から揚げが好きだ。

映画とサウナ。

ストレイト・アウタ・コンプトン 【感想】

2015-12-31 09:00:00 | 映画


2015年映画の見納めとなる「ストレイト・アウタ・コンプトン」を観る。北米公開時での絶賛評を見て、日本公開を楽しみにしていた1本。とはいえ「ブラックムービー&ヒップホップムービー」という、とっつきにくい先入観は拭えなかったが、観てみたらとても面白い映画だった。昨年公開の「ジャージー・ボーイズ」を彷彿とさせる内容だが、キャラクター描写の濃密さ、テーマのスケールと多様性、嘘みたいな実話ストーリーの劇的さ、といった点で一線を画す。2時間半という長尺があっという間だった。

1980年代に結成され、その後、多くのヒップホップアーティストに多大な影響を与えた伝説のグループ「N.W.A」の伝記ドラマ。メンバーの結成に至るまでの経緯から、グループの中心的なメンバーだった「イージー・E」が亡くなるまでの十数年間が描かれる。映画タイトルの「ストレイト・アウタ・コンプトン」は彼らのファーストアルバムの名前だ。

ヒップホップという音楽については、ダボダボの服を着て「ヨッヨッヨッ、チェケラッ!!」と言っている人くらいのイメージしか持っておらず無知であった。なので「N.W.A」という言葉も聞いことがなかったし、そのメンバーの中に俳優としてのイメージしかないアイスキューブがいたという事実にも驚いた。本作を観て完全にナメくさっていたなと反省する。

彼らが生まれ育ち、「N.W.A」の音楽の土台となったのはロサンゼルスの下町「コンプトン」だ。80年代のコンプトンは日常的に銃声が鳴り響き、ギャングが幅を利かせ、麻薬売買が横行しているような治安の悪い町だった。当然、警察とのいざこざも絶えない。中には犯罪に手を染めず、真っ当に生きる人たちもいるのだが、黒人差別も根強かった当時にあって、警官たちは黒人の若者を見つけては取り押さえて、暴力を与え屈辱を浴びせる。そんな日々の不条理を訴える「ストリートのジャーナリズム」として起こったのが、彼らのヒップホップだ。

権力への抵抗、あるいは言葉による正義の鉄槌。
「正義」という言葉は適当ではないと思うが、あえて使いたくなる。彼らの代表的な歌詞として多用される「Fuck The Police」。権力の象徴ともいえる警察を名指しし、過剰な言葉で責め立てる。彼らの私的な鬱憤を晴らすための音楽とも捉えられなくもなかったが、重低音のビートに合わせた鮮烈な歌詞とそのメッセージ性は瞬く間に人種の壁を越えて人々に受け入れられていく。その一方で反社会の煽動として警戒したFBI(国家)が、彼らを監視する事態にも発展する。いやはや凄い話だ。

N.W.Aが、その時代に与えた影響もさることながら、無名の若者たちが音楽界のスターダムに駆け上がる青春ドラマとしても見応えがある。境遇の異なるメンバーの運命的な出会い、試行錯誤の中で音楽を作り上げていく喜び、華々しい成功と手にした富と奔放な快楽、利害関係の摩擦による確執、メンバー離脱後の明暗、月日を経て実現した和解、そして永遠の別れ。。。。光と陰のコントラストが強烈だ。小説でも描けやしないだろうという、驚きの実話が語られていく。

なおかつ、本作は80年代の熱気とダイナミズムを再現することで、ドラマをよりスケールアップさせている。今の時代もあるのかわからないけど、音楽で成功すると無条件に女子が付いてくる。ライブ終わりはグルービーとの乱交というルーティンである。エンドロールでも当時の映像として流れる「濡れ濡れパーティ」(笑)が凄い。半裸姿のおびただしい数の美女たちをはべらせ、手当たり次第に女性を漁りまくる。男子にとってベタ過ぎる天国の情景が成功の報酬として存在したのだ。中でも「イージー・E」は無類の女性好き&避妊をしないキャラとして描かれており(実際もそうだったらしい)、その代償を命で払うことになる。

こうした彼らの私的な部分だけでなく、「N.W.A」の活動とリンクするように、当時大きな話題となった黒人迫害の事件や、それによる大規模が暴動事件などの社会問題が丁寧に描かれていたり、音楽業界の知られざる(当時の)内幕が赤裸々に語られていたりなど、伝記ドラマとしての枠を越えたストーリーになっている。

主要キャストは皆、初めて見たような無名に近いキャストばかりだが、もれなく素晴らしい好演をみせる。そして、「N.W.A」のマネージャーを演じたポール・ジアマッティが、これぞ助演という味わい深いパフォーマンスで主要キャストたちを支える。

日本公開が危ぶまれた本作だったが、ライブシーンの迫力も含めて劇場で観られて良かった。

【70点】

最後に、年末とあって劇場は大混雑していた。家族連れで来ていた少年が「スターウォーズ」のパンフを親に買ってもらっているのを見て、久しく元気のなかった洋画が盛り返してきたのを実感した。実際に今年は永らく続いた「邦高洋低」がようやく逆転する模様。その功績の多くをシリーズものが占めていて、個人的には「スターウォーズ」を除いて、どれも期待値を上回るものではなかったけど、洋画ファンとしては嬉しい傾向だ。一方、邦画は相対的に元気がなかったかも。テレビドラマ映画の終焉を歓迎すべき契機としてリフレッシュされてほしいと思う。
2015年は映画の大豊作の年でした。ありがとうございました。
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モーツァルト・イン・ザ・ジャングル シーズン1 【感想】

2015-12-30 09:00:00 | 海外ドラマ


先日発表された第73回ゴールデン・グローブ賞(GG)のテレビの部のノミネート作品。
その顔ぶれを見て目を引いたのが、動画配信サービス会社のオリジナルコンテンツが多く含まれていた点だった。

ネットフリックスの作品は認識済みであったが、amazonプライムの作品も多く「これはチェックせねば」と海外ドラマを目当てに30日のトライアルに加入することにした。

で、まずは自分が好きな俳優、ガエル・ガルシア・ベルナルがGGの主演男優賞にノミネートされたコメディドラマ「モーツァルト・イン・ザ・ジャングル」を観ることにした。

1話30分の計10話。
かなり小粒なドラマだったが、意外なほど面白かった。

物語は、ニューヨーク交響楽団を舞台に、楽団の刷新のために迎えた若き天才指揮者が巻き起こす騒動(?)を描く。

ニューヨーク交響楽団が低迷する楽団を盛り返すために、飛ぶ鳥を落とす勢いでクラッシック界を席巻する若き天才指揮者を楽団に迎える。その指揮者はアルゼンチン出身の「ロドリコ」。型にハマることを嫌う破天荒な男であるが、本物の音楽を追求することに人生を捧げる本物の音楽家だ。自己中心的な側面は思いのほか薄く、彼の入団によって追い出された大御所の元指揮者への敬意や、楽団員たちへの思いやりも忘れない。ロドリコのやり方に最初は戸惑う楽団員たちだが、彼の音楽に次第に魅了されていく。「音楽の魅力っていったい何?」という本質な問いに対する答えの一端が、ロドリコのスタイルから見えてくる。これが何とも痛快で、時に感動的なのだ。

本作の主人公はもう1人いる。ニューヨーク交響楽団への入団を目指すオーボエ奏者の女子「ヘイリー」だ。プロ並みの腕を持つ演奏家であるが、ニューヨーク交響楽団は一流の中の一流でソリストたちの集団みたいな超ハイレベル。長く在籍するベテラン奏者も多く、入団するのは至難の技だったが、オーディションでの偶然がロドリコと彼女を引き合わせ、彼女が奏でる音楽から情熱を見出したロドリコは、彼女を楽団予備員という名の小間使い役にする。スペイン語訛りのため、「ヘイリー」とは呼べず「ハイライ」と呼び(笑)、ロドリコに振り回されるヘイリーが可笑しい。ニューヨークで懸命に夢を追うヘイリーの姿は、ニューヨークの象徴的な姿にも映る。高い家賃、高い物価の中で、その日暮らしを何とか真っ当するために懸命に働く。そんなヘイリーみたいな夢追い人たちがたくさんいるのがニューヨークなのだ。

描かれるのは楽団の知られざる内幕だ。それは楽団員たちの私生活に及ぶが、やはり音楽から離れられない。音楽とセックスを密着したものと捉えた解釈が面白く、下世話なエピソードも多く盛り込まれている。チェロ奏者であり、楽団員の代表となる妖艶な女性「シンシア」が物語の良いスパイスとなっており、「情婦のごとく」(笑)、男たちを手玉にとる魔女っぷりがエロくて堪らない。

ロドリコ演じるガエル・ガルシア・ベルナルがまさかのハマり役。作品を追うごと縮んでいくように見える低身長が残念であるが、文字通りの天才音楽家をカリスマ性たっぷりに演じて見せる。そして、本作で初めて見たヘイリー演じるローラ・カークが最高に可愛い。彼女を観るために視聴を続けるといっても過言ではない。綺麗なルックスなので黙っていれば冷淡に映りがちなのだが、「はい、マエストロ(ロドリコ)!」と、無理難題を押し付けるロドリコに必死に食らいつき、自らの夢のために奔走する彼女が健気で愛おしくなる。

「使い倒してこそ楽器」など、お高く止まった印象しかなかったオーケストラも、実はずっと身近な音楽であることに気付かされる。多少なりともデフォルメされていると思われるが、オーケストラという設定を使って、ここまで軽快で上質なコメディドラマに仕上げたのは凄い。来年のリリースのシーズン2に向けてamazonプライムを継続しようか迷い中である。

【70点】

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クリード チャンプを継ぐ男 【感想】

2015-12-29 10:00:00 | 映画


問答無用の傑作。
本作は「ロッキー」映画のスピンオフにあらず。「ロッキー」の魂を継承した堂々たる本流の誕生だ。本作が生み出されたことに強い運命を感じてしまう。試写含めて2回目の鑑賞。高揚感に支配された1回目よりも、あらすじを承知のうえで観た2回目のほうが感動が深く涙が止まらなかった。
年末に差し掛かり、そろそろ2015年映画の総括というタイミングで一気にまくられた。

物語はロッキーのライバルであり親友であった「アポロ」に「アドニス」という隠し子がいたという設定から始まる。物語の視点は最初から最後まで主人公のアドニスにある。幼い頃に母を失い、身寄りがいないまま、施設をたらい回しにされていた少年時代。そんな不遇の少年がボクサーとして大成する話と予想するが、その直後であっさりと覆される。少年アドニスはアポロの本妻メアリーに引き取られるのだ。その後の成長過程は省略されるものの、おそらくは裕福な生活を送り、メアリーから息子同然の愛情と高等教育を受けたのだろう。成人となったアドニスは他人を思いやることができる精神をもち、金融会社で出世街道を辿るデキる男になっている。主人公は不自由のない優等生として描かれていた。まさかの変化球。

しかし、アポロから受け継いだファイターとしてのDNAはアドニスの中で強く脈打っていた。ビジネスマンとして活躍する息子を誇りに思っていた母に隠れ、アドニスはメキシコの地でボクシングの余興試合に参戦し続けていた。自分の父が偉大なチャンプ、アポロであったことは認知済みであり、父への憧れ、もしくは父の陰を消し去るために順風満帆であった生活を捨て、ボクサーとして活きる決意をする。そして、ボクサーとして成長を遂げるため、父アポロを最も知る男、ロッキーの元に訪れるのだ。

本作はアドニスのドラマであり、ロッキーのドラマでもある。アドニスにはロッキーが必要であり、ロッキーにもアドニスが必要だった。ボクシングの世界から完全に離れたロッキーが、アドニスのトレーナーを引き受けたことに必然性を感じる。アポロの死に大きく関わっていたロッキーにとって、その息子は特別な存在だったはずだ。アポロの死に「あんたは良いことをした。アポロ(父)の信念を守ったのだから」と言うアドニスに対して「いや、アポロは今のお前と話したかったはずだ」とロッキーは応える。しかし、ロッキーの動機はアポロへの負い目だけではない。「ボクシングはアホがやること」と自分の子どもにボクシングをさせることを避けていたロッキーだったが、ボクサーとして自分が果たした夢を、誰かに繋げたいという願いがどこかにあったのではないかと思う。

本作は映画「ロッキー」の大ファンであったライアン・クーグラーが長年温め続けてきた企画だ。彼はまだ29歳で(その事実に驚愕だが)、ロッキーのリアルタイム世代ではなく、昔から何かに挑戦するタイミングで「勇気を与えるもの」として父から半強制的に見せられていた映画だったという。ロッキーから多くの影響を受けてきたクーグラーは、ロッキー映画のスピリットとボクシングという競技の魅力を次世代に伝えたいという強い想いがあったに違いない。その想いは本作で見事に結実した。それもスポーツ映画の新たな金字塔としてだ。それは言い過ぎだとしても、少なくともこれ以上の内容でロッキー映画の継承はなかったと思える。

ロッキー・バルボアという男の造形・魅力については、スタローン本人よりもクーグラーはよく理解しているように思えた。本作で描かれるロッキーは、ファンがもつロッキーの理想像から外れていない。他者への敬意を忘れない人格者であり、愛の深さと愛がもたらす力を知っている。そしてボクシングが人生に与えるあらゆる可能性を熟知しているのだ。老齢を迎えたロッキーの心の豊かさが本作でよく表現されている。フィラデルフィアの英雄として、今でも「チャンプ」と町の人々から愛されているのが嬉しい。「女は足にくる」の名(?)セリフの数々や鶏の追いかけっこなどの多くの過去作からの引用に加え、自然体のユーモアを盛り込みつつ、ロッキーをチャームを引き出してくれる。

一方、主人公のアドニスもロッキーの継承者に相応しく実に魅力的なキャラクターだ。外見は「親の七光り野郎」だが、アドニス自身はその事実を必死に隠そうとする。アドニスの心情を思いやると「クリード」という本作のタイトル、アポロのファーストネームが特別な意味をもって響いてくる。愛人の子どもとして認知されなかった父への恨みか、愛人の子どもとして生まれた自身への羞恥か、はたまた、偉大な父の名前を背負うことのプレッシャー、あるいはアイデンティティーの喪失か。。。今でも十分に捉えきれていないが、おそらくその全てだろう。後者については、ロッキーの子どもが経験してきた感情であり、ロッキーはアドニスを理解し思いやることができる。

アドニスとロッキーの絆に胸を打たれる。それは師弟愛であり、親子愛であり、友情でもある。本作が2人の共闘のドラマとして描かれていることも見逃せない。アドニスがアポロの息子である事実が世に知れ渡り、思わぬ形で世界タイトル戦のビッグマッチが決まる。しかし、それはプロのボクサーとして駆け出したばかりのアドニスにとって勝てる見込みのない試合だ。話題作りのための完全な「咬ませ犬」としてのキャスティングである。奇しくもロッキーがかつて辿った道と同じだ。そんななかロッキーに病魔が襲う。人生を全うしたと治療を諦めるロッキーに対して、アドニスは共に戦うことを訴える。目の前に大きな戦いと挑もうとする若者がいる、ロッキーはその光景を若い頃の自分の姿に重ねたのではないか。アドニスの闘志がロッキーの生きる希望になる。

プレイヤーに肉薄したアクションシーンが圧巻である。編集の妙技を駆使した練習時のスピード感と、みるみるうちに成長を遂げていくアドニスの迫力。アドニス演じるマイケル・B・ジョーダンのキレキレのミット打ちとランニングシーンの美しさにしびれる。完全に触発され、自宅に帰った後、フードを被りシャドーボクシングをする。。。そして何といってもファイトシーンだ。戦いはリングに上がる前のロッカーシーンから始まる。体のアップとスタッフからの鼓舞、リングに上がるまでの道のりで歓声あるいはブーイングを浴び、高らかな紹介アナウンスの後、火花を散らす試合が始まる。その後の試合展開を含め、一連の流れをワンカットの長回しで一気に見せてしまうのだ。圧倒的な臨場感とともに、プレイヤーの緊張感、熱量、疲労感が迫ってくる。こんなファイトシーンは観たことがない。

アドニスの世界戦が始まる直前のロッカーで、サプライズが用意される。それは父アポロの象徴であり、ロッキーに継承されたものでもあった。「自分の伝説を作れ」。否応なしに涙腺を刺激する。しかしその後の試合ではアドニスは劣勢に立たされる。大方の予想を覆し大健闘するも相手が当然強いのだ。セコンドについたロッキーが、アドニス自身に選択をさせるシーンが印象的だ。ロッキーの勝利への執着ではなく、ファイターとしてアドニスを認めているからだ。「俺のためでも父のためでもない。お前のために戦え。」ロッキーの言葉が胸に迫る。

そして、アポロのDNAが覚醒し、ロッキーの魂が受け継がれる瞬間が訪れる。その瞬間、これまで一切頼られることのなかった、あのメロディーが流れる。全身に電流が走り、涙があふれる。

クーグラーはボクシングを愛しているようだ。長回しによる効果だけではない。逃げ場のないリングの上で、拳を交える2人のプレイヤーの間にしか流れない空気を見事に捕らえてみせる。相手にダメージを与えて、相手からダメージを受ける。闘志をぶつけ合い、その力が互いの肉体に刻まれていくのだ。試合が終われば、互いの力を認め合い、健闘を讃え合う。その根底には美しいスポーツマンシップが流れ、本作でもそれが感動的に描かれる。試合後のインタビューシーンもまた素晴らしい。

クーグラーの前作「フルーツベール~」では、社会問題となったテーマを悲劇の物語として終わらせるのではなく、主人公の日常の中にあった家族、友人、出会う人々たちとの輝ける時間を鮮やかに映し出してみせた。本作は全くジャンルの異なる映画だけれども、あらゆるキャラクターたちの視点に寄り添い、丁寧な演出によってそれぞれのドラマを引き立たせることに成功した。その手腕は見事というしかない。本作はしかも、神話的映画の継承という大きな挑戦でもあり、それに完全勝利してしまった。この映画の完成度でまだ29歳という若さ。。。今年の傑作「セッション」を監督したデミアン・チャゼルしかり、アメリカ映画界における才能の泉は底が知れない。

「フルーツベール~」での主演に続き、クーグラーと再タッグを組んだ主演のマイケル・B・ジョーダンの真摯で誠実な演技が光る。どこか愛嬌と感じさせる柔和さと知性を感じさせる端正を併せ持つ顔立ちだ。そして、本作の役作りと思われる鎧のような筋肉が凄まじく、それを最初に目撃する冒頭のシーンで一気に掴まされる。現代っ子らしい軽やかさと、恋人に熱を上げる姿も嫌みなく好演。聴力に障害をもった恋人とのロマンスがまた瑞々しくて非常に良い。ファイトシーンにおける熱演は本作にかける彼の情熱そのものに見えた。スタローンと同様に「あの頃は若かった」と本作のシーンが回想シーンとして、未来のキャリアで引用されるのが目に浮かぶ。
そして、ロッキーこと、スタローンだ。これまでシリーズの製作に携わってきた彼が、その作品の評価が高かったとはいえ、まだ一本しか映画を取ったことがない若手監督の企画に乗り、映画を託した英断にまず拍手を贈りたい。彼の演技力というよりは、これまでの長いキャリアで培われてきた円熟味が、ロッキーという自身の象徴ともいえるキャラクターでいよいよ発揮されたという印象だ。ロッキーの言葉が強い説得力をもって響く。本作はスタローンにとっても奇跡的な出会いであったといえるのではないか。移りゆくフィラデルフィアの風景を眺め「悪い人生じゃなかった」と呟く。その傍らにいるのはアドニスだ。どんだけ泣かせるつもりかー。

「踏み込め、打ち抜け」。
完全燃焼によって限界を突破した者にしかたどり着けない頂きがある。
その頂きにあるは勝利。打ち勝つ相手は「鏡の前の自分」だ。

忘れがたい一本になった「クリード」。
これからも人生のカンフル剤として見返すことになると思う。

【92点】

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ロッキー・ザ・ファイナル 【感想】

2015-12-28 13:00:00 | 映画


引き続き「ロッキー」の復習。
ロッキーシリーズの最終章。目も当てられない前作の「5」から、鮮やかなV字回復。それどころかシリーズの集大成的な役割を見事に果たす。何度観てもロッキーの美学に感動するなー。「挑戦する人間を止める権利は誰にもない」など、ロッキーの生き様に密着した名言の数々が輝く。

まずタイトルが印象的だ。「ロッキー」ではなく「ロッキー・ボルボア」というフルネームがいつもと同じ調子でスクリーンいっぱいに出てくる。「ボクサーもいつかは人間に戻る」という過去作のセリフのとおり、伝説のボクサーとして知られ、ある意味「公人」として存在したロッキーが、「個人」になったことを示唆する。ロッキーはすっかり老齢となり、引退をしてから久しい。愛するエイドリアンは亡くなり、過去の思い出から離れられないでいる。「過去なんてクソだ」というポーリーとのコントラストが切ない。サラリーマンとして仕事をしているロバートとの間には溝があり、偉大な父に対する息子のコンプレックスと、それを理解しつつも息子を愛し続けるロッキーがいる。公人としてのロッキーは、過去の人でありながらも人々の記憶に深く刻まれており、町に出れば「昔ファンでした」という人に握手とサインを求めれ、ロッキーも嫌な顔せず笑顔で応じる。かつてロッキーが活躍したボクシング界も様変わりしていて、かつて自分がいたヘビー級の試合は黒人選手ばかりだ。移ろいゆく時代の中で、老齢となったロッキーの新たな挑戦は、誰のためでもない自分のためというモチベーションの元にあり、これはシリーズの始発点「1」に近いものだ。
ロッキーの対戦相手となる無敗のチャンピオンにも、ロッキーと戦うべき意味が用意されているのが秀逸。「敗北」(意味が違うが)を教える師としてロッキーが必要だったという構図だ。

錆び付いた肉体となったロッキーが戦う戦術はパンチの破壊力で、アクション演出の進化も加わり、シリーズで一番迫力をもったファイトシーンになったと思う。ラストは判定を聞かずリングをあとにし、観客の歓声に応える姿が美しく、それは同時にこれまでシリーズを愛してくれたファンからの歓声にも応えるかのようだった。

「1」以来の傑作といえるのだけれど、少し残念だったのはスタローンの整形顔だ。眉が異常に曲がっていて無理矢理、肌を引き上げているのがわかる。顔面が普通に怖い。スタローンの見栄ではなく、役作りのためと信じたいところだ。

【75点】
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ロッキー5 【感想】

2015-12-28 12:00:00 | 映画


引き続き「ロッキー」の復習。シリーズの中で観たことがなかった「5」。
「4」がシリーズの「黒歴史」であるならば、「5」はそれを上回る「汚点」だ。かなり酷い。
ロッキーならびに他のキャラは確実に歳をとっているのに、前作からの時間経過をそのまま継ぐストーリーはもはや無理がある。そして、なぜかみんな馬鹿になっている(苦笑)。ロッキーは愛すべき息子をそっちのけにして、どこの馬の骨かわからないデクノボウに熱を上げる。寡黙ながら芯の強かったエイドリアンは、化粧が濃く口うるさいおばさんに変化し「お金なんていらないわ」のセリフが嘘くさい。 加齢による変化が、本作のキャラ描写では劣化に見えてしまう。そして、スタローンの演技下手が露呈し、ロッキーが間抜けなキャラになっている。全体を通じてまるでロッキー映画のパロディーのようで観るに耐えられない。クライマックスにも驚愕する。まさかのストリートファイトで、それもガキんちょの喧嘩に近い。ドンチャンやったあとに、そのままエンディングを迎え、呆気にとられる。本作は観なかったほうが良かったかもしれない。。。
約3年ごとに「5」まで続いたロッキーシリーズであったが、これほどまで綺麗に下降線を辿った映画も珍しいのではないか。中でも5の破壊力は度を越しているけれど。「ファイナル」に続く。
【30点】
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ロッキー4 【感想】

2015-12-28 11:00:00 | 映画


引き続き「ロッキー」の復習。
引退したアポロだったが、ロッキーの活躍を目の当たりにして自分も再び、ファイターとしてリングが上がりたいと渇望する。アポロの場合、脚光を浴びることも大好きであるため、エキシビジョンとして実現するアポロのカムバックシーンは大いに弾ける。しかし、対戦相手が悪かった。人工的なトレーニングによって超人レベルに達したボクサーであり、まさかの事故を起こす。そしてアポロは帰らぬ人に。。。当初「ボクサーも普通の人に戻るべき」とアポロの復活に反対していたロッキーであったが、アポロの意思を尊重してリングに上げる後押しをする。そして試合当日、彼のセコンドととしてアポロをサポートするものの、アポロの危機に対して最期までタオルを投げることをしなかった。この事故とアポロの死は、ロッキーのその後の一生に付いて回ることになる。

シリーズのマンネリが出てきた4作目となる本作で、多くの変更転換がなされる。「3」でも感じた「魅せる」ことへの執着が誤った方向に突き進み、重厚なドラマであったシリーズの足を引っ張る。とりあえず強敵として投げ込まれた挑戦相手はロボットのようで、本来あるべき人格が感じられず味気ない。また、ロッキー本人を「いかにカッコよく魅せるか」という演出が鼻につき、それもチープなので見ていられない。ロシアにわざわざ出向いて練習から始めるクダリも、画的な変化を狙っただけで意味がよくわからない。そして極めつけは、アポロのリベンジを果たしたロッキーの勝利コメントだ。「アメリカとロシア、お互いわかりあえるはずだ!」と、なぜか平和の親善大使になっている。亡き友への弔い合戦という重要な意味をもった試合だったはずなのに、見当違いが甚だしく台無しだ。ここに来てシリーズの歯車が狂った。
「ロッキー」の「黒歴史」的なエピソードであるが、アポロとの友情を語るうえで非常に重要な意味を持つため、時代が戻るなら撮り直してほしいと思う。
【55点】
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ロッキー3 【感想】

2015-12-28 10:00:00 | 映画


引き続き「ロッキー」の復習。
前作にて宿敵アポロとの再戦に見事勝利したロッキーは、その後、破竹の勢いでタイトル防衛を続け、瞬く間に国民的なスターに上りつめる。その不器用さから何度も失敗していたメディア対応にもすっかり慣れ、多くのCM、テレビショーにも出演。これまでにはなかった富と名声を手に入れる。これまでには考えられなかった豪邸も手に入れ、ロッキー一家は勿論のこと、マネージャーのミッキーも小綺麗な身なりになっている。新たな戦いに向けてトレーニングをしようものなら、パーティー仕様で公開トレーニングにしゃれこむ。チャラく浮かれまくっているロッキーに、猛烈な勢いで連勝を続ける狂犬のような若いボクサーが噛みつき、対戦が決まる。ミッキーが亡くなり、麩抜けになってしまったロッキーに手を差し伸べたのは、ロッキーとの死闘によって引退したかつてのライバル、アポロだった。対戦相手を指し「ヤツはかつてのお前のような虎の目をしている」とロッキーに喝を入れる。アポロはロッキーのトレーナーとなり、自身のテクニックを惜しみなく伝授するとともに、失われたロッキーの闘志を取り戻させる。
満ち足りた生活と守るべき家族がいることで、その現状を失うことへの恐怖が出てくる。守りに入り、ハングリー精神をなくしたロッキーに、かつての自分にも重なる(全くタイプは違うけど)対戦相手が登場するあたりは、物語が一周してシリーズの成熟味を感じさせる。スタローンは肉体改造によってボディービルダーのような肉体になっていることにも注目で、「魅せる」ことへの意識も随所に見受けられる。それが余分な力みとなって本来のロッキーの持ち味がなくなりそうな気配があるものの、娯楽作としては普通に楽しめるレベルに留まった。ラストの「再戦」も味わい深い。あと、挑戦者の黒人俳優の人は特攻野郎Aチームの人だったのね。
【65点】
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ロッキー2 【感想】

2015-12-28 09:00:00 | 映画


引き続き「ロッキー」の復習。
物語は前作の試合直後から物語が始まる(このパターンはずっと同じ)。前作で、絶対チャンピオンであったアポロとまさかの死闘を繰り広げたロッキー。試合後、ともに搬送された病院で「本気を出した」のアポロの告白に「引退に悔いなし」とするロッキーだったが、「かませ犬」だったはずの男にまさかの逆襲をくらい、それどころか逆に試合を優勢に進められ、判定に救われたことを自覚するアポロ。世間の目も等しく逆風となり、自他ともに「敗者」のレッテルを貼られ、チャンプとしてプライドを引き裂かれたアポロが再びロッキーに果たし状をつきつける。

パート1で終わっても良かったと思ったが、本作が作られた意義も非常に大きい。パート2以降が作られたことにより「ロッキー」という映画が、「ロッキー・バルボア」の物語であると同時に、「アポロ・クリード」という男の物語になったからだ。逃げ場のないリングの上で1対1で拳を交えるボクシングにおいて、双方の生き様が語られるのは当然であり、その点でアポロという男の生き様はロッキーとはまた異なる魅力を放つ。自身の名声とプライドを取り戻すことがアポロのモチベーションの外見だが、ロッキーとの試合を経て、長い間、金儲けにかまけ、鈍り切っていたファイターとしての闘志が呼び覚まされたのだ。その闘志をぶつける相手は、きっかけを作ったロッキーのほかない。一方のロッキーは、アポロとの死闘により目に爆弾をかかえる。エイドリンは反対するが、ロッキーもまたアポロとの試合で自分を見つめ直す。「お前が女であるように自分はボクサーとして生きることしかできない」というセリフがカッコイイの何の。病に倒れるエイドリアンにロッキーはボクシングどころでなくなるが、愛する男の信念に触れたエイドリアンは満を持して言う「私のために勝って」。ロッキーに火がつく。その直後からのボルテージの上昇が最高。そしてロッキーとアポロ、2人の男の魂が激突する。

パート1の成功を経て製作費が大幅に増えたせいか、余分な演出もチラホラで、中でもエキストラの子どもたちを従えたランニングシーンには興ざめる。パート1がいかに特別だったかを再認識させるものの、2人の男の宿命を感じさせるドラマは見応えがあり、また、パート1で描かれなかった「夢の実現」というメッセージもド直球に響いた。

【70点】
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ロッキー1 【感想】

2015-12-28 08:00:00 | 映画


「クリード」を迎えるにあたり、復習のためシリーズを見直すことにした。なお「5」は見てない。
まず、シリーズのスタートであり最高傑作であるパート1から。

場末の三流ボクサーであった「ロッキー」が、世界チャンプの話題作りのためにマッチメイクされ、タイトルマッチに挑むという話。ロッキーの相手は雲の上のような別次元のボクサーだ。その現チャンピオン「アポロ」との実力差についてはロッキーも最初から理解していて、勝利できるとは考えていない。だけども、ロッキーにはその試合にかける理由があった。敗北することに慣れ、町のチンピラ稼業に成り下がった自分。失ったアイデンティティーと取り戻し、愛する人に自身のプライドを証明するためにそのリングに立つのだ。「リングに立ち続けることができたら」と挑んだ試合でロッキーは文字通り完全燃焼を見せる。その熱源は不屈の魂だ。何度も倒されても立ち上がる勇気に胸が熱くなる。その結末から、サクセスストーリーを超えたメッセージが響く。

30年も前の映画なのけども今観ても色褪せることがない。キャスティング、脚本、演出、音楽、撮影、ロケーション、すべてにおいて素晴らしい。これが1億円足らずの低予算で作られた映画とは思えない。映像特典でのスタローンによる製作インタビューを聞いて、この映画がいかに奇跡的な産物であったことがわかる。当時、役者として不遇だったスタローンが俳優人生を賭けた映画であり、予算不足によるワンテイク撮影の連続に、ゲリラ撮影に近いロケが続いた。投げられたリンゴはロッキーへの応援ではなく、投げつけられたものだったという。そして、あの時代のフィラデルフィアの風景が染み入り、ロッキーの心象風景とも重なる。生卵5個一気呑み、片手ジャンプ腕立て、加速し続けるランニング、ロッキーステップの駆け上がりと、映画史に残る名シーンのオンパレードだ。
そして改めて観て感じたのは、ロッキーというキャラの魅力だ。ボクサーなのに虚勢を張ることはなく、等身大の自分を隠そうとしない。粋なジョークを挟みながら、誰に対してもオープンで紳士的だ。そして愛する女に一途という男気がある。いやはやカッコいい。
ロッキーシリーズはある意味で、本作がすべてのような気もする。やっぱ傑作。

【95点】
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スター・ウォーズ/フォースの覚醒 【感想】

2015-12-21 09:00:00 | 映画


興奮と嬉しさで涙が出た。ノスタルジーに踊らされたわけではない。シリーズに新たな息吹を与え、力強いドラマに昇華させたことに感動したのだ。
10年ぶりとなるSWシリーズの新作であり、壮大なサーガの第7章となる「フォースの覚醒」は、自分のあらゆる不安をかき消し、期待を大きく上回ってくれた。映画としての完成度という点ではシリーズ最高傑作といえると思う。

物語はエピソード6から30年後の話。エピソード6以降、新たなジェダイは誕生せず、ルークが最後のジェダイになってしまったという設定から始まる。帝国軍の残党から「ファーストオーダー」という新たな組織が誕生し、多くの惑星を滅ぼし、銀河にとって新たな脅威となっている。最後のジェダイであるルークはワケあって行方を眩まして久しく、ファーストオーダーに対抗する共和国側の組織、レイア将軍(元レイア姫)率いるレジスタンスは今こそジェダイの力が必要であるとルークを捜索している。本エピソードでは、ルークを探すレジスタンスと、それを阻もうとするファーストオーダーの戦いが描かれる。

「フォースの均衡なくして銀河の平和なし」という本作の前提にある解釈は的を得ており、フォースを軸に語られる本作のストーリーに強く賛同する。フォースにバランスをもたらすのは、銀河の守護者であるジェダイのみであり、ジェダイの復興なくしては銀河に平和は訪れないのだ。しかし、本作ではその肝心のジェダイは現れない。残されたジェダイ(ルーク)を見つけ出す旅の過程で訪れる、運命的な出会いによって登場するキャラクターたちが本作の主人公になる。

砂漠の惑星に住み、生き別れた家族を待ち続ける孤独な女子「レイ」、幼い頃に連れ去られストームトルーパーになったが良心の呵責から脱走し、レイと運命を共にすることになる「フィン」、ルークを探すミッションを将軍から任されるレジスタンス随一の凄腕パイロット「ポー」、そして、フォースの使い手でありながらダークサイドに墜ち、レジスタンスを駆逐するファーストオーダーの戦士「カイロ・レン」。これらの4名が新生スターウォーズの主要キャラといえるが、彼らが想定外に魅力的だった。

本作を観るまでにシリーズを見返してみた。昔観た当時から長い歳月が流れ、その間にいろんな映画に触れてきた。そして自分の映画に対する趣向もずいぶん変わってきたと思う。それが影響したからなのか、旧シリーズ、新シリーズともに当時観たときよりも感動がだいぶ薄まっていた。それは、リピート鑑賞により鮮度が落ちたことや視覚効果の古めかしさもあるだろうが、おそらく一番大きかったのは「スターウォーズ」という絶対的な世界観のもと、そこに生きるキャラクターがその世界観の設定や造形に依存し過ぎていると感じた点にある。そして自分はキャラクターたちにあまりドラマを感じなかった。

わかりやすい展開、わかりやすいキャラクターはファンタジーにウッテツケだ。それはこれまでのスターウォーズにもあてはまると考えていて、それがシリーズの魅力でもあった。しかし、全く異なる映画だけれど「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズに出会い、ファンタジーとドラマが共存できる現象を目の当たりにし深い感動を覚え、ファンタジー映画への見方が変わった。もちろん世界観ありきのファンタジー映画があってもよいし、それが正解な場合もある。しかし、SWシリーズは違うはずだ。壮大な銀河の戦いを描いた映画であるとともに、世代を越えた家族の物語であるからだ。

ドラマとは登場するキャラクターが息をし、自らの意志を持って行動していることが強く感じられることだ。それは、必ずしも観る側の共感を得られなくてもよい。実際に本作でも「いったい何を考えているのだ?」と思われる点も散見される。しかし、これほどまでにキャラクターの内面を観客側に模索させる過去作はあっただろうか。今まで「その他大勢」で括られてきたストームトルーパーを我が道をゆくキャラとして独立させたのが象徴的であり、キャラの造形ではなく、それぞれのキャラクターに人間としての生々しさを与えようとする意図が明確にみえる。

その意図に応えるためには、世界観とのバランスを保ったキャスティングと、それに起用された演者たちの確かな演技が必要だ。そして本作はその試みに見事成功したといえる。少なくとも後者に関してはシリーズ最高の仕上がりであったと確信する(そもそも過去作には演技力は求められていなかったという見方もできるけど)。新キャストを中心に、ガチで演技ができる人を揃えている。新ヒロインとなったデイジー・リドリーの繊細さと強さを兼ね備えた存在感は堂々たるものだし、一番心配していたジョン・ボイエガは喜怒哀楽を嫌みなく自然体で演じられる俳優であったし、オスカー・アイザックは元々どんな役でハマれる巧い人だ。

そして、個人的に一番印象的だったのは、カイロ・レンを演じたアダム・ドライバーだ。海ドラ「Girls」での個性的なキャラや、脇役として出演した映画の過去作をみても、「ダークサイド」なイメージは微塵もなかったのだが、本作で最も難しい役柄を見事に体現していたと思う。カイロ・レンの邪悪さ、未熟さ、傲り、恐れ、迷いといった個性や感情の移ろいがアダム・ドライバーの複雑な表情から十分に感じとられた。ダースベイダーと同様に自身を「悪」と認識しておらず、自身の行いを正義と認識する信念もちゃんと理解しているようだ。クライマックスの鬼気迫る演技がまた最高で、本作のヒールとしてカッコよかった。

世界的に知られる有名作であると同時に、熱狂的なファンをもつシリーズだけに、脚本には相当な時間と労力がかかったことは本作を観る限り想像に難くない。旧シリーズですら感じられた、「ジェダイ」や「フォース」などといったSWならではの概念におけるロジックの破綻は、本作では皆無に等しく、ほとんど隙がない。ドロイドに対して、人格と同様に愛情をもって扱っているスタンスも嬉しい。新キャラドロイドのBB-8は可愛いんだけど、リアクションが器用過ぎるのが少々気になった。

展開にツッコミどころはあるけれど、ストーリーのダイナミズムやスピード感を殺さない許容の範囲だ。全体像がエピソード4に似ている点や、舞台やクリーチャーに新鮮味がない点など気になる点もあるけれども、それらの多くは「こーしてほしかった」などの個人の好みや願望の問題。些細なことだが、カイロ・レンの十字ライトセーバーは奇をてらい過ぎと思っていたけど、カイロ・レンの不確かさの表れであったり、そもそも機能性があったということがわかり納得できた。「ザ・レイド」のコンビがカメオ出演していたのはよくわらかないけど(笑)。

監督としての才覚どうこうではなく、「スターウォーズ」と完全に区別するべき「スタートレック」を監督していたJJエイブラムスが本作を監督することが本当に嫌だった。しかし結果、面白かったので全然OKです。面白くなかったら文句を言いまくってやる予定だったけど、ここまでの映画を見せられては祝福するしかない。前作からほぼ同じリアルタイムの経過で続編を描けるアドバンテージは、前作キャストの出演をはじめ、過去作へのオマージュを描くのに大きな助けになったと思うが、スターウォーズの世界観を崩すことなく、新たなドラマを注入することに成功し、スリリングでエモーショナル、そして痛快な娯楽作に仕上げた手腕は「さすが」の一言。参りました。

そして、何といってもラストのカタルシスだ。魅せ方が憎いのなんの(嬉笑)。「よっしゃーーー!!」と興奮のあまり脳内で絶叫して感涙。「フォースの共鳴によるフォースの覚醒」という新たな解釈を加えたことは大英断だ。大きな拍手を送りたい。あんな気持ちのいいラストはSWシリーズでは初めてのことであり、JJエイブラムスの作家性が活きた瞬間でもあったと思う。

多くの謎と期待を残し、本作は次作のエピソード8に続く。最高のスタートを切ったJJエイブラムスからバトンを渡されるのは、ライアン・ジョンソンだ。傑作のSF映画「LOOPER」の監督であり、神ドラ「ブレイキング・バッド」の中でも、伝説的な神エピソードとして語り継がれる「オジマンディアス」(思い出すだけで泣けてくる。。。)を監督した人だ。いったいどんなスターウォーズを見せてくれるのか。もう期待しかない。

次作への期待が募るが、とりあえずもうしばらく本エピソードの余韻に浸りたい。
フォースに乾杯。

【88点】
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スター・ウォーズ エピソード6 【感想】

2015-12-19 18:00:00 | 映画


引き続き、BDボックスにて再見。
物語のパートは2つ。前作で永久凍結されジャバ・ザ・ハットに献上されてしまったハン・ソロの救出劇と、デススターの再建を阻止するべく、森の惑星エンドアにある帝国軍のシールド発生施設の破壊に向かうルークたちの話。
前作でその弱さを印象づけたルークだったが、なぜか急速に力をつけ、ライトセーバーをもたせれば無敵状態までに成長。ジャバ・ザ・ハットからの救出劇ではこれまでにない活躍をみせる。妹のレイア姫は、ジャバ・ザ・ハットの愛玩物となり、これまたなぜかセクシーな格好をさせられる。「ジャバ・ザ・ハットは人間の女には興味がないはず!」というツッコミは呑みこんでおく。ハン・ソロは無事救出されるのだが、前作に続きレイア姫とのキスがいちいち濃厚で笑ってしまう。砂漠の処刑場の脱出シーンでは、当時にしてはかなりアクションの魅せ方にこだわっているようだが、時代のチープさがどうしても匂ってしまう。
本エピソードの個人的なハイライトは、いよいよ登場する森のテディベアこと「イウォーク族」の活躍だ。といっても、昔見たときはイウォーク族がもっと活躍していたと記憶していたが、改めて見たらそうでもなくてちょっとガッカリ。でも可愛いいのでOK。フォースによって空中浮遊したC-3POを見て、あたふたするイウォークたちに萌える。ストーリー上のハイライトは間違いなく、ダースベイダーとルークの最終対決だろう。「ジェダイになるために対決が必要」と煽る、オビワンとヨーダの考えは全く共感できないが(そんなのジェダイじゃない!)、ルークの「父親をダークサイドから取り戻す」という対決へのモチベーションはスンナリ消化できる。ダースベイダーに「善」の心が残っているという話と、ベイダーの息子への「愛情」は完全に区別する必要があるものの、シリーズにとって最良の形で決着が付いたと思われる。これにて、SWシリーズ鑑賞終了。

新シリーズから旧シリーズの順に観て感じたのは、意外と旧シリーズに馴染めなかったことだ。昔見たときは結構なインパクトがあったのだけれど、映像技術の進歩とのギャップでその古めかしさは否めず、それを愛おしいとも思えない。宇宙船同士のファイトは申し分ないのだけれど、クリーチャーが出てくる地上シーンではチープさが滲む。こうした視覚的な部分もさることながら、ドラマがあっさりしすぎているのも気になる。あまり深く考えることなくSF劇を楽しむというのもわかるのだけれど、シリーズの根底に流れるのは世代を超えた家族の物語でもあるのだ。もう少しエモーショナルに描いてくれれば嬉しかった。逆に、ドラマがしっかり描ければ「ロードオブザリング」のように鬼に金棒な映画になると思う。その点で、昨日から公開された新作「フォースの覚醒」はいかようにでも化けると思う。「スタートレック」を撮っているJJエイブラムスがメガホンをとること自体は今でも気に入らないが、アクションの中にドラマやカタルシスを加えることが巧い映像作家だ。海外レビューの好評価のとおり、良作に仕上がっていることを期待したい。
【65点】
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スター・ウォーズ エピソード5 【感想】

2015-12-19 17:30:00 | 映画


引き続き、BDボックスにて再見。
前作で、デススターを破壊されたダースベイダー率いる帝国軍が、氷の惑星ホスに拠点を置いた反乱軍に反撃をしかけるという話。個人的に旧シリーズの中で一番好きなエピソード。エピソード1~3を見てからだと味わいが変わる。
本エピソードの主役は紛れもなくダースベイダーだろう。フォースの力を使いまくって、次々とヘマした部下を死によって清算させる。その暴君ぶりが素晴らしい。絵に描いたような恐怖政治だ。そんなダースベイダーが反乱軍への攻撃と同じくらいに注力するのは、反乱軍に加勢したルーク・スカイウォーカーを確保だ。ルークはデススターを破壊したA級戦犯であるとともに、自身の息子である。帝国軍の親玉である「シス」はベイダーのDNAを確信していて、その息子のルークをダークサイドに取り込めと命じる。その一方で、ベイダーは息子への愛ゆえにダークサイドで共存することを願っているように思える。このあたりはエピソード1~3までに描かれていた、ベイダーことアナキンの妻への愛が描かれていたからこそ感じる部分であり、昔見た時はそんな感覚はなかった。しかし、当のルークは父と違ってフォースを操るのに時間がかかっている模様。天才的で早熟だった父と比べると、もどかしいほど強くならない。ヨーダの元で修業に励むが、父との才能の差は歴然である。クライマックスでルークとベイダーがライトセーバーを交えるシーンでは、息子の力を試すようなベイダーの姿が印象的である。フォースがテレパシーにも使えるというのも新たな発見もあった。
当時、めちゃくちゃカッコいいと思っていたハン・ソロを今見てみると、そんなでもなく、ナンパな部分が強調されて見える。ガーディアンズギャラクシーの主人公「ピーター」をみたとき「ハンソロっぽいな」と思ってたけど、ハン・ソロの正義感を示す展開が淡泊なので、あまり感情移入できない。「イヤよイヤよ」と言いながら、ハンソロの熱い接吻に応えてしまうレイア姫も妙にエロく見える(笑)。本エピソードでは前作では控えめだった地上戦もしっかり描かれていて満足。トロイの木馬ちっくな戦車の造形が素晴らしく、機能よりもデザインを優先するスターウォーズのセンスが好きだ。
ルークは、ダークサイドに陥る可能性は十分あったわけだが、それを救ったのは自らの意志と仲間たちの絆だ。エピソード1~3にはなかった魅力としては仲間の存在が大きいと実感する。エピソード6に続く。
【70点】
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スター・ウォーズ エピソード4 【感想】

2015-12-19 17:00:00 | 映画


引き続き、BDボックスにて再見。
前作から新たに生まれた銀河帝国の宇宙支配下で、その圧政と惑星攻撃を止めるために宇宙要塞デススターを破壊しようとする反乱軍の戦いを描く。
悲劇の子として誕生したルークとレイアが青年に成長。エピソード1から見ていると、2人が血を分けた双子というネタバレを承知で観る形になる。だけど映画自体はその事実を知らせない前提で作られているので何とも不思議な感じだ。そうとは知らないルークはレイアを見て一目惚れ。正義感と恋の熱から反乱軍の戦いに加わることになる。ジェダイの存在は前作のシスの反乱によって消滅。ルークを見守ると言っていたオビワンは名前を変えて隠居生活を送っているが、すっかりジェダイの頃の記憶をなくしている様子だ。オビワンがR2D2を覚えていないのは少し悲しい。他にも新シリーズから旧シリーズへ、話が繋がらない部分も散見されたが、ツッコむのは野暮というものだろう。
スター・ウォーズのチャームであるハン・ソロとチューバッカがいよいよ登場。やっぱりテンションが上がる。今から40年近くも前に作られた作品。「当時にしては映像が凄い」という見方は作品の評価に関係しない。レーザービームやデジタル映像の粗さ、R2D2のヨチヨチ歩きはやはり気になってしまう(あれはあれで可愛いけど)。しかし、それを補って余りあるのはミニチュアの特撮によって実現された圧倒的なスケール感とディテールだ。アナログの手段を選んだのではなく、その選択しかなかったということだが、それが結果的にデジタルを上回る映像を生み出したいうのは奇跡的。それは同時に優れた映像演出の賜物でもある。そしてメカデザインの完成度だ。ハン・ソロが乗る高速船「ファルコン」をデザインした人は天才。いつ見てもカッコいい。反乱軍の戦闘機も、あの角ばって鋭利なフォルムが堪らない。
ドラマパートはうーん。。。といったところ。養父母を亡くしたルークの反応は淡泊過ぎるし、オビワンのルークへの対応もイマイチのれない。これは、おそらくエピソード1から見ているため、初めて見た当時では気にならなかった部分が見えてきてしまうのだと思う。あんまり考えちゃ楽しめない。エピソード5に続く。
【65点】
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スター・ウォーズ エピソード3 【感想】

2015-12-19 16:30:00 | 映画


引き続き、BDボックスにて再見。
シスの正体が明らかになり、その陰謀によって共和国が崩壊。ジェダイも解体。愛する人を失う恐れから、ジェダイが持つフォースを超えた力を得るためにダークサイドに堕ちていくアナキンの悲劇を描く。旧シリーズの主人公ともいえる、ダースベイダーの誕生秘話といってもよい本作。「愛ゆえにダースベイダーが誕生した」という設定はなかなかドラマチックだ。
何度観ても「アナキンがあっさりシスの言いなりになり過ぎ」という違和感は拭えないのだが、今回はそのスピード感含めてダークサイドの力なのだろうと呑みこんだ。本作と前作の間で描かれていたアニメの「クローンウォーズ」をシーズン5まで見ていたため、オビワンとアナキンとの師弟の決別については胸に迫るものがあった。「弟だと思っていた!」のオビワンの別れのセリフがあまりにも切ない。アナキンのドラマもさることながら、楽しんだのは多くの惑星で繰り広げられる戦争の世界観だ。なかでも、短い時間ながら初登場となるチューバッカのウーキー族と反乱軍の戦いにはテンションが上がった。ヨーダとウーキー族は仲良しなのだ♪宇宙船のデザイン、キャラクターのファッションもオリジナルシリーズに近い形となり、新シリーズのなかで最もスターウォーズらしい章だった。情報量も見応えも新シリーズで最大。面白かった。エピソード4に続く。
【70点】
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スター・ウォーズ エピソード2 【感想】

2015-12-19 16:00:00 | 映画


引き続き、BDボックスにて再見。
元老院議員となったパドメの暗殺未遂の黒幕を追っていくなかで、シスの陰謀が明らかになり、共和国軍とシス率いる分離主義勢力との全面戦争が始まる。エピソード3への橋渡し的な役割が大きいと感じた本章。前作で幼かったアナキンが青年に成長し、パドメへの愛を抑えられないでいる。また、別れた母を想い、母の行方を追うが悲劇が待ち受け、怒り爆発。恐れと怒りがフォースを曇らし、アナキンからダークサイドの匂いがプンプン。
本章の見どころとなるアクションのハイライトは3つ。クローン製造工場での脱出劇では、C-3POとR2-D2が初めてバディらしいアクションを披露。C-3POのユーモアとR2-D2の優秀さを示した冒険劇だ。2つ目は闘技場での脱出劇で、ノーボーダーな人種で構成されたジェダイ軍団の活躍に胸躍る。しかし、ここはもう少しいろんなタイプのジェダイの表情にフォーカスして、多様性のあるジェダイの強さを強調してもらったほうが楽しかった。最後は、ヨーダとドゥークー伯爵の戦い。ドゥークー伯爵に対する「かつてのパダワンよ」のヨーダのセリフにゾクっとする。いつもヨチヨチ歩きのヨーダが圧巻の跳躍アクションを魅せる。フォースの力は偉大だと実感。しかし、あの場面は完全にヨーダがドゥークー伯爵をねじ伏せてほしいところだ(そして卑怯な手を使ってドゥークーが逃亡みたいなシナリオで・・・)。2人の戦いの後半で、ヨーダが落とされる岩盤処理に追われてしまったのが少し勿体ない。
当時アナキン役として、その大抜擢が話題となっていたヘイデン・クリステンセン。良くも悪くも演技、存在感ともに青さが目立つ。前作から引き続きのパドメ役のナタリー・ポートマンは、顔がパンパンで可愛い。アナキンの母親探しのシークエンスでは、まだ無名時代のジョエル・エドガートンを発見!そして、スターウォーズのチャームはC-3POとR2-D2の存在が大きいと再認識する。前作同様、140分という長尺だが、見出してしまうと止まらなくなるSWシリーズだ。エピソード3に続く。
【65点】
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