retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

千代田線根津駅(シティタワー上野池之端)

2016-07-21 03:58:47 | Weblog
高田馬場から山手線。
西日暮里で千代田線に乗り換える。
根津駅で下車。
地上に出ると、南北に伸びる不忍通り。
不忍通りを、南へ。
しばらくすると、通りの西側には、シティタワー上野池之端。
最近、完成した、高層住宅。
都心の、再開発は、まだまだ、続く。
西側には、東京大学の、広大な敷地。
そのような、施設があると、高層ビルが、建ちやすいのかも。
不忍通りを、北へ。
(2013年8月記)

日暮里舎人ライナー熊野前駅(西尾久六丁目 荒川車庫前駅)

2016-07-20 04:33:41 | Weblog
南へ歩いていくと、再び、東西に伸びる通り。
通りの中央には、路面電車、荒川線。
このあたり、大正時代、開通したようだ。
その後、乗客増を見込んで、あらかわ遊園の設立にも、関与したらしい。
アーバンリゾート地の開発。
王子、飛鳥山を起点にしているとすれば、それは、あり得るように思える。
だが、そのような時代も、今は昔。
あたりは、静かな住宅地が、広がるばかり。
荒川線に乗って、帰ることにする。
大塚で、山手線。
(2013年8月記)

日暮里舎人ライナー熊野前駅(西尾久八丁目 尾久六小近く)

2016-07-19 03:59:50 | Weblog
西へ西へと、歩き、途中、南へ。
住宅地の中、南へ、進む。
しばらくすると、小学校。
開校したのは、昭和の時代。高度成長期の前、終戦後。
都心近郊の住宅地、ということで、小学校が、作られたのだろうか。
とすると、このあたり、最盛期は、高度成長期、ということか。
今は、静かな、住宅地。
さらに、南へと、歩いていく。
(2013年8月記)

日暮里舎人ライナー熊野前駅(堀船四丁目 東西に伸びる通り)

2016-07-18 05:05:52 | Weblog
小台橋、江戸時代の、小台の渡しのあったあたり、神社や、寺院が、多かったのだが。
それだけ、昔から、暮らしがあった、ということだろう。
江戸時代、さらには、ひょっとして、鎌倉時代の終わり頃まで、遡ることができるかもしれない。
そうした地域から、離れていくと、なにもなくなっていく。
道路も、ずいぶんと、新しい感じ。
高度成長を達成した後、安定期に開通したのだろうか。
東西に伸びる、新しい道、西へ、向かう。
(2013年8月記)

日暮里舎人ライナー熊野前駅(堀船四丁目 煉瓦の蔵)

2016-07-17 05:01:36 | Weblog
住宅地の中、西へ歩いていくと、再び、煉瓦。
今度は、建物。
よほど、煉瓦の生産地、ということが、影響を、持っていたのだろう。
だが、これほどに、盛んだった、煉瓦の生産、工場、今は、もう、なくなっている。
煉瓦塀や、煉瓦の建物が残るのみ。
その跡地、ラジウム鉱泉を中心にした、アーバンリゾート地になったわけだが、こちらも、今は、跡形もない。
あらかわ遊園を残すだけ。
往時を偲ぶものもない。
時代は、流れる。
(2013年8月記)

日暮里舎人ライナー熊野前駅(堀船四丁目 延命寺)

2016-07-16 08:40:27 | Weblog
船方神社の西側には、延命寺。
創建は、やはり、鎌倉時代の終わり頃。
ただ、創建の地は、船方神社の東側、今の、あらかわ遊園のある場所だったらしい。
明治時代初め頃の地図を見ると、すでに、船方神社の西側にある。
とすると、江戸時代も、今の場所の、可能性は高い。
ひょっとすると、江戸時代の初め頃、このあたり、開拓されるとき、延命寺、船方神社の西側に、移転したのかもしれない。
ただ、その理由は、まったく、わからないけど。
さらに、西へと、歩いていく。
(2013年8月記)

日暮里舎人ライナー熊野前駅(堀船四丁目 船方神社)

2016-07-15 04:21:16 | Weblog
あらかわ遊園西側に沿って、北へ。
しばらくすると、船方神社。
創建は、まったく、わかっていない。
江戸時代、あたりが、開拓されるよりも前に、あったかもしれない。
もし、そうなら、近くの、八幡神社と同じ、鎌倉時代の終わり頃、ということも、あり得る。
隅田川沿いの、拠点だったのかもしれない。
隅田川沿い、西側には、白山神社もあり、同時期と、思われる。
さらに、西側、内陸、王子、豊島氏の本拠地。
関係があるのかもしれないが、今となっては、まったく、わからない。
再び、西へ、向かう。
(2013年8月記)

日暮里舎人ライナー熊野前駅(あらかわ遊園 スワンの池 めがね橋)

2016-07-14 04:00:38 | Weblog
煉瓦工場から、娯楽施設へ。
そこへ、まるで、呼応するかのごとく、ラジウム鉱泉、である。
娯楽施設、湯治場。
まさに、アーバンリゾート。
都心に近いし、川べり、というのもいい。
昭和の初め頃は、かなり、賑やかだったようだ。
今は、その面影はない。
のんびりとした、遊園地が、あるばかり。
(2013年8月記)

日暮里舎人ライナー熊野前駅(西尾久六丁目 あらかわ遊園入口)

2016-07-13 03:56:33 | Weblog
おそらく、銀座煉瓦街の煉瓦、この地で、生産された煉瓦なのかもしれない。
明治時代、都市街並みを、形づくっていったのだろう。
ただ、大正時代から昭和、さらに、都市化が進み、郊外が誕生すると、煉瓦は、いらなくなってくる。
煉瓦が、いらなくなってくれば、煉瓦工場も、いらなくなるのだ。
さらに、あたりの水田も、宅地化が、始まる。
そして、煉瓦工場の跡地、あらかわ遊園、となる。
(2013年8月記)

日暮里舎人ライナー熊野前駅(西尾久六丁目 住宅地に伸びる煉瓦塀)

2016-07-12 03:49:51 | Weblog
住宅地の中、延々と、煉瓦塀が、続く。
この煉瓦塀は、かつて、この場所にあった、広大な、煉瓦工場の痕跡、ということだ。
隅田川土手の土が、煉瓦の原料として、最適だったらしい。
ということで、明治時代になると、煉瓦工場ができはじめる。
原料としての土、ということもあるが、隅田川を下れば、都心に、すぐ、輸送できる、ということも、あったのだろう。
ただ、原料には、限界がある。いつかは、枯渇してしまうのだ。
そういうわけで、大正時代になると、煉瓦工場は、衰退していく。
(2013年8月記)