奥羽の地全体を揺るがし、激しい攻防戦のために夥しい流血で染められ、しかも既に戦前に国の史跡となった名高い古戦場でもあり城跡でもありながら、九戸城跡を実際に訪れてみるとまことに平板でただの公園広場のような感じでしかなかった。
ここが凄惨な殺戮の場であったとは信じにくいほどののどかさである。
この城が陥落後、一時だけ南部氏が三戸からここに居城を移したが、さらに盛岡に移ってからは廃城となり、土塀、櫓などもすべて解体され、石垣も崩壊していくのみであったし、東西と北の三方が深い河川で囲まれ、それらに挟まれた河岸段丘の上に構築された平山城であったためということもあり、山城のように平地から一際目立つ景観をなしているわけでもない。
城というと、普通は天守閣や豪快な石垣と人工の堀を連想するものだが、九戸城跡にはいずれも欠如している。だから、古城好きの歴史ファンにとってはさほどインパクトが感じられない城跡なのかもしれない。
でも、ここは岩手県南部の平泉とともに時の中央権力に刃向かいながら滅ぼされた地としての共通点があるのだ。
◆写真説明 A:二戸駅前通り 新幹線も停車する駅だが、何とも物寂しい光景 B:馬渕川 右手前方に九戸城跡 C:九戸城跡の傍で見つけた土蔵 D:近代日本物理学の大御所、田中館愛橘の生家 E:九戸城二の丸入口付近 F:城跡広場での説明絵図 左の市街地のすぐ脇に天然の深堀の馬渕川があるのだが残念ながら描かれていない