不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

“鮨”

2009-03-31 00:04:09 | 特撮・ヒーロー

昼休みや飲み会の四方山話ではなくネットのここに書くときは、ドラマ・映画なら本スジの話、芸人・タレント・役者さんネタなら芸や演技の話に極力絞りたいと思っていますが、いま触れとかないと永久に触れる機会がないと思うので少しだけ。

藤原紀香さんの実家母上からの生々しい、しかし断片的な情報のせいもあって、主因は陣内智則さんの女グセ…という結論になりかかっていて、それもまぁまるハズレのまる濡れ衣、というわけではないのでしょうけれど、そういう性癖とか芸人としての生活志向みたいなものなら結婚前からある程度わかるはずで、それ単体で結婚生活破綻の決定打になったとはどうも考え辛い。あのいまどき珍しい、TV生中継つきクソ豪華な披露宴、ムダにクラシック本格的な挙式を思い出すにつけ、このカップル、“結婚の商品化・商材化”に失敗したという、それに尽きる気がします。

1971年生まれの藤原さん結婚当時35歳、売名でも宣伝でもなんでもなく普通に温かい家庭や良き妻への意欲はあったと思うし、陣内さんも「(若干トシ行ってるけど芸人にも人気の)天下の美女が嫁になってくれちゃってうらやましいオレ」という気分の弾みがあったと思いますが、それとは別な大きな力が“商売”を志向していたように思えてならない。式も披露宴もWBCじゃないけど、思わず“経済効果”という言葉を連想するしつらえだった。

よくある“落ち目・低迷芸能人の、私生活露出切り売りによる再浮上画策”(と地続き同類項ではあるけれど)よりもっと“大きな”力を感じました。

それが芸能事務所の力なのか、宗教団体もしくは政治的圧力団体の力なのかはしかとはわからない。

しかしご当人たち、誰であれ画策者たちの考えているよりずっと、“結婚”とはコントロールが難しいものです。他によく商品化の対象とされる、“闘病”“リハビリ”“出産”“流産”“不妊治療”“借金”あるいは“離婚”などと違って、“結婚”はひとたび商品化したら、絶えずメンテナンスしていかなければならないアイテムです。闘病なら根治、復帰とか、借金なら完済とか、離婚なら和解成立といった、「これにて一件コンプリート」ということがない。

妊娠出産のタイミング、何人作って産むか、夫婦2ショットあるいは子連れで露出する頻度やその際のファッションなどを含めて、結婚が継続している間じゅう“ランニングコスト”がかかるのです。何もコストをかけず、挙式披露宴のみ商品化してあとはおめでたの報もなく、当然流産や異常分娩の悲報もなく、嫁姑問題もなく夫婦露出もゼロの放置プレイとなると、“仮面夫婦”の疑惑を免れず、商品化した意味がなくなってしまう。

“結婚”がこれだけ手ごわい、手間ヒマのかかるアイテムだということに、当の陣内さん藤原さんも、商品化を企画した主体も気がついていなかったふしがある。切り売り露出の必要がない無名一般市民の男女ですら、“結婚”単体では御しかねて晩婚非婚が進み、よくて“できちゃった”婚で、“結婚”のありあまる濃度を“出産”“子育て”で薄めなければ挑戦できない時代だというのに。

企画主体にすぐれて受け身に“乗せられた”ほうである陣内さんが、浮気問題でも起こさなければ間が持てなくなったというのが正直なところではないでしょうか。いまとなってはイタい笑止対象になっている披露宴でのコブクロ弾き語り熱唱も、陣内さんとしては愛とか恋とかから発するものではなく“芸人として無茶振りにも応え、うまく演れてもトチっても、どっちに転がってもネタ化できる力量を見せた”つもりだったかもしれない。

月河としては今回の話題で、藤原さんの女優としての数少ない(と言うか、ほとんど唯一の)代表作だと思う99年のフジテレビ系『危険な関係』が再放送されないかなと期待しているのですが、当地、その気配はありませんね。藤原さんもさることながら、脇の稲垣吾郎さん、まだ主役とはいかなかった頃の篠原涼子さん、月河が個人的に贔屓のモロ師岡さんもとても良かったんだがなあ。

『侍戦隊シンケンジャー』29日に第7幕。行方不明だったカジキ折神捕獲に流ノ介(相葉弘樹さん)派遣、巷では猛毒霧を噴くアヤカシ・ヤミオロロ跋扈、毒霧に倒れる丈瑠(松坂桃李さん)たちシンケンメンバー、捕獲に手間取る流ノ介は元・侍と思われる漁師・朔太郎(綱島郷太郎さん)のアシストを受け…高熱のダメージをおして爺(伊吹吾郎さん)を振り切りひとりヤミオロロに立ち向かう丈瑠、「ひとりで目立ってんじゃねぇ」「ワタシたちだってできるだけのことは」と、毒霧にやられて変身する力がないのにもかかわらず追いかけ駆けつける千明(鈴木勝吾さん)、茉子(高梨臨さん)、ことは(森田涼花さん)、そこへ流ノ介がカジキを持って帰還し、殿もメンバーも海の浄化力で解毒され、カジキシンケンオーとなってヤミオロロ撃破。

流ノ介ら若い侍たちの忠誠心、代々シンケンジャーの親から刷り込まれただけではない、正義と信頼の心に感動した朔太郎は、一度去った志葉家に仕える道を再び選びひっそりと黒子へ…という転帰、30分枠の使い方として無駄なくうまいこといってはいるんですけど。

昨年『炎神戦隊ゴーオンジャー』GP7ではボンベ蛮機とキャリゲーターが参入していたっけ。あの頃に比べて『シンケン』が視聴していて心がはずまない理由は、メンバーの内面モティベーションやシンケンジャーのシステム的整合性(言われ、由縁)に重心が行き過て、シンケンレッド以下メンバーに天真爛漫さ、“戦士としての生を謳歌している”感がないからだと思います。

日々敵組織と、危険を冒し身体を痛めて戦わなければならないけど、「でも自分で選んだ生き方だし、戦士にならなければ得られなかったこと、出会えなかったもの、経験できなかったこといっぱいあるし」という、青空を仰ぐような気分が乏しいので、30分の中で「ここは、こういう意味を表しているんだよな」といちいち引っかかってしまう。

同じ宿命・世襲戦隊でもたとえば『魔法戦隊マジレンジャー』は、冒頭で母親が敵に倒され消滅するというショッキングな出来事が提示されても「ボクたち、ワタシたち魔法が使えるんだ、あんなこともこんなこともできるんだ」「知らないでいたことが次々にわかってきた」という気持ちの弾みがあり、「ボクらの魔法力を合わせれば必ず母さんを取り返せる、それを目標に敵を倒そう」という結束力、ポジティヴさにもつながっていた。

シンケンジャーたちは、彼らが戦士であることによって生じる、観ていて心浮き立つ要素がなく、戦士であるがために不自由や不安や、メンバー間のぎくしゃくに甘んじなければならないという苦痛要素ばかりが目立ちます。今後どう変わっていくでしょうか。

せめて『ゴーオン』のボンちゃんことボンパーくんや、『マジレン』のマンドラ坊やみたいな、間の緩衝キャラがいれば、物語世界の空気感が軽くなるかもしれませんが、そういうのを配しないことが今作の個性なのでしょうしね。

今話、数少ない笑いどころは流ノ介がモヂカラでカジキ折神を釣り上げようとする、その餌が“”の字だったこと。いいのか。ここに“”が付いたらアレになっちゃうぞ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 呂律(ろれつ) | トップ | 人のために強く »

コメントを投稿

特撮・ヒーロー」カテゴリの最新記事