山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

山形ホテル物語(7)[最終回]

2013-06-11 23:30:52 | Weblog

和風ホテルとしての山形ホテルの明治から昭和初期にかけての界隈の雰囲気は山形城主の重臣屋敷の門前通りのようなものであったと思われる。
それほど風格充分の街並み景観を形成していた。
だが、現在では同じ地所で同じ角度からの撮影ではまったく様相が変わっている。

手前は「ガラスの城」のような大手門パルズ。そして向こう前方には「採算ベース」だけで上へ上へと階を積み重ねただけの街並み景観を大きく乱す高層マンションが並んでいる。
さ~て、大手門パルズという名称の中の「パルズ」の意味がわかる人はどれだけ居るであろうか。この施設内には教育関係団体も入居しているが、センセイ方にだってパルズの意味がわかる人は大半(→「ほぼ皆無」と訂正)であろう。まあ、「先生方の大先生」とでも申すべき、よほどガク(学)のあるお方が命名したのであろう。

山形城三の丸内にあった藩主秋元公の菩提寺「泰安寺」の跡地に和式建築の「山形ホテル」が建てられたのは明治後期であるが、後に山形県教育会の所有となった。さらに昭和2年には敷地の西部分に洋館棟が建てられ、現代山形のシンボル的高層建築となったが、旧泰安寺の庭園はほぼそのまま貴重な緑と親水の空間として残された。
その後、和館はユースホステルとなったが、昭和50年代に洋館とともに解体され、第2世代の教育会館が建てられた。その際に庭園の大半が破却されて駐車スペースとなった。

  ↑ 西北側から見る大手門パルズ

  ↑ 西南側から見る大手門パルズ
そして平成18年には現在のガラスの城のような第三世代の教育会館と労働関係機関が合体した「大手門パルズ」となって現在に至っている。庭園についてはすべて駐車スペースとなり、今は片鱗すら留めていない。[このシリーズはこれにて終了します。]
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