またまたわけのわからない写真を並べて恐縮至極。
左はマンションらしきビルと手前の墓場、左は寺院の門の前に居座るゾウらしき石像。
ネタを明かせば、左は山形市、右は栃木県壬生町の寺院境内である。ただし、壬生町は壬生町でも、前回まで記事で紹介した慈覚大師円仁とは関係ない寺院(曹洞宗常楽寺)で壬生寺からもそう遠くない。
この常楽寺と山形の寺(曹洞宗長源寺)には大きな共通点がある。それはどちらも城主に鳥居氏を迎えていた歴史があるからである。
山形では最上家改易後に鳥居忠政が山が形城主となったが、後継の忠恒に子がなかったために鳥居家は一旦断絶し、保科正之が山形入りする。
その後鳥居氏は再興し、江戸中期に壬生城主となる。
山形の時は24万石の大大名だったが、壬生では3万石。それでも壬生の常楽寺では鳥居氏の墓所はしっかりと守られている。それに対して山形の長源寺の鳥居忠政公の墓の場合は墓石こそ昔のまま巨大だが、今では周囲はすっかり一般人の墓に囲まれ、この墓を拝もうとしても、鳥居公を拝んでいるのかマンション住人を拝んでいるのかわからない気分になるに違いない。
確か以前は忠政公の墓域はもっと広く、幾つか縁者の墓に囲まれていたはずなのだが、近年は「区画整理」の波は墓地にも押し寄せ、忠政公ただ一人の墓だけが淋しく立っているだけになっている。
ところで、壬生の常楽寺の可愛らしいゾウの石像(ゾウゾウなどと読み違えると「最上川の腹下り」のようになってしまう!)はホトケ様の使いということらしく、特に城主鳥居氏とは無関係のようだ。
ああ、壬生町には慈覚大師と鳥居氏の他に、もう一人山形と縁の深い歴史的(というよりは伝説的)人物が挙げられる。
その名は金売吉次だが、彼は源義経の物語に登場する人物で、山形の宝沢地区や両所宮などに伝説が残っている。そして壬生町は彼が京に上る途中で死んだ土地であり、彼を供養する墓も建てられているようだ。