retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

都営大江戸線六本木駅(西麻布二丁目 二本の道路が交差する不思議な場所)

2013-03-21 04:49:20 | Weblog
かつて、江戸時代、譜代大名、青山氏の、下屋敷だった場所。
今は、広大な、静寂の、墓地。
この場所から見ると、青々とした、緑に、覆われ、公園のように見えるが。
外苑西通りから、再び、西へ。
住宅地の中に、入っていく。
すぐに、南北に伸びる、二筋の、細い道。
途中で、交差したりしている。
いったい、どうしたわけで、このような、道路、できたのだろうか。
明治時代の地図を、みると、この場所には、笄川、という川が、流れていたようだ。
おそらく、一方の道路が、笄川の跡、そして、もう一方の道路は、笄川に、沿った、もともとの、道路、だと思う。
交差している部分は、かつて、川に、沿った、道路から、伸びた、橋の、部分、かな。
住宅地の中、さらに、西へ西へと、進む。
(2012年5月記)

都営大江戸線六本木駅(西麻布一丁目 外苑西通り 青山墓地近く)

2013-03-20 08:10:44 | Weblog
西麻布、というと、都心の中の、山の手、という感じだが。
高層ビルとは、縁がない、一帯のはず。
だが、最近は、こうして、六本木の、高層ビル街の、影響なのか、高層ビルが、建つようになった。
再び、六本木通りを、西へ西へと、歩いていく。
歩いていくに従い、徐々に、下り坂へ。
坂を、下りきった、谷底には、南北に伸びる、外苑西通り。
外苑西通りに入り、北へと、進む。
谷地なので、山の手ではないのだろうけど、かといって、一帯は、広く、山の手地帯なので、下町、という感じでもない。
昭和の、取り残された、街並みが、広がっている。
六本木の、再開発も、ここまでは、及ばないのだろう。
そんな、通りを、さらに、北へと進むと、その先には、広大な、緑地。
青山墓地がある。
(2012年5月記)

都営大江戸線六本木駅(西麻布土地利用計画工事現場)

2013-03-19 05:04:00 | Weblog
南へ向かい、再び、南北に伸びる、六本木通り。
六本木通りを、西へ。
しばらく、歩いていくと、南北に伸びる、通り。
外苑東通り、あるいは、さらに、西側の、外苑西通りの、バイパスのような、道路だろうか。
六本木ヒルズの地下を通り、六本木通りの、北側では、六本木トンネルで、再び、地下を、通っていく。
その、六本木トンネルなのだが、開通したのは、かなり、最近のこと。
バブルの頃だったと記憶している。
当時は、まだ、都営大江戸線は、開通していないものの、都心の中、隔絶した場所、ではなくなりつつあったのかもしれない。
ちょっと、離れるが、アークヒルズが、建ったのも、同じ時期だ。
交差点を、渡り、さらに、西へ、歩く。
程なくして、通りの北側、西麻布土地利用計画の工事現場。
住所は、西麻布だが、まだまだ、六本木の街は、発展していくようだ。
(2012年5月記)

都営大江戸線六本木駅(六本木七丁目 出雲大社東京分祠)

2013-03-18 04:08:28 | Weblog
西武新宿線、中井駅で、大江戸線に、乗り換える。
今日は、五月晴れ。
いつの間にか、初夏の、陽気。暑いぐらいだ。
大江戸線ホームは、地下深いので、あまり、関係ないようだけど。
大江戸線の、車両に、乗り込み、しばらくすると、六本木駅。
とりあえず、六本木に行くには、便利。
大江戸線が開通する以前は、日比谷線しか、なかった。
あとは、渋谷まで、バスぐらいだろうか。
昔、一度だけ、そのバスに、乗ったことあるけど。
地上に出ると、南北に伸びる、外苑東通りと、東西に、伸びる、六本木通りとの、交差点。
六本木通りを、西へ。
ほどなくして、北へ曲がり、細い路地を、進んでいく。
すぐに、出雲大社東京分祠。
この地に、移ってきたのは、新しく、高度成長期の頃。
もう少しで、日比谷線が、開通する。
街が、どんどん、発展していった時代だ。
(2012年5月記)

京浜東北線新子安駅(新子安駅駅前広場とペデストリアンデッキ)

2013-03-17 07:07:18 | Weblog
首都高横浜環状北線が、開通したら、おそらく、次は、首都高横浜環状南線が、着工されるだろう。
こちらも、ほとんどが、トンネルに、なるようだ。
その次が、首都高横浜環状北西線、かな。
最後が、首都高横浜環状北線と、首都高横浜環状南線を、結ぶ、高速道路。
これまでの例からだと、首都高横浜環状西線、となるのだろうか。
そして、全部、開通すると、横浜の街を、周る、横浜環状線が、完成する。
全部、開通した頃、世の中、どうなっているのか、わからないが。
などと、考えながら、歩いていると、京浜東北線、新子安駅に、着いてしまう。
高層住宅、駅前広場、そして、ペデストリアンデッキを、擁した、新しい駅前。
最近、多い、駅前再開発の、典型だな。
すぐ、西側にある、山の手が、そのまま、駅まで、拡大したようにも、見える。
ただ、この先、駅前再開発だけが、進んでいくとも、思えない。
実際、横浜周辺の、再開発、駅前再開発すら、なくなってしまった。
本当に、どうなるのか、わからない。
新子安駅から、帰ることにする。
(2012年5月記)

京浜急行線生麦駅(首都高横浜環状北線新生麦トンネル入口工事現場)

2013-03-16 07:06:29 | Weblog
しばらくすると、大通り、第一京浜と、合流。
今度は、第一京浜を、東へ。
途中、北へ、曲がり、そのまま、北へ。
JR京浜東北線の、踏切を、越えると、東西に伸びる、通り。
その、通りの、北側は、高台になっている。
首都高横浜環状北線は、その、高台への崖、中腹で、トンネル、地下を、進むようだ。
その先、もう、すでに、住宅地になっているので、高架は、無理なのだろう。
高台なので、おそらく、山の手、余計、道路の、新設は、不可能だ。
もっとも、鶴見や、生麦のような、下町だと、道路や、高架を、作るのは、可能。
あるいは、再開発も、可能、というわけかな。
それはそれとして、首都高横浜環状北線は、そのまま、地下を、西進。
第三京浜、港北ジャンクションまで。
計画では、さらに、その先は、首都高横浜環状北西線、東名高速まで、伸びるようだ。
また、途中、横浜環状線が、南に伸び、予定されている、首都高横浜環状南線と、結ばれるらしい。
全体が、完成するのは、いつになることやら。
通りを、再び、西へと、進む。
(2012年5月記)

京浜急行線生麦駅(生麦事件の碑(仮設))

2013-03-15 06:10:37 | Weblog
しばらく歩いていくと、道路の、北側に、生麦事件の碑、がある。
今、あるのは、仮設で、本物は、ここから、東、道路の、南側。
首都高横浜環状北線生麦ジャンクションの、工事現場。
工事中、ということで、この場所、仮に、置かれているのだろう。
ところで、生麦事件、というと、明治維新の歴史に、必ず、登場する、逸話。
具体的には、川崎あたりまで、乗馬による、遠出に、興じていた、イギリス商人一行が、大名行列(実は大名の行列ではない)に、遭遇し、不適切な、対応をして、無礼討ちに、された事件だ。
ただ、これだけなら、異文化遭遇による、不運な、事件、の一つ、だったのだけど。
この後、外交問題に、発展。
外交問題の結果、欧米に対し、国力のなさを、実感した、日本が、欧米を受け入れる、開国へ、政策を、転換するのだ。
国力がないから、外交問題で、不利な結果になり、国力を、付けるために、開国するのか。
あるいは、そもそも、無礼討ち、というような、風習があるがために、国力が、付かず、開国によって、そのような、風習を、正そう、ということなのか。
因果関係については、判然としないのだけど。
とりあえず、明治維新、なった暁には、欧米人が、普通に、日本国内、出歩けるようには、なった、ということか。
再び、西へ、歩き始める。
(2012年5月記)

京浜急行線生麦駅(首都高横浜環状北線生麦ジャンクション工事現場)

2013-03-14 05:02:31 | Weblog
生麦の旧道の、南側は、フェンスで、隔てられている。
その向こうは、広範囲、首都高横浜環状北線生麦ジャンクションの工事現場。
もはや、生麦の浦は、高速道路の、高架下、になる。
もっとも、それ以前、かなり、沖合いまで、埋め立てられているので、高速道路が、できる前から、海辺は、消滅しているわけだけど。
埋立は、早くも、明治時代から。
昭和の初め頃まで、かなり、沖合いまで、埋立は、完成している。
では、もとの、海岸は、どこなのだろうか。
おそらく、江戸時代、今、歩いている、生麦の旧道の、すぐ、東側が、海岸だったと、思う。
たしか、まだ、道路が、舗装されていない頃、この道にも、貝殻が、落ちていた、ということだ。
さらに、生麦の旧道、西へと、歩いていく。
(2012年5月記)

京浜急行線生麦駅(生麦 竹の湯)

2013-03-13 06:09:38 | Weblog
かなり前、バブルの頃か、鶴見に、行ったときは、まだ、少しは、賑やかだったと、記憶している。
生麦も、そうだったのに、違いない。
今は、すっかり、閑散とした、街並みだけど。
そんな街中、南へと、歩いていく。
途中、竹の湯、という銭湯。
それほど、古くはないが、このあたりには、他にも、銭湯は、多い。
かつて、繁華だった頃の、名残だろうか。
ところで、生麦、という地名の由来、についてだが。
海岸地帯だし、麦畑が、あるとも、思えない。
また、特産、ということもない。
江戸名所図会を、見ると、すでに、江戸時代には、生麦村、とある。
さらに、その昔、一帯は、生麦の浦、といったらしい。
とすると、もともとは、海辺の、名前だったのだろうか。
一説によると、生貝の剥き身、なまむき、生麦、となった、ということだ。
近くの、海辺には、今も、身を剥がした、貝殻が、あちこちに、あるらしく、おそらく、その説は、妥当、なのだろう。
でも、では、なぜ、貝殻を、貝塚のようにせず、海岸の、あちこち、撒いたのか、あるいは、貝の剥き身を、「なまむき」、と呼ぶものなのか、わからない。
生麦の旧道、細い道を、西へと、歩く。
(2012年5月記)

京浜急行線生麦駅(生麦駅前通り商友会)

2013-03-12 06:09:35 | Weblog
京浜急行の、各駅停車は、空いている。
沿線自体、閑散としているからなのかもしれない。
横浜駅を、過ぎ、しばらくして、生麦駅。
街並みは、京急鶴見駅前に、似ているかな。
京浜工業地帯の、下町。そういう感じがする。
かつて、工業地帯が、盛況だった頃は、ずいぶん、繁華だったに違いない。
高度成長を、達成すれば、工場は、それほど、いらなくなる。
それでも、景気が、よければ、それなりに、命脈を、保っていたのかもしれない。
ただ、バブルが、崩壊してしまうと、それも、なくなってしまう。
そこへ、都心への再開発の集中、駅前の再開発、等が追い討ちをかけ、閑散とするばかり。
どこも、下町は、同じなのだろうけど。
商店街、南へと、歩いてみる。
(2012年5月記)