retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

副都心線雑司が谷駅(南池袋2丁目A地区再開発工事現場)

2012-09-20 05:28:20 | Weblog
雑司が谷の地名について、もう一つ。
雑司が谷は、台地なのに、なぜ、「谷」、なのだろう。
ちなみに、江戸名所図会を、見ると、清立院のある、崖の下には、川の流れ。
かつては、弦巻川、という小川が、流れていたようだ。
いちおう、一帯は、台地なのだが、今も、流れの跡、はっきりと、わかるほどの、谷地が、そこには、残っている。
この谷が、雑司が谷、なのかな。
ところで、弦巻川は、今の、池袋駅の、南西側あたりから、流れ出していたらしい。
弦巻川が、雑司が谷、という谷を、穿っていて、それが、雑司が谷、という地名になったとすれば、今の、池袋駅は、雑司が谷、ということになる。
実際、明治時代初め頃の、地図を、見ると、今の、池袋駅は、雑司が谷、となっているし。
西へ、向かい、途中、北西へ。池袋駅へ、向かう。
池袋の方へ伸びる、幅広の、道路が、工事中。その道路を、歩いていく。
しばらくすると、その、工事中の道路の、西側に、南池袋2丁目A地区再開発工事現場。
いつの間にか、雑司が谷が、池袋になっていくようだ。
将来は、どうなるか、わからないけど。
さて、もう、帰ろう。
池袋駅に向かって、再び、歩きだす。
(2011年12月記)

副都心線雑司が谷駅(南池袋四丁目 清立院)

2012-09-19 05:07:31 | Weblog
こういう台地を、歩いていると、日当たりがよくて、気持ちいいものだ。
それが、山の手たる、所以なんだろうけど。
ところで、地名の、雑司が谷、というのは、どういう意味なのだろう。
はっきりしたことは、わからない。
考えてみるしかないようだ。
「雑司」の「司」は、一般的に、役所、官職、を指す。
「雑司」の「雑」は、雑務、ということか。
とすると、「雑司」は、雑務をこなす、官職、かな。
なぜ、それが、地名になるのか、見当がつかないけど。
ひょっとしたら、近くに、関所があることと、関係するのだろうか。
やはり、わからない。
などと、考えながら歩き、途中、東へ。
住宅地の中に、入っていく。
しばらくすると、北側、崖上に、清立院。
創建は、鎌倉時代らしい。
近くを、鎌倉街道が、通っているので、それだけ、古いのだろうか。
(2011年12月記)

副都心線雑司が谷駅(雑司が谷駅入口)

2012-09-18 04:15:57 | Weblog
坂を上りきると、開けた、台地。
そこを、東西に、目白通りが、伸びている。
目白通りを、渡り、さらに、北へ。
いちおう、台地の上なので、山の手なのだろう。
ただ、東側の、目白よりも、ちょっと、田舎のような感じ。
昔からの、寺社が多いので、あまり、環境が、変わらなかったのかも。
そんな、田舎びた中、北へ、歩いていくと、道路東側に、忽然と、地下鉄の駅、入口が、現れる。
副都心線の、雑司が谷駅だ。
そういえば、新しく、地下鉄が、開通したんだっけ。
ごく、最近のことだと、思っていたが、もう、いつの間にか、数年、経っている。
まだ、2回ぐらいしか、乗っていないな。
時が経つのは、早いもの。
それはそれとして、地下鉄以外にも、地上部分、北側、池袋から、幅広の、道路が、伸びてくるようだ。
変わらなかった景観も、時代と共に、徐々に、変わっていくのだろう。
再び、北へと、歩いていく。
(2011年12月記)

山手線高田馬場駅(高田二丁目 宿坂通り)

2012-09-17 07:25:56 | Weblog
北へ向かって、上り坂が、続いている。
坂の名前は、宿坂。
単純に、宿が、あったから、ということらしい。
宿、というと、この間、訪れた、品川宿を、思い浮かべる。
だが、はて、こんなところに、宿場町なんて、あったのだろうか。
想像も出来ないな。
それもそのはず。
あったとすれば、鎌倉街道の宿。
だから、かなり、昔のことなのだ。
しかも、宿だけでは、関所も、あったらしい。
むしろ、関所が、あって、それに付随して、宿が、あった気もする。
いずれにしろ、江戸時代にあった、宿場とは、様相が、違うのかも。
ひょっとしたら、東西に伸びる、神田川の、谷地が、天然の濠、と見立て、関所を、築いたのかな。
ただ、今となっては、どのような、宿、関所、だったのか、昔のことなので、わからない。
そんな、坂を、北へと、上っていく。
(2011年12月記)

山手線高田馬場駅(高田二丁目 金乗院)

2012-09-16 07:10:36 | Weblog
北へ、進んで行くと、細い道の、西側に、金乗院。
創建は、江戸時代の前、戦国時代の頃か。
とすると、一帯の、開拓は、すでに、戦国時代には、少しずつだが、始まっていたのかもしれない。
江戸時代という、時代の画期が、それを、大きく、後押ししたのかな。
実際は、どうなっていたのか、わからないけど。
話は、変わるが、金乗院について、もう一つ。
境内には、目白不動尊がある。
本来は、ここから、西側、有楽町線江戸川橋駅近くに、あったのだが。
戦災で、金乗院に、移ったということだ。
目白、という地名自体が、目白不動尊に、因んでいるので、もとの場所、目白台の、突端に、いまでも、あれば、それなりに、観光名所に、なっていると思うのだけど。
この場所は、たしかに、目白台と、それほど、離れてはいないが、やはり、雑司が谷、高田、早稲田、だろうな。
なにか、機会が、あれば、もとの場所に、戻すと、いいかもしれない。
北へと、歩いていく。
今度は、上り坂。
(2011年12月記)

山手線高田馬場駅(高田一丁目 南蔵院)

2012-09-15 07:18:17 | Weblog
北へ歩いていくと、すぐに、道路の、東側、南蔵院。
創建は、江戸時代の、初め頃。
おそらく、神田川流域、開拓されて、水田に、なったことと、関係するのだろう。
たとえば、南蔵院の近くには、鏡池、という、大きな、池が、あったらしい。
南蔵院が、創建された頃には、埋め立てられている。
大きな池、といっても、湿地帯、沼地、のような、感じだったのだろうけど。
また、さっき、渡った、面影橋の、南側にも、池は、あったようだ。
こちらも、いつしか、埋め立てれている。
江戸時代に、入った頃、一帯は、広範囲に、開拓され、景観が、大きく、変わったに、違いない。
ここから、下流には、白鳥池、という、もっと、大きな、池も、あったが、こちらも、江戸時代に入って、埋め立てられている。
ただ、どういう経緯で、いつ、埋め立てられ、開拓されたのか、詳細は、わからない。
時代の流れの中に、埋もれてしまったのかな。
細い道を、再び、北へ、歩いていく。
(2011年12月記)

山手線高田馬場駅(高田二丁目 氷川神社)

2012-09-14 04:26:46 | Weblog
面影橋を渡り、北へ。
すぐに、道路の、東側には、氷川神社
創建は、わからないけど、鎌倉街道に、面しているので、たぶん、鎌倉時代、と思う。
あるいは、もう少し、古いかもしれない。
そういえば、もう少し、西側、神田川の上流には、別の、氷川神社がある。
西側の氷川神社を、女体の宮、こちらの、氷川神社を、男体の宮、合わせて、夫婦の宮、というそうだ。
おそらく、その昔、ここらへん、氷川神社を信奉する、集落があって、西側に、勢力を、拡大させたのかも。
あるいは、西側の、集落を、併合したのかな。
当時は、まだ、早稲田田圃もなく、一帯は、広大な、湿地帯。
生業は、どういうものだったのだろう。
昔のことなので、まったく、わからない。
細い道を、さらに、北へと、歩いていく。
(2011年12月記)

山手線高田馬場駅(西早稲田三丁目 面影橋)

2012-09-13 03:35:02 | Weblog
高田馬場駅で下車。
近いと助かるな。
駅東側に出て、そのまま、早稲田通り、西へ。
坂を、上っていくと、やがて、南北に伸びる、明治通りとの、交差点。
明治通りに入り、北へと、進む。
今度は、坂を、下っていく。しばらくすると、東西に伸びる、幅広の、新目白通りとの、交差点。
その交差点を、東に曲がり、新目白通りを、そのまま、東へ。
すぐ、北側には、神田川。一帯は、神田川の、谷地になっている。
かつて、早稲田田圃が、広がっていたようだ。
程なくして、北へ。
そのまま、北へ、進んで行くと、神田川に、架かる橋、面影橋。
ずいぶんと、情味のある、名前の橋だな。
この、名前に関して、いろいろな、伝説があるものの、伝説は、伝説。
実際は、わからない。
ただ、面影橋、昔は、鎌倉街道が、通っていたことは、事実。
古くからの、生活の、積み重ねが、このような、名前を、産んだのかもしれない。
(2011年12月記)

京浜急行線北品川駅(北品川駅ホーム)

2012-09-12 06:09:29 | Weblog
北に、歩いていくと、京浜急行北品川駅がある。
品川駅の南側だが、北品川駅。
これは、品川宿の、北側、という意味だろうか。
そういえば、もともと、鉄道の駅は、たいてい、昔の街の、外れに、設置され、品川駅の場合も、北側の、外れ。
実は、京浜急行北品川駅も、開業当初は、品川駅だったらしい。
最初っから、外れに、設置されるので、特に、「北」、などとは、付けなかったのだろう。
ところが、京浜急行の、品川駅は、しばらくして、北品川駅に、名前が、変わる。
ひょっとして、町名が、北品川、ということで、北品川駅、になったのかもしれない。
だとすると、最初から、北品川駅、なのだが。
結局、品川駅から北品川駅へ、名前が、変わった、経緯については、わからない。
ちょっと、考えてみる。
北品川駅に、名前が、変わったとき、京浜急行は、現品川駅に、延伸している。
そのときの、現品川駅の、駅名が、高輪駅。
ひょっとすると、北品川、高輪、という方が、自然だったのかもしれない。
その後、高輪駅は、品川駅、になった。品川駅に接続しているので、便宜上、そうなるのかな。
だが、北品川駅は、名前が、そのままに、残ったのだ。
とくに、どこかの路線と、接続しているわけでもないので、駅名を、安易に、変えるわけには、いかなかったのだろう。
実際、どうだか、わからないけど。
さて、もう、帰らなければならない。
北品川駅で、京浜急行へ。品川駅経由で、帰ることにする。
(2011年12月記)

京浜急行線北品川駅(北品川一丁目 善福寺)

2012-09-11 05:05:19 | Weblog
法禅寺の北側には、善福寺。
こちらの、寺院も、古い。
創建は、鎌倉時代。
そういえば、当時、目黒川河口には、品川氏、という、武士団が、いたようだ。
名前は、土地の名前からだろう。
もともとは、品川湊が、あったのだ。
ただ、その痕跡、というと、どうなっていたのか。
たしかに、古刹は、こうして、残っている。
でも、その後、江戸時代になって、東海道が開通し、品川宿が、開設されて、埋もれてしまったようだ。
歴史が、地層のように、折り重なっているのだろう。
ひょっとすると、江戸時代の、東海道や、品川宿、だけではなく、それ以前の、品川湊が、どんなものだったのか、わかると、面白いかもしれない。
歴史的テーマパークとしても、興味深いかも。
東に向かい、また、旧東海道、今の、北品川本通り商店会に、戻る。
(2011年12月記)