山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

山形市史と縁ある街を訪ねて(15)+放射能難民

2012-07-07 20:11:33 | 旅行、小旅行

 さて、この石造物は何なのか。
 何やら真ん中の部分が緑色で隠されている。
 石鳥居のようであるが、上の部分が見られないから、石鳥居ではなさそうにも思える。
 しかし、左右の背景は神社境内のようでもある。
 下の写真は上下左右を拡大し、かつ真ん中の部分もわかるようにしたものであるが、一層神社の境内のように思えてならなくなる。

 それにしてもこれが神社の石鳥居ならば何で一番上の部分が見られないのか不可解である。
 果たしてこのような形の石鳥居が存在するものなのか?
 さて、一番下の写真には丸太のような石材が横になっているのがわかる。
 これを見ると鳥居の一番上の部分が崩れ落ちたものであるようだ。
 つまり同じ神社の二の鳥居と三の鳥居の一番上の部分が崩れ落ちたのである。
 何とか第一の鳥居は無事だったようであるが、それは昨年3月の大震災による被害の光景である。
 1年以上経過したものの、未だ復興できないでいるのだ。
 ここは福島県の郡山市の中心部にある神社だが、郡山市と言えば原発事故と津波の被害者を受け入れているだけでなく、放射能被害を避けるために山形市などへ避難している市民を多数輩出している街でもある。
 山形の歴史の中でこれほどの他所からの災害被害者が流入したことはかつて無かったことであるし、郡山市の歴史の上でも災害被害者(とは言っても未来に現れかねない放射能被害を予想してのことで、現今の被害ではない)を多数他所に送り出したことはないはずである。
 現実に郡山市内の幼稚園や保育園は悲惨なほどの児童数の定員割れだそうである。
 ただし、ブログ主の視覚に映ったのは放射能被害ではなく、あくまで地震被害であった。

 撮影は4月下旬   このシリーズは今回で終了!
コメント
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