戸谷語録。もちろん『わるいやつら』の話です。
1.「こんなことぐらいしかできない。…ごめんね」(1章、豊美の靴紐を結んで)
2.「終わりかもしれないなぁ…俺も、病院も。院長も疲れた。ほっとするよ」(同、脅してきた龍子を眠らせた後、豊美に突き飛ばされて)
…自分がいかにも無力なようにアピール。1.の後は「どうしたら一人占めできますか?先生みたいな人を」逆告白を、2.の後は「もう一本打って眠らせたら?」致命的提案を豊美から引き出しました。巧みな計算だとしたら本当に悪いやつだし、自然に出たとしたら“魔性の男”めいていてこれまた怖い。
3.「もう逃げられないなぁ…これで豊美からは逃げられなくなった。安心していいよ、どんな女が現われたって、豊美には勝てない」(2章、龍子火葬後ホテルで。この後「こんな幸せがあったっていいよな」と続く)
4.「本当は心底ホッとしてる。もしかしたら(豊美が)下見沢のところに行ってしまうんじゃないかって、気が気じゃなかった」(3章、下見沢に仕向けるも豊美拒絶で。以下「でも豊美は戻って来てくれた。嬉しくて、もっと好きになる」「(もし戻らなかったら?)そのときはあきらめる、豊美が幸せなら」と続く。何をかいわんや)
5.「わかった。じゃあ俺もやめる」(同、豊美に第二の犯行を持ちかけて拒否され)
6.「邪魔してくれて正直ホッとしてるんだ。本当はやりたくなんかなかった。どうせ一人では出来なかったろうし」(4章、第二犯行を阻止された数日後。「豊美がいなければ何もできない」と続く)
7.「なんかさっぱりしたよ。いろいろ無理してたからね」(5章、隆子両親との面談を豊美にぶち壊された後)
…悪だくみしては豊美に阻止され、そのたびに「かえって助かった」のリフレイン。豊美にその意識はなくても、結果的には戸谷をどうにか真っ当な方向に戻そうとしているかのよう。戸谷もまるで“豊美に真人間にしてもらいたい”と望んでるかのよう。
他方、戸谷を取り巻く豊美以外の女たち―チセ、隆子、龍子―は正反対で、実質「ワタシのためにもっと悪いことやってよソーレソレ」とけしかけている。
ウソも百遍言えば本当になるといいますが、戸谷が、阻止されては「ホッとした」、また邪魔されては「助かった」、その場その場で豊美の機嫌を取り結ぼうとして発する言葉の根底では、利と欲に巻かれて雪だるま式に身動き取れなくなって行く悪事のスパイラルを、誰かに止めてほしいと本気で願っているのではないかと思います。
そういう状況の中で戸谷とかかわった豊美は、いまや“生殺与奪をこの手に握る”という形でしか、彼への想いを具現化することができなくなりました。
2件の殺人について豊美が告発すれば、戸谷も窮地に陥りますが、豊美も自分で自分の首を絞めることになる。
2人の利害、というか、欲するところは、相反するようでいて実は一致しているのです。
豊美との一蓮托生がはっきりした3.の状況で“幸せ”という表現をしているのが改めて目を惹きますが、夜景の見えるホテルでのこの場面のあと、戸谷が自分の車で豊美をマンションまで送る場面があります。豊美は龍子葬儀から直行でホテルに泊まったので、喪服での帰宅です。共犯という、茨(いばら)の蔓のような絆。運転席と助手席、2人の間に重い空気が立ちこめています。
このとき車外を数人の小学生たちが走り過ぎます。ひとりの女の子が叫んでいます。
「置いてかないでよーーー!」
豊美の心の叫びでもありますが、同時に戸谷の叫びでもあります。車中の2人の状況を、車外の無邪気な子供の声が言葉にしてくれたようです。