鳥人間は基礎物理を教えて帰っていった。今夜も研究室に戻るらしい。
俺は智照の英語を出来を眺めながら明日の岡山の準備、そして邦博(4期生・ノキア・シーメンス)と face book 越しにチャットをしていた。
19年前の春、邦博は立命館大学文学部中国語学科に入学した。決して生涯の記憶に残るような快心の入試ではなかったはず。受験直前には友人の死というイレギュラーもあった。揺れ動く心を抑えながらの受験だった。
邦博が京都に旅立つ日、親父さんはコタツの上に敷く板を渡したと、お母さんから聞いた。「先生、ウチのお父さんはね、学生時代は人から『マムシの奥田』と恐れられるほどにマージャンをしてたんですよ。だからね、大学生になったらマージャンしろって渡したんですよ」 嘆いているお母さんには申し訳ないが、我が意を得たり・・・心の中で拍手をした。
何度も言うが、邦博の受験は快心の出来ではなく、入学したものの、すんなりと卒業を目指すかどうかが心配だった。そんな一抹の不安を抱えた生徒がいると、俺は下宿を訪ねることにしている。俺は京都は花園駅の近く、邦博の下宿を訪ねた。鮮やかな記憶は今となってはない。セピア色に彩られた記憶・・・ただ、日差しがやたら強かったことだけは覚えている。
初代のエスティマで丸太町通りに面した下宿に到着。コンビニの上、音楽が流れる快適そうなアパートだった。部屋にはお母さんから聞いていたコタツの板が洋風のテーブルの上に敷いてあった。オシャレなレイアウトのなかに唯一の昭和・・・違和感、苦笑しきりの俺は邦博に近くに質屋はないかと尋ねた。その質屋を訪ね、俺はマージャン牌を買った。それは、その夜の宿泊料代わり。
大学卒業後、某建設機械大手から外資系、さらに外資系と・・・大学在学時から外資系で自分を試してみたいとの発言をなぞるように、邦博の社会人生活は始まった。後に立命館大学に社会人入試で入学、日本美学の次の時代を切り開く逸材と言われた大西君(研究者)が言う、「邦博を見ててね、ひょうひょうと外資系を渡り歩いていく・・・ああ、こんな新世代のタイプが京都の片田舎の立命館大学から出てきたんだなあって感慨、ありましたよ」
あれから19年、再び俺は邦博んとこにやっかいになる。今度はマージャンマット持参。邦博のおねだりにしてやられた感はある。・・・先生、マージャン牌はあるけど、マージャンマットはないよ・・・邦博からのメールだ。なにせ、邦博のマンションの来客用の部屋はやたら広い・・・5人はゆうに寝られるらしい。
土曜日の夜、邦博は翌日ゴルフらしいけど深夜2時くらいなら耐えられるはず、新宿の飲み会から邦博のマンションまで流れてマージャンを打てる人、募集中。
メールで邦博が住所を教えてくれる・・・検索・・・いやはや便利・・・駐車場を借りてくれてるらしい、やっぱ、プリウスか・・・! 邦博のマンション、品川から歩いて10分ほど、海岸通り沿いってか。どうやら165号沿いとは台風とそよ風ほどの違いがありそうだ。
あれから19年・・・少しばかし、泣きそうになる。