデッサンの経験もなく、いまからそれにチャレンジしようとは思わない。
 とりあえず、描くということ、というか、描くという行為自体を始めてみることだろうか。

             

 そんな折、若い友人、大野左紀子さんのブログに触発されて、七〇歳過ぎてから絵を描き出した丸木スマの絵画展を観に行った(一宮市三岸節子記念美術館 8月13日まで)。
 丸木スマは、「原爆の図」などの丸木位里、俊夫妻の母ではあるが、七〇歳を過ぎるまでは、普通の働く女性で、ふとしたはずみで絵筆を持ち始めたという。

          
 
 初期のものについては、なるほど、はじめて絵を描く老人はこのように描くのか、といった感じであるが、観てゆくうちに、それが彼女の個性として昇華され、さらに色彩の多様性やバックの独得な処理へと進化し、誰も彼女のようには描けない領域を生み出してゆくのがわかる。
 彼女の描きたいという力が、絵画という領域のなかで、あるいはその周辺で、確実に彼女のテリトリーを、しかも発展途上のそれを築き上げてゆくのだ。

              

          

 観てゆくに従い、私はこういう絵を「描かない」から「描けない」に変わってゆくのがわかる。彼女に比べ、私には余分な制約、既成概念の蓄積が多すぎるのだ。そういうものを振り払って、私が描きたいもの、描きたいという衝動そのものに向き合うことは不可能なのだろうと思う。

           
           

 第三者の視線を多かれ少なかれ内面化してしまっていて、その基準による計算づくを振り払うことは至難のことである。とくに私のような小心者の自意識過剰人間にとっては。
 極めて平凡な言い方になるが、スマの「ノビヤカサ」は私の対極にあるのかもしれない。それだけに、私を魅了するものがある。

 こんな絵は私には描けない。それでもいつの日か絵筆を握るかもしれない。
 そんな折など、これらスマの絵を想起して、自分の小賢しさを恥じることになるかもしれない。それでも描くという衝動があるようなら、描いてみたい。

              
               美術館正面の三岸節子の立像

*三岸節子記念美術館 三岸のかつての実家、織物工場の跡地に建てられたもので、ノコギリ型の工場が散見できたりするなど、周辺にその雰囲気が残っている。
 一階は三岸の常設展示場だが、年に何回か展示内容が変更されるという。
 そして二階が、今回のような特別展の会場になっている。
 なお三岸節子は一宮の名誉市民になっているが、ほかに、戦中戦後、女性の参政権や普選運動など女性の権利のために活躍したい市川房枝もこの地の名誉市民である。

           
             帰り道、岐阜羽島の近くで見かけた蓮田
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怒りのトラウマ 私の「現代芸術」逍遥

2015-05-06 02:29:02 | アート
 「そうだ、明日は図書館へ行くついでに、岐阜県立美術館へゆこう。【てくてく現代美術世界一周】と題して、『タグチヒロシ・アートコレクション』を展示している。図書館へ行くたびに、隣の美術館を横目に見て気にはしていたのだが、時間の制約などがあってのびのびになっていた。どんな内容なのかはさっぱり分からない。
 しかし、それが楽しい。この田口弘氏、実業家であり現代美術作品のコレクターで、岐阜県郡上市出身らしい。1937年生まれというから私よりも1つ年上だ。その同世代人がどんな美術品に興味を持って集めたのだろうか。百聞は一見にしかずだ。とにかく、観てこよう。」

          
   村上隆「黄色い麦わら帽子の女の子」 近年、フィギアのほうが話題になっているが、
   それはなかった


 と書いたのは、5月1日のことだった。で、その通り翌2日に行ってきた。報告が今頃になったのは、何やかやあって写真の整理などができなかったからだ。
 
 上に述べたように、田口というひと、私より一歳年上の岐阜県人だが、この世界に疎い私は、こんなひとがいることも知らなかった。「現代芸術」のコレクションとあってどんなものをと思って行ったのだが、割とオーソドックスなもので、それはそれとして楽しかった。
 
           
              川島秀明 「結末」

 日本の作家のものとその他のものが別れて展示されていたが、私のような素人にはそのほうがわかりやすい。外国の作家ときたらアンディ・ウォーフォールかマルセル・デュシャンぐらいしか知らないのだから。
 その点、日本の作家の有名どころは眼につきやすいし、何かとスキャンダラスに報じられたりもして露出度が高い。


    会田誠「灰色の山」山と積み上げられたのはサラリーマンの屍だという
    この人も近年は色っぽい少女で話題を呼んでいるがそれはなかった

 写真に掲載したものは日本の作家のものである。
 その全てが会場で私が撮ったものである。
 この会場では、一部をのぞいてほとんどが撮影可であった。
 解説をするほどの知識は持ち合わせていないのでそれは抜きにする。

          
                大槻 透 「四季」

 ところでこの撮影の可否について、一度憤慨に耐えぬ事態に遭遇したことがあるのでそれを書きたい。
 私とてもういらないくらい年を重ねてしまった老人、人並みの常識はわきまえているつもりなので、美術展などの撮影禁止のところで写真を撮ったりはしない。

           
   草間彌生 この人は赤に白いドット(水玉)がよく知られているが、この作品は
   白い点が細かく、遠目には赤ベタに見える


 ただ一度だけ、それで注意されたことがある。
 何年か前の「あいちトリエンナーレ」の折、それを観に行ったわけではないが、たまたま愛知県の芸術文化センターに所用があったので出かけた。地下鉄を降りて、そのまま進むとこのセンターのB2に至り、そこは行き交う人達が交差するロビー状態になっている。
 そこに、キリンのフィギアーがあったのでこれは面白いとガラケーを向けたら、若い係員と思しきひとが飛んできて、「これは撮影禁止です」という。

              
             加藤 泉 フィギアと油彩(うしろ) 

 ならば致し方無いとは思ったが、あまり納得がゆかなかったので、「でもここは展示場ではなく不特定多数のひとが行き交う場所でしょう。だとしたら野外彫刻と一緒でしょう」といってみた。
 若い人は一瞬口ごもったが、「でも、駄目なんです」という。
 こんなところで押し問答をしてもと思ってふと視線を上げると、この場所は吹き抜けになっていて、上方(つまりB1)の手すりから複数の人たちが撮影しているではないか。
 「あそこからはよくて、どうしてベストアングルのここからは駄目なんですか」と再び私。
 

    奈良美智 アクリル画とセラミックス ひと目でこの人の作品と分かる 

 「いや、あそこまでは手が回りませんから」と係員。
 こういうのを私のボキャでは官僚主義という。「官僚主義と現代芸術の関係は?」と問いたくなったのだが、これ以上粘るとクレイマーとして警備員を呼ばれそうだったので、「撮影されたくなかったら、こんな不特定多数が通りかかる場所に展示しないよう作者にいっておいて下さい」と捨て台詞を残してその場を後にした。

          
          加藤美佳(タレントとは別人) 「マスカット」

 私の怒りはさらにそのあとに増幅されることとなった。
 その建物の10階に上がった。その階は、メインの展示室のほか大小の展示室、それにレストランと、B2に比べここを訪れるひとははるかに限定される。その10階のロビーとみなされる場所に、先ほどと同じ作家の作品とひと目で分かるゾウのフィギアが展示されていたのだ。
 また写真を撮るとうるさいんだろうなと横目に見て通りすぎようとしてよくみたら、回りにいる人たちが誰に制止されることもなく写真を撮っているではないか。

          
        リチャード・モス(アイルランド) デジタルCプリント

 よほどB2へ取って返し、先ほどの係員の襟首をとっ捕まえて連れてきて、「これは何なんだ」といってやりたい衝動がこみ上げてきたが、どうせあの係員も、その是非もわからずマニュアル通りに行動しているのだろうと考えて自制した。物事の良否を自分で考えることができないひととの対話は成立そのものがおぼつかない。
 悪いのは、こんな公の場所に展示しながら、撮影禁止などというマニュアルを作ったやつだろう。

           
       ヴィック・ムニーズ (ブラジル)「マリリン・モンロー」
 
 「現代芸術」ときくとその時の情景がトラウマのようによみがえるのだが、今回の展示会場内で撮影可が圧倒的に多かったことで、それが少しは晴れたようだ。

 掲載した写真についてはキャプションを見ていただきたいが、キャプションで説明しきれない作品もあって、実は私はその作品の前に一番長く佇んだのだが、もう十分長くなった。
 稿を改めて書いてみたい。

なお、上記美術展は5月17日まで。



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ドジだなっ! はからずもの「美術鑑賞」

2014-06-28 23:36:12 | アート
 写真は県美術館南門にある私ご贔屓の南京ハゼ

 今日の午後のことである。県立図書館を出たところで、隣の県立美術館は何をやっているのだろうかフトと見たら「県展」、ようするに岐阜県美術展が開催中とある。
 たしか若い知り合いが写真の部に応募していたはずだと思い、覗いてみることにした。

          
               ちょうど花盛りだった

 入ってすぐに子どもがやたら多いのに気づいた。今日は土曜日だし、子どもたちが美術に親しむのはいいことだろうぐらいに思って作品を観はじめた。
 どうみても子どもの絵だ。近づいてみると「小1 ◯◯**」とある。
 あっそうか、順序として子どもの作品から始まるのだと気づいて足早に観ていった。

 年齢が上がるに連れて巧くなってゆく。中学生ぐらいになると驚くほどリアルなものから、大胆にデフォルメしたものもある。

 絵画が終わったら書道だった。これもほぼ感想は同じ。

 さあ、いよいよ成人の部だと思ったらもう会場は終わりだった。
 あ、間違えて少年の部のところへ入ってしまったのだと気づき、受付のお姉さんに、「成年の部はどこでやっているのでしょうか」と尋ねると、「それはもう終わりました」とのこと。

          
 
 「え?でもまだ4時でしょう」と尋ねる私に、「いいえ、成年の部の開催期間が今月の中頃でもう終わったということです」との答え。
 「あ、そうでしたか。それじゃ・・・」とその場を去ったのだが、しばらくすると、「お客様、お客様」とその彼女が追っかけてきた。
 なんだろうと思ったら、一枚のパンフを示して、「どうしてもご覧になりたいようでしたら、7月5日から多治見で、そして7月19日からは高山で展示されます」とのこと。
 「もう終わりました」ではそっけないと思ってわざわざ追いかけてきて説明してくれたのだ。これには大いに感謝するが、でも、正直いって、この時期、日本一暑いといわれる多治見にまで追っかけてゆくだけの興味と気力もない。でもそれをいっちゃあおしまいと、「わざわざご親切にありがとう」といってその場を辞した。

          
             よく見ると螺旋状になっている

 美術館を出る際、振り返って見たら「県展 少年の部」とちゃんと書いてあった。

 子どもたちの絵はあまり覚えていないが、画面からはみ出しそうに書かれていたワタリガニが美味しそうだった。単なる入選のようだったが、私が審査員ならあれが特選だ。

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「パン」と「子ども」 新子さんの絵

2014-05-16 01:16:23 | アート
 友人の娘さん、「新子」さんの個展を観ました。
 彼女の絵の対象であるファクターは極めて限られています。
 ずばり、「パン」と「子ども」です。
 それだけなのです。
 他のものは描かれていません。

 彼女の絵を観るのはこれで2回めですが、前回もそうでした。
 ここに載せた写真は今回のものではなく、たぶん、前回のものですが、これらの写真だけから見るとなんとなくメルヘンチックに見えるかもしれません。
 タッチが繊細で柔らかいので余計そう見えることでしょう。

          

 しかし、連作を観てゆくと、パンのバラエティ、そして子どもの表情や仕草のバラエティなどがそれぞれ異なり、そしてそれらの組み合わせによって表出されるものはそれぞれ異なります。

 なかには、子どもがパンを食べるのではなく、パンが子どもを食べるというシュールなものもあります。
 そうした一見、平板そうでいて単純なメルヘンのなかには収まりそうにない余剰が、これらの絵画を絵本の挿絵のような佇まいから自立した現代アートの一翼へと位置づけるのかもしれません。

 その意味では、アニメのキャラクターをフィギャ化したようなアートよりは私たちには馴染めるように思いますし、少なくとも身近に感じられるのです。

             

 なお、なぜその対象が「パン」なのかについては、画家自身が「子供の頃からのインプレッション」としてパネルのなかに書いているのですが、私のような疑り深い老人は、それ以上のトラウマのようなものをつい考えてしまいます。しかしそれは、たぶん、対象化された作品を曇りなく受容する上ではまったく余分な詮索というべきでしょうね。

 なお、この「新子展」は、18日(日)まで、以下で開催しています。

  ギャラリー名芳洞
  名古屋市中区錦1丁目20-12伏見ビルB1
  052-222-2588
  地下鉄 伏見駅9番出口すぐ


なお、作品の写真はネットで拾ったため、実際の作品とは色彩や明度、コントラストなど異なることをお断りします。


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VIVA!北斎!「ボストン美術館 北斎 浮世絵名品展」を観る。

2014-02-28 04:13:55 | アート
 名古屋ボストン美術館で開催中の「ボストン美術館 北斎 浮世絵名品展」に行ってきました。

           

 北斎の絵の概略はもちろん知っていました。その大胆な構図や描写も好ましく思っていました。ただ、その人物について興味をもつに至ったのは、実は作家の山田風太郎を通じてでした。
 山田風太郎には、『八犬伝』について書いた2冊の書があります。最初のものは1964年、彼の「忍法帳」シリーズの一環として書かれた『忍法八犬伝』ですが、そちらの方は読んだ記憶がありません。
 私が覚えているのは、1983年の『八犬伝』で、この書の構成は、『南総里見八犬伝』の翻案紹介と、その作者、曲亭馬琴その人をめぐるエピソードとが交互に出てくる仕組みの大長編となっています(どこの出版社も上・下二冊の分冊にしているようです)。

           

 『南総里見八犬伝』のダイジェストともいうべき部分は、山田風太郎独自の筆致で簡潔ながら面白くまとめられているのですが、それにもまして、曲亭馬琴に関する後半部分、視力を失った彼が早逝した息子の未亡人・お路の口述筆記に助けられてこの作品を仕上げてゆく過程は、壮絶でありかつ美しく、感動をも呼ぶものでした。
 これはまさしく、自身、優れたストーリー・テラーであった山田風太郎が、やはり、江戸の一大ストーリー・テラー、曲亭馬琴に捧げたオマージュといっていいでしょう。

              

 さて、悪い癖で何やらゴチャゴチャ書いてきましたが、それがどうして北斎と関係があるんだと叱られそうですね。

           

 で、その山田風太郎の『八犬伝』に、気難しい曲亭馬琴のほとんど唯一といっていい気の許せる友人としてこの北斎が登場するのです。そしてまたこの北斎も、画号を30回以上変えたり、90歳の生涯のうち、江戸市中で93回の転居をするなどのいわくつきの変人なのに、馬琴とは親しい友として登場するのです。
 ちなみに、ベートーヴェンもウィーン市内で80回ほど引っ越していますが、回数では北斎が勝っています。ただし、ベートーヴェンは57歳で亡くなっていますから、北斎の歳まで生きていたらおそらく引っ越し魔の栄冠は彼のものだったでしょう。

                
 
 この馬琴と北斎の関係は山田による創作ではなく事実の裏付けがあって、北斎はしばしば馬琴の書の挿絵を担当しています(馬琴のもう一つの主著『椿説弓張月』など。ただし、『南総里見八犬伝』の挿絵は北斎のものではありません)。
 しかも、馬琴の家にしばらく居候をしていた時期すらあるのです。
 ちなみに二人の生没年は以下のようです。
 北斎は1760~1849年、馬琴は1767~1848年と、二人とも当時としては長命で、しかも晩年まで旺盛な創作意欲を欠かすことはなかったようです。
 今回の北斎展では、最晩年の北斎が炬燵のなかで寝転ぶようにして絵を描いている姿を、その弟子が描いたものが展示されています。
 ちなみに山田風太郎の生没年は1922~2001年です。

           

 さて、美術展の話なのに、だらだらと書き連らねてしまいました。
 音楽もそうですが、絵の話を言葉にするのは難しいから逃げたのです。
 
 今回の展示品は、タイトルにあるようにアメリカのボストン美術館が所蔵するものの展示です。これらは、この国の明治期、浮世絵が陶器輸出の包装紙や緩衝材としていとも無残に使われていた頃、アメリカ人のモースやフェノロサ、ビゲローなどによってせっせと収集されたものです。
 北斎だけで、若年期から最後期に至るまでこれだけの収集をと驚かざるを得ません。しかも、日本ではとっくに失われたものも含まれていて、良好な条件のもとに保存され、こうして里帰りをするのですから、それだけでも感動モノですね。
 ちなみに出品点数は大小取り混ぜて142点、その他、資料的な特別出品などもかなりあります。

              

 北斎はその画法や題材、それにアイディアなどが実に多彩で、延々と長時間観て回っても飽きるところがありません。いささかの疲れもなんのその、最後までじっくりと観ることが出来ました。

           
 
 この美術展の今後の予定について書いておきます。
 名古屋ボストン美術館は3月23日までです。
 以下、順次各地を回ります。

  神戸市立博物館 4月26日~6月22日
  北九州市立美術館分館 7月12日~8月31日
  東京上野の森美術館 9月13日~11月9日

おまけとして北斎で著名な「蛸と海女」を載せます。
 Wikiの「蛸と海女」で検索すると、ここに書かれている文章も読むことができます。興味のある方はどうぞ。
 これは、いわゆるあぶな絵の中でも傑作に属すると思います。
 ただしこれは、残念ながら出品されていません。

           


 

 




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川合玉堂展を見る なぜか惹かれるんです

2013-11-23 02:24:29 | アート
 先月、ルドン展を見た岐阜県美術館へ、今度は川合玉堂を見に行った。
 川合玉堂は好きな画家である。
 端正で明解な線を多用しながらも、どこかに暖かみがある。
 村落や里山、そして深山などを描きながらも、点描としての人や荷馬、そして牛などが配されていて、それらを見つけるとなんだかホッとする。

       

 彼がよく描く里山の風景は、私が子供の頃疎開していた田舎の風景とさほど変わらないのもどこか懐かしい。
 私が暮らしていたところは村落のはずれで、少し行くと「玉池」という灌漑用水用のかなり大きな池があった。これはたぶん「溜池」が訛ったものか、あるいはそのものズバリでは味も素っ気もないと玉池にしたのだろうと睨んでいる。事実、当時の老人たちの中には溜池という人もいた。

 そこをさらに西に進むと南側は養老山脈から三重県にまで広がる穀倉地帯だが、北側は緩やかな斜面を登るように昼飯大塚古墳(東海地区最大級の前方後円墳 もっとも子供の頃はそんなことを知る由もなかった)を経て山地へと連なる。ようするに、濃尾平野の突き当りである。
 その一帯は、雑木があり、また鬱蒼と茂る箇所があり、私たち子どもも、そして大人も、ただ「林」と呼んでいた(この辺は大江健三郎の「万延元年の・・・・」ぽいな)。

    

 その辺りにはいろいろ思い出があるが、そこにこだわるとどんどん逸れていきそうだ。ただ、大人たちからは、「あんまり奥へ入ると帰ってこれなくなるぞ」などといわれていたし、敗戦直後、米軍がやってきたらあの林へ逃げ込もうという話もあったことは記しておこう。

 回りくどくなったが、そのへんの里山の風景と玉堂の絵とが私の中ではどこかで繋がってしまうのだ。そこは憩いの場所であり、同時に臨界のような場でもあった。
 玉堂が描くあの端正で静謐な自然の中にも、これ以上は行ってはならないという禁忌のようなものが含まれているのだろうか。

        

 この美術展は、「川合玉堂と彼を支えた人びと 素顔の玉堂」と題している。
 これは、例えば彼の師匠筋である橋本雅邦などをも指すが、むしろ、隣の木曽川に生を受けた彼が、成人するまで育った岐阜の街での交流や交友を指していて、その記録を示す直筆の手紙などが展示されている。
 それが実に達筆で、それ自身、書として鑑賞できるのだ。

 そうした背景から、東京の青梅に住みながらも岐阜との交流は絶えなかったようで、手紙のやり取りはむろん、たびたび岐阜を訪れていて、鵜飼などを題材とした作品も多い。
 そんな縁もあってか、前回のルドン展同様、岐阜県美術館やこの周辺の美術館の所蔵がとても多く、「彼を支えた」というタイトルに秘めたこの美術館のプライドのようなものが見てとれる。

     

 それはともかく、好きな玉堂が堪能できていい時間をもつことができた。
 見終えて外へ出ると、天気予報に反して氷雨模様であったが、なんとなくほっこりとした気分を抱いていたせいか、さほどの寒さを感じなかった。





 

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オディロン・ルドン展を観る@岐阜県美術館

2013-10-14 17:26:23 | アート
 オディロン・ルドン(1840-1916)の作品を、岐阜県美術館がかなり持っているのは知っていたが、これほどまでとは知らなかった。
 展示作品150点ほどのうち、実に4分の3ほどが岐阜県美のもので占められ、それにルドンの故郷、ボルドーから来たものを加えるとほとんど作品が網羅されてしまうからである(もちろん、その他のところから来たものもあった)。

                                     「アポロンの戦車」岐阜県美術館所蔵

 作品の質も相当なものである。
 フランス国家が買い上げたという「目を閉じて」という作品は現在オルセーに展示されているが、その別テイクのものは岐阜にあるし、「オフィーリア」、「アポロンの戦車」などの別テイクも岐阜にある。とりわけ「アポロン」については、ボルドーにあるものと並んで展示してあったが、アポロンを人間神の形象で表示したボルドーのものより、文字通り燃える炎で表現した岐阜のものの方がいいと思った。

 展示のプロローグともいうべき、ルドンに影響を与えたクラボーの植物学図鑑や、ロドルフ・ブレスダンの作品を見た時には、これはもう、シニアグラスの世界ではなく天眼鏡の世界だと思った。視力2.0のひとでもかなり目を凝らして観なければならない細密な絵なのだ。
 ルドン本人のものになってからは多少ましになり、だんだん構図も大胆になってくるのだが、黒チョークや木炭で書かれたそれらはただただ黒い。「黒の画家」といわれた所以であろう。

 ただし、内容がおもしろくないわけではない。
 1800年代の後半といえば、同じフランスでは印象派が花開き全盛期を迎える頃である。その同じ時代に、ルドンはまったく違う絵画を求め続けたともいえる。
 その絵画は、印象派風のそれまでの写実からの分離とはまた違った、心象そのものにおける写実からの分離ともいえる。一般には象徴主義の画家といわれているようだが、意識下の形象に似た画風は20世紀のシュールリアリズムに通じるのではないだろうか。
 その晩年、マルセル・デュシャンなどと同一の美術展に作品を並べたというのも納得できる。

              
               「オフェーリア」岐阜県美術館所蔵

 普通、美術展というのは、後半になるといい加減疲れてきて、その観方も粗雑になるものである。しかし、この場合はそれに当てはまらない。
 それは、その後半に至って、それまで抑制されてきた色彩の世界が一挙に花開くからである。
 この優しくて深みのある色使いはなんなのだ。なぜこれをもっと早く描かなかったのか、などの思いが去来するが、それもまた彼にとっては必然だったのだろう。
 冒頭部分で述べたような作品、オフェーリアやアポロンやオイディプスが、そして静物が並ぶ。
 別にフィナーレを華やかにという演出なのではなく、彼自身の画業がそうした経路を辿ったのだ。

 美術館を出ると、しょっちゅう来ていて見慣れた風景なのに、なにか場違いの場所に放り出されたような気がした。
 そして、樹々の間から見える夕焼けの赤さに、ルドンの燃えるアポロンを思い出していた。

   10月27日(日)まで、岐阜県美術館で
 

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推理小説とクラシック音楽(2)『ケッヘル』 過剰と欠落

2013-04-29 02:36:48 | アート
 ケッヘルは、第一義的には音楽学者、作曲家、植物学者、鉱物学者、教育者として活躍したルートヴィヒ・フォン・ケッヘル(Ludwig Alois Ferdinand Ritter von Köchel 1800-1877)の人名である。
 
 しかし何といっても彼の名を後世に残したのはW・A ・モーツアルトの作品を整理し、ほぼ作曲年代順に番号を付したことにある。
 それはいわゆるケッヘル・ナンバーといわれ、K525といった具合に表示される。今日では、博物誌的な才能の持ち主だったこの人の業績のなかでも、このケッヘル・ナンバーのみが残った形であるが、ケッヘルを連発するモーツァルティアンでも、それがこの人の人名に発するものであることを忘れている人が多い。

        

 ちなみに、モーツアルトの楽曲はK626までを数え、バッハの1000を越える数には及ばないが、バッハが65歳まで生きたのに対し、モーツアルトが35歳でその生涯を閉じたことを考えると決して少ない数ではない。しかもこのケッヘル・ナンバーでは、数々のアリアや合唱曲、それに前奏曲や間奏曲を含むオペラも一曲にしか数えられていないから、それらを加えると700に迫ることだろう。

 ポピュラーな曲でいえば、セレナーデ「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」はK525、交響曲40番はK550、オペラ「魔笛」はK620、そしてその白鳥の歌、「レクイエム」は最後のK626となる。
 私が書きかけた小説、『K627 チェロ協奏曲第一番』は、モーツアルトがそのソナタでも協奏曲でも決して書かなかったチェロの曲の発見に関わる仮想の物語であるが、その冒頭部分で挫折したままである。

 この辺までは知っている私であるが、小説の世界などには暗く、図書館で『ケッヘル』という本を見かけた時には、冒頭で見たケッヘル氏の伝記的な作品かなと思い、お目当ての他の本のついでに気楽に借りてきた。

        

 しかし、この本、『ケッヘル』(上・下 中山可穂 文藝春秋)は案に相違して、推理小説であった。発行年が2006年であることからして、この前に紹介した『シューマンの指』(奥泉 光)がシューマン生誕200年に書かれたように、この書はモーツアルト(1756~91)の生誕250年に合わせて書かれたものだろう。

 この本でのケッヘルは、むろん、もっぱらモーツアルトの楽曲の番号としてのそれにとどまるのだが、そのナンバーにまつわる話は、とりわけ前半においては重要な役割を担っている。

 この物語は、親子三代にわたる壮大な規模を持ち、それ故、上下2巻にわたるのだが、推理以外の要因としてはやはりモーツアルトとその音楽に関する薀蓄がある。しかしこれは、『シューマンの指』ほどマニアックではないかもしれない。たとえそうでも、それが醸し出す雰囲気だけ味わってスルーしても小説の受容にはほとんど関連はない。

            

 推理以外のもう一つの要因は「愛のかたち」についてである。ここに登場する愛は、放縦なもの、ストイックでプラトニックなもの、そして、いわゆる「ビアン」なものなどと多彩である。このビアンな愛にはいささか面食らったが、中山可穂さんは自らそれをカミング・アウトしているようだ。SNSには一般的なファンサイトと、加入には審査が必要な女性専用サイトとがある。

 登場人物はそれぞれ、極めて過剰なものをもっている。そうした過剰は、しばしば反面としての欠落をも示すもので、この小説でもそれによる危うさやエキセントリックなものが秘める自傷的なものが語られている。

        

 推理小説としての評価は、例によって避けるが、犯人探しの面では、一度ある容疑者を浮かび上がらせ、それからミスリードを図るようにほかを示唆し、更に曲折してループ状に戻るという操作が行われていて、納得する反面、やや、物足りなさも感じさせてしまう。
 読者の感想など参照したら、「あいつが犯人であって欲しかった」などというものが複数寄せられていて、その意味では期待はずれであったかもしれないが、同時に読者の期待をうまくはぐらかした面では成功といえるかもしれない。

 この書の面白さは、事件の推理を離れて、過剰なゆえに欠落を背負う人間を描いていることかもしれない。
 この点では前に書いた『シューマンの指』とも共通しているし、ミステリアスな幻のピアニストが登場するという点でも似ているといえる。

 余談であるが、ストイックな愛とビアンなそれとはなにか共通するのだろうか。
 この書がそうであるように、中山可穂さんはあえてそれを並行して書いたのだろうか。

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かくして幽霊の足は切られた 圓山應擧展を観る

2013-04-14 01:48:54 | アート
            

 圓山應擧展を観た。最終日近くでかなり混んでいたが、作品が大きいせいでさほど観るに難渋することはなかった。
 應擧というと、「お宝鑑定団」などでも偽物がたくさん出る代表格である。
 今回の展示の中にも偽物があるかも知れないと思い、意地の悪い視線で見た。

 あった!明らかに一連の應擧のものとは線や色彩が違うものがある。しかもそれらが一点だけではなく、結構あるのだ。
 しかし、よく説明をみると、それらは應擧が参照し模写したりしたものや、あるいは逆に、應擧の弟子や彼に影響を受けた人たちの作品だった。
 
 最近の美術展では、そのアーティストが影響を受けた作品や、逆に影響を与えた作品とともに展示するケースが多い。
 それはその作品を通時的、あるいは共時的な諸関連のなかで位置づけながら見せるということである意味では評価できるが、あまり度が過ぎると、肝心のそのアーティストの作品がそれらに埋もれたり、あるいは数的に少なかったりして、結果として単に水増しに終わることもある。
 この應擧展がそうであったというわけではない。

 應擧の絵に戻ると、若いころの眼鏡絵(遠近感を誇張し、凸レンズを使って立体的に見せるもの)などをはじめ、様々な技法を駆使しているのだが、私としては、極彩色のものよりも単彩(モノクロ)や彩色されていても淡い色合いで色そのものが自己主張しないもののほうが好きである。彩色で見せるのは若冲に任せたほうが良いというのは私の勝手な解釈だ。

 なお、別名、應擧寺ともいわれる兵庫県の大乗寺の襖絵は、畳敷きの部屋に欄間もしつらえ、立体的に展示されていて臨場感があった。これとて、キッチュな感は否めないのだが、美術館での展示という行為そのものが、本来それらが置かれていた場所からそれらを引剥がし、そのアウラを捨象したところで展示されるのだから致し方あるまい。その意味からいったら、今回の展示にはそれなりの努力が添えられていたともいえよう。

      

 應擧といえば幽霊の絵を連想する人が多いが、今回は展示されていなかった(前期と後期でいくぶん展示内容が変わっているので、前期にはあったのかもしれない)。
 私も、高山の寺院で應擧の幽霊図というのを観たことがあり、全国にはかなりのそれらがあるようだが、現在、それらのうち真筆とされるのはわずかに二点だという。しかもそのうちの一点も確実とはいえないという。
 では確実な真筆はというと、アメリカはカリフォルニア大学のバークレー美術館の所蔵だという。

 なお、幽霊に足がないのは應擧に端を発するというのは事実らしい。ということは、250年前までは幽霊にも足があったということである。
 これも余談だが、初代圓朝に、應擧の幽霊図を題材にした落語があり、それを圓朝忌には演じるらしいが、それらの詳細についてはよくわからない(その落語のあらすじは知っている)。

 どうも私の美術鑑賞は寄り道が多すぎるようだ。
 應擧さん、ごめんなさい。
 

コメント (2)
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これぞ文化だ! 文句あっか!

2013-02-25 03:20:41 | アート
 23、24日は、私の住む岐阜郊外の小学校校下の「文化祭」でした。
 田んぼに囲まれた小さな公民館での開催です。
 校下の各サークルの発表、売店、などなどでけっこう人々が集まります。

 私はもう数年間この行事に参加しています。
 作品の出品までしているのですよ。

 

 セントラル志向の人たちからいわせるとそんなものなにが文化だといわれそうですが、人々が集う中、日頃の研鑽を見たり見られたり、しかもそこに笑顔があり、うまいものがあったら立派な文化です。

 

 文化が図書館や美術館やコンサートホールにあると思っている人たちは偏見に囚われた気の毒なひとです。それらはすでに権威付けられ、秩序に守られた文化です。
 一方、文化には既存の秩序から突出し、そこを相対化してゆく前衛的な働きも確かにあるでしょう。しかし、そんなものポシャってしまえば単なる人騒がせか悪あがきです。

 それに対して、地域の人達が集い、互いの存在を確かめ合ったり、「ほう、あの人が」と驚いたりするのも立派な文化です。
 サークルに集う人たちはその驚きを引き出すために一年間研鑽し、この文化祭を晴れの舞台として競うです。

 

 私は写真を出品しましたから、その近くにしばらくいました。
 みんなけっこう真剣に観てくれますよ。
 二人の老女たちの会話。
 「この〇〇って、※※さんちの新家の息子と違うか」
 「そやろか。あれってそんなに器用そうには見えんがなぁ」
 これもまた立派な批評です。

 

 このイベント、むかし私が名古屋の今池で関わったように、やはり地域の人達が手弁当で運営しているのがいいですね。
 そうした準備段階、そして実施の段階、さらには撤収する作業、それらも含めて立派な創造、立派な文化だと思います。人々が笑顔で集える場所を生み出すこと、それを文化といわずしてなにが文化だ。
 文句あっか!


内緒ですが、最後の写真が私の出品したものです。内緒ですよ。
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