イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

人のために強く

2009-04-02 20:08:58 | 特撮・ヒーロー

いちいち首かしげているだけでは建設的でないので、月河なりにシンケンに考えてみましたよ。

こうすりゃよくなる『侍戦隊シンケンジャー』”。

…いや、いまが「悪い」というわけではないんですけどね。

①:アヤカシが出現しない志葉家での“平時”の衣装をメンバー、統一しましょう。アヤカシ現場に駆けつけて変身名乗りの際、黒子さんが合戦時の本陣風に、紋所入り白幕を張って幟を立て、全員白の単衣に、男子は鉄紺、女子は黄蘗色の袴で並び立ちますが、あれは“ここからはアンリーズナブル、ミスティカルの世界だぞ”という一種の結界を示しているわけですよね。

いま、平時のシンケンメンバーはそれぞれの“持ち色”基調とは言え、そこらの学生やフリーターの通勤時みたいな格好で、志葉家の座敷で食事をしたりしているので、現実世界となし崩し地続き感があり過ぎて、逆に嘘っぽい。

特に、主君=殿様たる丈瑠(松坂桃李さん)までが、他メンバーと同格のカジュアルスタイルというのはいただけません。殿様は他とは別格の聖性、スペリオリティを、まず平時の着物、履き物でも示さないと。

同じ年頃の若者たちなのに、出生、世襲により君/臣の格差が決まっていて動かせないという非現実的な、理不尽でさえある設定に説得力を持たせるべく、もっと“別世界感”醸出に細心になりましょうよ。

せっかくの久々の和もの戦隊、まさかスポーティなジャケに、女子の場合ミニスカというわけにはいかないでしょう(期待する向きは多そうですが)し、純和装では若い俳優さんたちの裾さばき立ち回りがむずかしい、また街中のシーンで道行く人々から歴然と浮き上がるようなのもいかがかということであれば、たとえば“原宿作務衣風”みたいなおシャレなデザインを考えていただきましょう。いやテレビ朝日だけに、原宿じゃなくギロッポン風でもいいですが。戦隊のデザイン担当さんには例年、こういう仕事の天才的に達者なスタッフが揃っているはずです。

②:お揃い衣装が決まったら、OP映像もマイナーチェンジ。モヂカラに覚醒した丈瑠に、流ノ介(相葉弘樹さん)以下ひとりずつ向き直ったら、一列横隊で控えるときは全員その衣装でいくべし。カジュアルな服装の若者たちが、ひとりは主君然と直立、ほかは家来然と膝をついているというのは“ごっこ遊び”みたいで、どうにも安っぽいしイビツ感がある。

ドラマや映画の時代劇を観ていて、同世代でも親代々の家柄で身分の上下や言葉遣いが決まっている前提にイビツ感が生じないのは、「封建時代が舞台だから」という了解がとりつけられているからです。『シンケン』は現代を舞台に、封建時代の身分制度に立脚したフィクションを作っているのだから、「現代は現代でも、ここは特殊なパラダイムに基づく特殊な世界ゆえ、親代々の“殿”に服従しかしずき、食事も殿は一段高い座でとるのが自然なのだ」という納得と了解を、何としてもとりつけてもらわなければ物語に入れません。

しかもお揃い衣装を決めれば、半襟や袖口のディテール、タスキの有無などで家臣間の家格や持ち場を暗示することもでき、ヴィジュアル情報伝達可能量がカジュアル私服の何倍増しにもなります。

③:では志葉家と殿が、どんなふうにどれだけ聖で偉でスペリオルかということを、本編とは別建てで小出しに説得納得させていくためのツールとして、CM前の“お楽しみコーナー”を復活させましょう。

十八代にわたる志葉家のアヤカシとの戦いの歴史を、シャイで偉ぶらずひけらかさずが魅力の殿に代わり、いちばん“主君への服従”関係に懐疑的で嫌悪感を露骨に示していた千明(鈴木勝吾さん)辺りを狂言回しに、志葉家の書庫にもぐり込んで史料を盗み読みするなどの形で、古来から如何にシンケンジャーが外道衆から人々の命を守るため活躍して来たか、志葉家がその統率者一族として代々尊崇を集めて来たかという、“世界観の外堀部分”を徐々に明らかにしていってもらいましょう。

1幕では流ノ介に「シンケンジャーとしてこんなことも知らないとは、親がいい加減だったんだな」と指摘され「当たってるだけにムカつく!」とカッカきていた負けず嫌いの千明のこと、親で差のついた基礎知識を早く吸収して追いつきたい意欲は満々のはずです。この際視聴者もそれに便乗させてもらうとしましょう。

「家臣としての心得ならメンバーの誰にも負けない」つもりの流ノ介が「それはこう読むんだ」とカッコつけて教授しようとして、爺(伊吹吾郎さん)が見かねて後ろから忍び寄り「これこれ、知ったかぶりをするでない、それはそもそも…」と一席ぶつ場面もあっていい。天然キャラのことは(森田涼花さん)が、局アナ時代の有賀さつきさん級のトンデモ読みをかましたり、古文書の間から、幼かりし殿の恥ずかしい写真なんかもヒラヒラ落ちてきて「みんな、シンケンジャーの歴史に興味があるのか、頼もしいことだ」とおっとり構えていた殿が「そっそれは、それだけはダメだ門外不出だXファイルだ」と慌てて追いかけてくることもあるかも。

特撮、ヒーローものに限らず、リアルで日常的な題材の作品でも、ドラマは要するに“どれだけうまく嘘をつけるか”“どれだけ気持ちよく人がダマされてくれるか”の勝負です。

上手な嘘というのは二本立ての戦法があって、背後から不意をつきいきなりガンと草叢に押し倒し、悲鳴を上げる暇もなく両頬を往復ビンタ食らわして気絶寸前にして「ま、まいりました、おっしゃる通りです、なにとぞ命だけは」と言わせてしまうていの嘘がひとつ。

もうひとつは静かな、温かい部屋でくつろがせ茶菓でも出しつつ、「なんかヘンだけど、ま、なくもないか」と思わせる程度の小さーい、大勢に影響なげな無害そうな嘘をじわじわ積み上げて行き、茶を飲み終わってふと気がつけば蟻の這い出る隙間もない嘘の稠密な壁に四方を取り巻かれている…というたぐいの嘘です。

『シンケン』は第1幕からかなりいい感じで草叢に押し倒しはしたのですが、松坂さん扮する殿の孤高の貴種ぶりにすっかり了解取りつけられ済みの人には何の問題もなくても、そこまでは騙されきれないまま、ホコリはらって草叢から起き上がってしまった月河のような視聴者からすると、「いまの時代にあの状況で、殿だ家臣だってアリ?カッコいい?」という摩擦感が残ってしまう。そうなったときの、じわじわ積み上げていつの間にか逃げ場を塞いでおくほうの手法にどうも粗さが目立つ。

「殿カッコいい」「ことは可愛い」「流ノ介おもしろい」という“キャラ萌(燃)え”に頼り過ぎなような気がするのです。「これだけ嘘ついて種蒔いたんだから、食いついて萌(燃)えられる人、波長の噛み合う人だけ客にする」みたいな偏狭さ、作品としての器の小ささがある。いま少し、“良き騙し仕事”に徹する丁寧さ、親切さが欲しい。

親切さと言えば、たとえば前回第7幕でヤミオロロの吐く毒霧に倒れた一般市民たちにも、流ノ介が持ち帰ったカジキ折神の“海水の浄化作用”を示す雨が降りそそいで、高熱に苦しみ命を落としかかっていた人たちが元気になる描写があるとよかったですね。毎話、結構な数の一般人がアヤカシの被害に遭っているのに、“シンケンジャーのおかげで助かった、ありがとうシンケンジャー”という善意のフィードバックがない。“殿”“志葉家”の聖性、被尊崇性に説得力がいまひとつな原因にもなっています。

特に今回のヤミオロロ毒霧攻撃は、近代の流行り病いやスペイン風邪・新型肺炎などのアウトブレイクを指しているのかな?と思わせるリアリティもあっただけに、細部の描写でもう一歩踏み込んでほしかったところです。

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