retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

品川グランドコモンズ(品川グランドセントラルタワー)

2006-12-21 21:21:32 | Weblog
さらに南側に品川グランドセントラルタワーが聳える。
品川駅東口からペデストリアンデッキでそのまま品川グランドコモンズ、品川インターシティに向うと、この2つのビル群の間にできた空間にいつの間にかすっぽりと入り込んでしまう。(この空間の地上部分はセントラルガーデン)
まるで巨大な建築物の吹き抜けのような空間だ。
この中空に設置された回廊を移動すれば、品川グランドコモンズ、品川インターシティを構成するすべてのビルに行き来できる。
つまり、このビル群全体が一つの建造物であり、ビルはその中の一区画と考えた方がいいのではないか。
この空間に立ってすぐに思い立つのは、未来SFに出てくるコロニーだ。
生存可能な空間を人工的に作り出し、外部とは遮断されている。
では、品川グランドコモンズ、品川インターシティのビル群にとって外部とは何を指すのだろう。
(2006年8月記)

品川グランドコモンズ(太陽生命品川ビル)

2006-12-20 23:13:31 | Weblog
南側に太陽生命品川ビルが聳える。
バブル以降、工場や倉庫などの諸施設が次々と高層ビルに変わっていくのだが、そのうち品川駅東口の南側は国鉄の所有する土地であった。
しかも、その土地の売却が最初のバブルとされている。
国鉄の解体とバブル経済とは、奇妙にシンクロしているとも思える。
別の見方をすると、明治以降の体制を支えてきた国鉄が解体し、そして手放した土地に高層ビルが建った、ということだ。
ここ十数年で、西口の高輪台、白金台の山の手と東口の工場、倉庫地帯の埋立て下町という風景は様変わりし、東口には林のように高層ビルが建ち並ぶことになった。
といっても、駅から少し離れれば(例えば東側の食肉市場や南側の都バス車庫など)まだまだ昔日の面影はあちこちに残っているが。
(2006年8月記)

品川グランドコモンズ(品川イーストワンタワー)

2006-12-19 22:45:07 | Weblog
高田馬場から山手線で品川へ。
東口に出て南側へ。
品川グランドコモンズのビル群が聳える。
一番北側に品川イーストワンタワー。
品川はもともと江戸時代は、今の北品川以南の地名を指した。
明治時代、駅の設置にあたり、町外れを選んだため、現在の場所となる。
よくあることだが、以降、駅前が発展し、品川の中心は(品川区ではないにもかかわらず)品川駅に移ってしまう。
といっても、明治時代以前、山手線の東側は海であり、東口の港南は明治時代以降の埋立地である。
そこには、工場や倉庫などの諸施設しかなかった。
バブル以降、それらの諸施設が次々と高層ビルに変わり、現在に至る。
この高層化の流れは、今のところ、一段落というところかな。
(2006年8月記)

大崎駅西口(Think Park Tower(シンクパークタワー))

2006-12-18 23:01:15 | Weblog
この日は、落雷で山手線がストップしていたのだ。
大手町で都営三田線。三田で浅草線。さらに泉岳寺で西馬込行きに乗り換える。
五反田で下車して大崎まで歩く。
大崎駅の西口へ。
建設中のThink Park Tower(シンクパークタワー)。
江戸時代、この地は品川(現北品川、品川駅の南側)の後背地であり、目黒川の南側の台地が中心であった。
しかも、大崎はもともと目黒の台地の地名(現在の上大崎)であり、駅名に引きづられて、大崎駅周辺が大崎という地名になっている。
明治時代以降は目黒川沿いは一大工場地帯になる。いまでも工場は残っているが。
そして、バブル以降は、その工場が次々と高層ビルに変化して現在に至る。いまもその変化は継続中である。
そんな中、Think Park Tower(シンクパークタワー)は明電舎跡地に建設中ということになる。
(2006年8月記)

大手町(東京サンケイビル)

2006-12-17 11:10:34 | Weblog
北へ歩く。大手町に入ると東京サンケイビルが聳えている。
もとの場所には、高度成長の終わりごろ竣工した、東京サンケイビル新館という高層ビルが立っていた。
そして、その高層ビルを解体してさらに巨大な東京サンケイビルが建った。
そのことからなぜか「焼け太り」という言葉がよぎってしまう。
高度成長が終わり、安定成長からバブル崩壊を経ると、ビルがいつの間にか巨大なものに置き換わっている、というわけだ。
高度成長の真っ只中、同族によるささやかなメディア企業グループが結成される。
フジサンケイグループであるが。
情報の集積と資産運用の集積は親和性があるものと見える。
社会がものづくりから資産運用へシフトしていく過程で、このメディア企業グループは情報産業であるがゆえに同族の手を振り払うように巨大化し現在に至る。
放送事業という国家的枠組みがある限り、このようなメディア企業グループは巨大なままであり続けるだろう。
2005年の波乱は、結局、この権益をめぐる小競り合いでしかなかったということかな。
(2006年8月記)

丸の内オアゾ(丸の内北口ビル)

2006-12-16 22:28:41 | Weblog
永代通りへ出て東へ歩く。
山手線の手前、永代通りの南側に丸の内オアゾ。その北東端に丸の内北口ビル。
高層ビルが密集している様は、品川グランドコモンズと同じだ。
(ただし品川グランドコモンズは一列になっている)
東京駅西口から出て丸の内オアゾを見上げると、圧倒される、あるいは、圧迫感すらある。
最近の巨大なオフィスビルの特徴だが、オフィスの機能だけでなく、商業施設やホテルも含まれている。丸の内オアゾの場合は丸善も店を構える。
これでは近在の、例えば銀座などは生き残れない。月島のもんじゃストリートのような歴史テーマーパークとしてしか生き残れないだろう。
東京駅周辺はこれからもしばらくは巨大ビルの建設が続き集積化も進んでいく。
(2006年8月記)

丸の内(三菱UFJ信託銀行本店ビル)

2006-12-15 21:34:30 | Weblog
さらに北へ歩く。東京駅の方へ。
建設中の新丸の内ビルの北側に三菱UFJ信託銀行本店ビル。
以前この場所には日本工業倶楽部会館があった。
今でもあるのだが、第一生命館や明治生命館と同じく、都市のテーマパークとしてのミュージアムとなっている。
工業の発展を目的とする経済団体の活動拠点であったが、そのビルを覆うようにその上に信託銀行の巨大なビルが聳える。
成熟した国家は、ものづくりから資産運用へ力点が移ったということか。
今の日本を象徴しているのかもしれない。
徐々に丸の内のビルが建て替わっていくのは、社会体制が変わっていくことの現れのような気がしてならない。
(2006年8月記)

丸の内(明治安田生命本社ビル)

2006-12-14 21:33:33 | Weblog
日比谷通りを今度は北へ。
馬場先門交差点の北東側に明治安田生命本社ビル。
手前に保存されている明治生命館がある。
DNタワーの手前に第一生命館が保存されているのと同じだが。)
明治安田生命は、日本最古の生命保険会社の明治生命と同じく日本最古の生命保険会社の安田生命が合併してできたのだが、この合併とその後の混乱は、明治時代に形成された体制が崩壊していく様を象徴しているように思える。
支えるべき足元が、重要文化財という歴史的遺物というのは、都市のテーマパークのうちでミュージアムの機能しか提供していないということだろうか。
それはそうとして、街行く人々が昭和初期の建造物をじかに見れるというのは、よいことだろうと思う。
ただ、その時代が完全に歴史になってしまった、ということも言えるのはないだろうか。
(2006年8月記)

内幸町(みずほ銀行本店ビル)

2006-12-13 21:34:42 | Weblog
東へ歩く。青山通りは赤坂の谷筋に向って下り坂になっている。
永田町駅まで歩き有楽町線へ。有楽町駅で下車。
日比谷通りを日比谷公園の南端あたりまで南へ歩く。
巨大なみずほ銀行本店ビルが聳える。
南西側の日比谷シティのビル群と歩調を合わせるかのように、竣工は1980年代初期である。
みずほ銀行はもとは第一勧業銀行であり、第一勧業銀行は、第一銀行と日本勧業銀行が合併した銀行である。
現在のビルは、そのうち日本勧業銀行があった場所だ。
また、みずほ銀行はほとんどの宝くじを取り扱っているが、もとは日本勧業銀行の戦時債権が起源であった。
一方、日比谷シティのビル群は戦時中の軍による地下施設の再利用のために建設されたらしいが(地下施設はいったん出来上がると、土を入れて埋め戻しても元には戻らないらしい。再利用する場合、駐車場にするか地下鉄にするか、地上に巨大な建築物を作るしかないそうだ)、戦時債権発行の件から見て、みずほ銀行のビルも同じだったのでは、と思ってしまう。
ともあれ、高度成長から安定成長へ移ったこの時期に、戦後の決算をこのような形で行ったしても、納得できる気がする。
(2006年8月記)

赤坂(赤坂ガーデンシティ)

2006-12-12 21:21:12 | Weblog
さらに北へ歩く。薬研坂。いったん谷に下り、尾根となっている青山通りに向って急坂を登っていく。
登りきったところ、青山通り沿いに赤坂ガーデンシティがたつ。
ごく最近竣工した高層ビルだ。
青山通りを挟んで北側には赤坂御用地の緑地が広がり、その東側に豊川稲荷。
西に視線を転じるともう青山一丁目の街並みを見ることが出来る。
住所は赤坂だが、ここらへんは青山に含まれるのだろう。
戦後も終わり、やっと静かになったと思ったら、今度はビルがあちこちに建ち始める。
都心部に残る空白地帯でしかなかったのかな。
すぐ南側には赤坂ガーデンシティよりもさらに巨大なビルが工事中だ。
(2006年8月記)