から揚げが好きだ。

映画とサウナ。

悪党に粛清を 【感想】

2016-06-28 10:00:00 | 映画


レンタル開始1カ月後にようやゲット。北欧男子マッツ・ミケルセン主演の西部劇。シンプルイズベストな1本。面白い。
西部開拓時代、北欧からアメリカに移住してきた男。故郷から呼び寄せた家族が殺され、その復讐のために凶悪ギャングをブッ潰すという話。明確な正義と悪の構図と、情念を説明する余計な描写がないのが良い。言葉にならないほどの悲劇が主人公を襲い、絶望から憎悪へと変換するスピードが観る者を奮い立たせる。正義の元に主人公は突き動かされるが、そう簡単にコトは運ばず、圧政に苦しむ町人たちによって捕えられ、逆に散々虐げられる。カタルシスというのは、それまでのフラストレーションが大きいほどインパクトが大きくなるもので、その算段を織り込んだ展開にワクワクする。観終わって一言、痛快。インディアンによって舌を切られたというギャングの情婦の存在も効いていて、どう転ぶかわからない物語のスリルを増幅させる。まったくセリフはないものの、情婦を演じたエヴァ・グリーンが放つ妖気が素晴らしく、久々の当たり役だ。マッツ・ミケルセンはこのテの闇を抱える男を演じさせれば抜群で何ともシブカッコイイ。一連の騒動の背景にある油田開拓時代への幕開けもさりげなく描かれていて歴史の味わいも残す。
【70点】
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エクス・マキナ 【感想】

2016-06-26 08:00:00 | 映画


まるで白昼夢のような光景が続く。緑の壮大な自然のなかに佇む無機質な研究施設。そこで行われる美しい肉体を持った人工知能との交流。非現実的で幻想的な空間に、人間対人工知能(AI)の情念と疑念がせめぎ合う。スタイリッシュなビジュアルとスリリングなストーリーテリングに引き込まれる。なるほど本作が昨年海外で絶賛された理由がよくわかる。が、なかなか思考力が試される映画で、十分に租借するにはリピートが必要だ。それにしても日本での公開が遅過ぎ&公開スケジュール狭すぎ。

検索エンジンを運営する会社に勤める青年が、社内懸賞(?)に当選し、その会社の社長が暮らす人里離れた別荘に招かれる。その別荘の実体はAIを生み出す研究施設で、主人公の青年は社長の依頼を受け、AIとのコミュニケーションを通して「人と同じ思考力を持つか」を計るチューリングテストを行う。。。。

まず特異なのは、そのAIが人間と同じ肉体を持っていることだ。それも女性という性別が与えられているのがミソ。チューリングテストの目的だけを考えればAIに実体を持たす必要はないはずだが、双方の外見を対峙させることに意味があり、テストの真の目的が明らかになっていく。フェイストゥフェイスの会話において、人は無意識に相手の表情からその人の個性を探ろうとする。相手は何を考えていて、自分にとってどんな人であるのか。その判断において相手の外見は大きな比重を占めていて、先入観として判断を鈍らせることもあれば、相手を知る前のアドバンテージとして興味関心の意識へ繋げる。

本作で登場するAI「エヴァ」は、主人公のタイプの女子だった。相手は命を持たないマシーンであり、テストの対象でしかなかったが、その美貌と知性に主人公は魅了されていく。主人公の感情が流れ出し、エヴァの思わぬ告白に翻弄され、真実の在処がどんどん不透明になっていく。純朴な青年、高圧的な社長、ミステリアスな女子AI、従順な女子AI。たったの4人という登場人物のプロットが見事で、それぞれの思惑を観察する視線が自ずと鋭くなる。密室サスペンスとしても見応え十分だ。

先日、NHKで人工知能の進化を取り上げたドキュメンタリー番組が放送されていて、その内容がめちゃくちゃ面白かった。世界最強の囲碁の棋士がAIにボロ負けした原因について解説されており、そのAIのメカニズムからさらなる今後の進化と人類にとっての危険性(暴走)を示唆するものだった。人間の知能を越えることは勿論のこと、人間を支配することも否定できないことがわかった。本作で描かれるのもAIの暴走であるが、我々と同じ肉体を持った人物像として描かれているため、その暴走の前提にあるのがAIの「感情」の芽生えと捉えられやすい。

現在のAIは自らの意志によって「生き延びたい」などの判断はできない。本作のAIは「検索エンジン」がプログラムのベースになっていて、おそらく人間たちの欲望や好奇心を大量に取り込んでいるはずだ。よって保身のためにエヴァが下した決断にも必然性を感じる。その結末は正直予想できる範囲であったが、そこに本作の狙いはないだろう。先の読めないスリラーとしての位置づけだけでは勿体なく、AIを通して見える人間の存在意義や倫理観についての考察が本作の最大の魅力と考える。しかしその考察を楽しむに至るまでには、もう1回観なきゃダメだ。

エヴァを演じたアリシア・ヴィキャンデルが凄い。硬質で動きの少ない表情のなかに複雑な感情の起伏が透けて見える。そして主人公を惑わすことも頷ける妖艶さが滲み出ている。今年のオスカーで助演女優賞を受賞したばかりだが、本作によるノミネートがあっても良かったのではないかと思う。むし本作こそ相応しい気が。。。社長演じたオスカー・アイザックは本作でもそのカメレオン俳優ぶりを発揮する。役者って面白い仕事だなーと再認識する。従順AI女子とのヘンテコでキレキレなダンスシーンがツボだった。

「スターウォーズ~」など名だたる大作映画を押しのけ、本作がオスカー視覚効果賞を受賞した。その結果は実に痛快だったが、本作の技術力もさることながら、視覚効果の見せ方を含めた演出、ひいては作品力に惚れたアカデミー会員たちが票を入れたものと想像する。「俺たちが受賞して良かったの?」とガチで驚いていた本作スタッフの授賞式での様子が可笑しかった。いやいや文句なしでしょう。

実際に本作のようなAIが日常的に社会に普及するのにはまだ時間がかかりそうだが、AIを人類が支配するという概念は捨てたほうが良さそうだ。人類を助け、人類に新たな可能性を与える、もう1つの人種として共存していくことが正しい選択ではないかと、勝手に想像を巡らす。

【70点】

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ドラマ「火花」 【感想】

2016-06-19 20:00:00 | 海外ドラマ


面白い生き方をする人間を「芸人」と位置づけ、その象徴である「神谷」に主人公の「徳永」は強く憧れる。タイトルの火花はこの2人の関係性を例えたと想像する。しかし、ドラマ版を観て「火花」のもうひとつの意味を感じる。それは漫才そのものである。ボケとツッコミという役割をもった2人の掛け合いによる摩擦が「火花」となって観客を魅了する。

会員数が伸び悩んでいると噂されるNETFLIXが起死回生の一打とばかりに、昨年最も話題をさらった原作本をドラマ化した。TVCMもバンバン流れていることからその気合の程が見える。

原作は既読。NETFLIX内の評価星を見る限り、評価は芳しくないようだが、原作「火花」の映像化としてはこれ以上ない成功作だと思う。自分は原作本よりも感動してしまった。原作者の又吉もお世辞抜きにして本作の出来映えに満足したのではないか。

描かれるのは芸人という生き方だ。原作では徳永と神谷の2人の会話劇が大半を占め、10年近い時間経過と共に「芸人とは何か。お笑いとは何か。」を追い続ける様子が印象として強く残った。おそらくそのまんま映像化すれば2時間くらいで映像化できるボリュームだと思われる。しかしNETFLIXが選んだのは全10話の連続ドラマだった。原作では描かれなかったものの、彼らの背景にあったであろうディテールの深堀や、芸人という職業の「あるある」を盛りつけることが可能になった。そして、その肉付けがとても素晴らしかった。

芸人として成功を夢見る主人公の青春ドラマが中心にあり、同じように芸能界で成功を夢見るミュージシャンの隣人との交流、元バイト仲間で主人公を応援する美容師女子との友情、主人公が所属する事務所との関係、幼なじみであり親友でもある相方との絆、先輩・後輩という芸人界特有の上下関係。面白いヤツが売れるのではなく、客にウケるヤツが売れる芸能界のルール。自分たちのスタイルにこだわるオリジナルの世界観は、玄人に好まれても、観客の最大公約数を取らなければ何の価値も持たない。売れる同期と売れない同期の残酷な背景。一時の話題や勢いに乗っかり、あっという間に持ち上げるも、手を引くスピードも早い芸能界の非情ぶり。。。。

原作よりもドラマ版のほうが、普段テレビを通して身近に感じている芸人たちの裏側のリアルが生々しく描かれている。アメトークなどのバラエティ番組等で芸人たちの逸話を興味深く聞いている自分としては堪らない内容だ。

また、5人の映画監督による演出も見事だ。中でも個人的には5、6話を担当した沖田修一監督の演出がツボだった。人間同士のコミュニケーションに潜む間(マ)をユーモラスに描き出す手腕はやはりピカイチだ。沖田監督ならではの「お食事シーン」もしっかり抑えていて嬉しい。そして何といっても、6話目に用意される「スパークス」の漫才長回しシーンが圧巻だった。観客である聞き手の視点ではなく、笑いの発信者からの視点が貫かれ、ボケとツッコミの激しい応酬によるしゃべくりのダイナミズムを見事に活写。そこには確かに「火花」が見えた。地上波のTVドラマでは絶対にお目にかかれない妙技だ。

本作の成功要因はもう1つ。妥協のないキャスティングである。徳永を演じた林遣都と神谷を演じた波岡一喜は彼らのインタビュー通り、これまでの役者人生をすべてぶつけたような「渾身」の演技をみせる。どっからどう見ても原作の徳永と神谷だった。漫才素人であったはずの林遣都が主人公の成長とともに漫才がどんどん巧くなっていくのがわかる。第10話のクライマックスの漫才シーンに感動の波が押し寄せる。ラストのオチは原作通りだったが、どうにも違和感が拭えなかったその描き方が彼らの名演によって、強い説得力があるものとして落ちてきた。彼らのパフォーマンスを見るだけでも価値がある。ドラマというより映画だ。

そして彼らと共に強い印象を残したのは神谷の相方を演じたお笑いコンビ「井下好井」の好井まさおだ。驚くほど演技がめちゃくちゃ巧い。彼の男泣きシーンにこっちも泣かされてしまった。本作をきっかけに役者としてのオファーが増えると思われる。神谷の相方を演じた「とろサーモン」の村田秀亮も自然体で非常に良かった。吉本が本作の製作に関わっていることがプラスに作用していて、吉本芸人がわんさか出ているが、作品の色を邪魔することなく、むしろ芸人色の濃い吉本芸人を配したことでドキュメンタリーを見ているような空気感を作りだした。

地上波のテレビドラマとは格の違う完成度を見せつけ、さすがNETFLIX作品といったところだが、NETFLIX内の他の海外ドラマと横並びで見てしまうと少々酷だと思う。決定的な違いは作品の引力の強さであり、展開の起伏を前提とした「次の回を早く見たい!」という欲求は低い作品だ。おそらく本作の評価があまり高くないのはそのせいだと思われる。しかしながらそれはドラマの問題ではなく、文学性の高い原作の問題である。原作本が記録的に売れたのはその作品の評価よりも話題性が先んじたからだろう。その意味では映画版でこそ、映像化に適した原作だったのかもしれない。個人的には十二分に楽しめたけど。

【75点】
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デッドプール 【感想】

2016-06-11 09:00:00 | 映画


デップー旋風がいよいよ日本に上陸。北米での絶賛評に胸を高鳴らせていたが、さすがに面白い。但し、予告編で観たまんまの映画だった(笑)。チャレンジングな破天荒キャラをミニマムな世界で自由に泳がせる。とても新鮮な作りだが、少々期待が大き過ぎたみたいだ。ヒーロー映画というよりは新ジャンルであるデップー映画だろう。

ストーリーは想像以上にシンプルだった。癌に侵された男がその命と引き換えに人体実験の対象になる。それはミュータントのDNAを普通の人間の体に注入するというもので、その過程で男は見るも無残な醜い姿に変えられてしまう。結果、超人的な能力(再生能力)を身に付けるが、自分を実験台にした男に復讐のため、そして愛する恋人を助けるために大暴れするという話だ。

オープニングのテロップで、いきなり「おバカ映画の始まりです」と来る。狙いは明白だ。その後も「役立たずの○○」など、製作者クレジットをいじり倒すジョークが矢継ぎ早に流れる。最初はニヤニヤするが、あまりの連打に「笑いを欲しがってるな~」といささか冷める。その調子は最後まで貫かれる。ノー天気で下品で過激。本作は主人公デッドプールの個性にそれが集約される。

デッドプールの動機はすべてパーソナルなものだ。人体実験による展開は「聞いてないよ~」であったが、元はといえば自分から飛びこんでいったことだ。想定していたであろう多少のリスクが、醜い姿に変えられたということで激しい怒りに変わる。元のハンサムな自分に戻してほしいために敵を追いかけまわし、それを嫌がった敵が主人公の恋人を誘拐すると、今度は誘拐された恋人を救出しようとする。恋人との恋愛関係含め、結局は自分のためにしたことであり、他のヒーロー映画とはキャラの位置づけがそもそも違う。なので「ヒーロー像を破壊した」という前評判にあった表現には違和感がある。

それにしてもデッドプールのマシンガントークが止まらない。普段より、ジョークを飛ばしまくっている人にノレない自分は仲良くなれそうにないタイプだ。タクシーの運転手とのクダリも、デップーの無責任な個性を何度も上塗りしているだけのようであまり笑えない。デッドプールの口から直接発せられるジョークの中身よりも、そこかしこに潜んでいる、これまでのヒーロー映画へのツッコミや、映画ネタのイジリがツボに入る。ステレオタイプのヒーローとして登場するコロッサスの存在がデッドプールの個性を一層際立たせる。「赦すことが正義」とデッドプールを諭すコロッサスの配置に、監督の悪意が見えて面白い。

また、デップーと恋人とのラブストーリーがシンプルかつストレートで良い。激しい恋に落ちて、激しい肉体関係で結ばれる。不治の病によって男は去り、女は男を想う。そして救出劇をもって再会し、再び結ばれる。お下劣な作風のなかに純度の高いラブロマンスが展開し、意外にもクラシカルな匂いがする物語だった。「ホームランド」で知的な人妻だったモリーナ・バッカリンがデップーの恋人役を演じていたが、ほどよいビッチ臭が堪らなかった。

アクションシーンは、製作予算の少なさを特殊効果と演出面でカバーしている。アクロバティックでサディスティックなデップーアクションはなかなか新鮮であったが、ドラゴンボール並みのアクションを見せるコロッサスとネガソニックを目の前にしてはスケール感の落差が否めない。デップーと雌雄を決する敵役の個性も、もう少し遊ばせてくれても良かったかも。

普通に面白い映画だったが、小ネタ以外は想像していた通りの映画だった。世界で大ヒットしてくれたので、続編では潤沢な製作費のもと、自由度はそのままに、もっといろんな表情を見せてほしいと思う。

【65点】
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ヒメアノ~ル 【感想】

2016-06-10 09:00:00 | 映画


原作を知らないほうが楽しめる映画だ。
映画はシリアルキラー「森田」を人間性をもったキャラとして描く。過去の背景も丁寧に織り交ぜ、観客の価値観に近いステージまで下ろした印象だ。これはこれで十分面白いのだけれど、個人的には原作のキャラに挑んでほしかった。いろいろと日本映画にはないアプローチをしているのでとても惜しい。逆に、原作にはない脚色で成功している部分もあり。

高校時代に同級生だった「岡田」と「森田」が、1人の女子を巡り再会し、岡田は女子との恋愛に成就し、森田は連続殺人を繰り返していくという話。

古谷実漫画のなかでも正直「面白くない」ほうの漫画だ。なので、原作ファンというわけではない。そんな中でも原作に強く惹かれたのは「森田」の強烈な人物像だ。原作の森田は混じりっ気なしのナチュラルボーンキラーである。映画では学生時代の壮絶ないじめが彼を殺人鬼に変えたように描いているが、原作ではいじめの復讐によって殺人鬼の血が「覚醒」したという解釈が正しい。いじめた相手に対して、恐ろしい自分を目覚めさせた憎しみと同時に、真の自分に出逢わせてくれた感謝があったと察する。

しかもその正体は「快楽」だ。多くの男性が女性の裸を見て性的興奮を覚えるのと同じで、原作の森田は自らの手で相手を苦しめる感触と、息絶えた死体を見て性的興奮を覚える。「こんな体(性的志向)に生まれてきたことが不公平だ」と葛藤するが、決して悪ぶれることはなく「こういう性的志向だから殺人は仕方ない」と開き直っている。罪の大きさに対する自覚はあるものの、殺した相手への思いやりからではなく、社会的に裁かれる刑罰の大きさからである。いかに捕まらないように殺人を繰り返すか、原作の森田はそればかりを考えている。

映画でも快楽者たる森田の名残を感じさせるシーンが出てくるが、それよりも森田の人間性にフォーカスしているように思う。同情の余地のない原作の森田に対して、映画の森田は「かわいそう」とすら思えたりする。その大小は別として、「いじめ」という行為に対して多くの人が間接的、直接的に関わった経験があり、その延長線上に森田の凶行を描くことは観客の共感を捉えやすい。しかし個人的にはどうしても物足りない。映画の森田が普通にレイプしようとするシーンを見て「それは違うだろ」とツッコんでしまう。

例えば「ダークナイト」の「ジョーカー」や、 「ノーカントリー」の「シガー」あたりだ。モチベーションはまったく異なるが、いずれも日常の価値観を超越した悪の姿であり、それが物語の大きな求心力であった。平和に生きる常人には到底想像することもできない悪が確かに存在していて、それが身近な世界に潜んでいるという恐怖。。。観客の共感を置き去りにして「快楽殺人」という変態性を真っ向から描いてほしかった。それもホラーではなくスリラーとして描くことが本作であればできたはずだ。

しかしその一方で、映画の脚色によって面白くなった部分もある。もう1人の主人公である非モテ男の岡田と、可愛い女子ユカとの恋愛劇が、森田の凶行劇とちゃんと交錯している点だ。

まず、前半の呑気な青春コメディから、後半のスリラー劇への落差ある変化がモノ凄いインパクトだ。あんな遅いタイトルバックは初めてだ。物語の主人公がスイッチングするとともに、同じ世界に全く異なる日常と非日常が両立することを示す。岡田とユカのセックスシーンと、森田による凄まじいバイオレンスシーンが呼応するようにシンクロし、本作ならではの表裏性を強調する。そのシーンに思わず鳥肌が立ってしまった。そして、原作では岡田の物語と森田の物語が平行線を辿ったまま終わりとなり消化不良気味だったが、映画では終盤のクライマックスで岡田と森田が対峙するシーンがきちんと用意されていて、明白な結末まで提示してくれる。ノスタルジーを盛り込んだ描き方は望むところではなかったけど、映画版の描き方であれば全然アリだろう。

奇しくも同性となった「森田」演じた森田剛が素晴らしい。自身の年齢よりも一回り以上若い役柄を、声色を常に高く設定しながら自然なセリフ回しで演じてみせる。振り切った凶暴シーンは勿論のこと、虚しさと無意味さを漂わす岡田との会話シーンに役者としての巧さを感じさせる。森田剛ってこんな演技ができるんだな~と感心しきりだった。公開初日に観たが、劇場には作品の色には似つかわしくない若い女性層が目立った。森田剛の登場シーンに色めき立っていたので彼のファンだったのだろう。ギャップ萌えとなったのか、シンプルに引いてしまっのか、観終わったあとの彼女たちの感想が気になるところだ。岡田演じる濱田岳はいつものキャラどーりといった感じで特に新鮮味はなかった。相変わらずムロツヨシとは相性が良さそうである。

非モテ男が美女になぜかモテるという、世の中の男子に夢を見させる古谷実漫画のなかで「シガテラ」がまだ映画化されていない。おそらく「ヒミズ」や本作よりも映像化すると面白いので、いつか映画化されてほしいと思う。

【65点】
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2016夏公開映画10選

2016-06-07 09:00:00 | 気になる映画
6月に入った。夏公開映画のプロモーションもぼちぼち始まっているが、続編シリーズに湧いた昨年に比べると、今年のラインナップは一見地味な様子。そんななか、個人的に期待値の高い映画を10本選んでみる。対象は7月~9月上旬までの公開予定作。

1.ウォークラフト(7月1日公開)

「映画は監督でキマる」と最近改めて思う。それはジャンルや規模の大小に問わずで、最近だと「クリード」のライアン・クーグラーや、「シェフ」のジョン・ファヴローとか。そして、今度はダンカン・ジョーンズが満を持して大作映画に挑む。。。。が、公開を今週末に控えた北米では早くも「大失敗作」の噂が。。。。

2.ジャングル・ブック(8月11日公開)

ジョン・ファヴローが大作映画にカムバック。北米で公開されるやいなや絶賛の嵐が吹き荒れる。フルCGで作られた野生の息吹に目を奪われる。豪華過ぎる声優陣にも注目。

3.X-MEN:アポカリプス(8月11日公開)

大大大好きなXメンシリーズの続編。そして今回の敵は最強のミュータントで噂される「アポカリプト」。演じるのはオスカー・アイザック。若き日のジーン、ストーム、サイクロップスたちも登場。北米での賛否が気になるが。。。

4.スーサイド・スクワッド(9月10日公開)

公開をただただ待っている。評価・興収の両面で水をあけられてしまっているマーベル映画とは一線を画し、我が道をゆくDC映画。その逆襲の決定打となるか、極めて重要な1本。監督はデヴィッド・エアー。「毒をもって毒を制す」って好き。

5.ブルックリン(7月1日公開)

シアーシャ・ローナンが大人の女優としてステップアップした称賛された恋愛ドラマ。ロッテントマトでは200レビューオーバーで驚愕の97%のフレッシュを獲得、その完成度は折り紙付きのようだ。久しく恋愛映画を映画館で見ていないので楽しみ。

6.ファインディング・ドリー(7月16日公開)

昨年「インサイド・ヘッド」で見事な復活を遂げたピクサー映画が、いよいよ名作アニメの続編を放つ。監督はオリジナルと同じアンドリュー・スタントン。

7.インデペンデンス・デイ:リサージェンス(7月9日公開)

おそらく夏公開映画のなかで最も予算をかけた大作らしい大作。オリジナルは何と20年前の公開作。監督は同じくローランド・エメリッヒ。20年後の今、どんな進化を見せてくれるか。

8.トランボ ハリウッドに最も嫌われた男(7月22日公開)

神ドラ「ブレイキング・バッド」のウォルターこと、ブライアン・クランストンが映画界でもその真価を示した1本。その座はディカプリオに持って行かれたが、TVドラマ界、演劇界で頂点に立った男がオスカー候補に上がったことは大変な快挙だった。

9.ゴーストバスターズ(8月19日公開)

昨今のリメイクブームの流行にのってか、30年のときを経て幽霊退治が戻ってくる。監督は「ブライズメイズ」「SPY」等のポール・フェイグ。とくれば、やはり得意な女子たちによるコメディにアレンジ。マシュマロマンは出てこないか。。。

10.死霊館 エンフィールド事件(7月9日公開)

傑作ホラー「死霊館」の続編。監督は前作に続き、ジェームズ・ワン。予告編がすでに怖いんですけど。。。。
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神様メール 【感想】

2016-06-04 09:00:00 | 映画


奇想天外。大胆不敵。予測不能。抱腹絶倒。何て面白いの。
カラフルでメルヘンな世界に、シュールでブラックなユーモアが散りばめられる。笑いに笑わせて、まさかの人生賛歌。ラストのブッ飛んだカタルシスに絶句し、スクリーンから押し寄せる多幸感の波に酔いしれる。

2011年の私的ベストムービー「ミスター・ノーバディ」から5年。ジャコ・ヴァン・ドルマルの久々の新作にようやくありつく。そしてまたまたノックアウト。ドルマル、相変わらずキレてるわ~(笑)。

天地創造の神様は、実はベルギーのブリュッセルにいて、よくわからない旧式の魔法のパソコン1つで、人類の運命をコントロールしていたという無茶苦茶な設定だ。しかもその神様が救いようのないクズ野郎ときた。「神の名の下に~」と繰り返されている戦争の歴史はすべて奴(神様)の仕業だったのだ。それも神様の退屈しのぎに過ぎない。「慈悲」なんてものはなく人類を玩具のように転がしては大喜びしているトンデもない悪童だ。「不快の法則」って(笑)。

彼には専業主婦の妻(女神)がいて、その間には2人の子どもがいた。長男は、かの有名なイエス・キリストだ。劇中での彼はすでに故人になっていて、人間界に降り立ったのち、人間たちによって磔になっている。そしてもう1人の子どもが10歳の女の子で「エア」という。彼女が本作の主人公であり、完全な本作のオリジナルキャラだ。家庭でも暴力を振るいまくっている父親(神様)に反抗し、父親が誰にも触らせない魔法のパソコンを操作し、父親に大ダメージに食らわす。それが邦題の「神様メール」だ。

神様に運命を委ねるというのが信仰心の1つといえるが、人間にとって最も大きな運命である「寿命」を人間たちに知らせるという行為に出る。本作の神様は魔法のパソコンを1人占めしているというだけで、自身は何の能力も持たない。エアがパソコンを操作した際にログオフをしたが、それすらも修復することができない。寿命の告知によって、ある意味、信仰の呪縛から人間たちを解放したエアはその後、人間界へ家出し、兄であるキリストに倣い「使徒」(人間)に出会う旅に出て「新約聖書」の続編である「新・新約聖書」(笑)を完成させようとする。その「新・新約聖書」が原題タイトルらしい。

寿命を知り、余命を知った人間たちの行動がコミカルに、ときにシリアスに描かれる。流行のユーチューバーっぽく死なないことを証明するために自殺行為を繰り返す男や、残されるダウン症の子どもを思い心中しようとする親子がいたり。。。早く死ぬ人、長く生きる人、いずれも死までの距離を認知した人たちはそれぞれの生き方をチョイスする。なかでも思わず唸ってしまったのが、今もなお世界各国で繰り返されている戦争がパタッと止んでしまったことだ。死が明らかになった世界では争いゴトは無意味になるということ。なかなか鋭い。

そんななか、エアが「使徒」として選んだ人間たちは虚無感や孤独を抱える人たちだ。右腕をなくした美女、ベンチから動くことをやめた男、殺しが趣味な男、性的妄想が激しい男、夫に見離された主婦、女の子になりたい男の子。これまでの人生も、残された人生にも希望を見出せない人たちにエアは小さな奇跡を与えながら幸福な人生への後押しをしていく。エアが彼らの心臓の鼓動を聞いて、それぞれのオリジナルの音楽を言い当てるシークエンスがチャーミングで素敵だ。予想だにしないヘンテコな展開と、画面の隅々までコダワリ抜いた創造性あふれる画作りにワクワクと笑いが止まらない。

エアが発する陽性のパワーと、神様の陰性のパワーのコントラストが効いていて、無駄に甘ったるい空気にならないのが良い。また、エアと行動をともにするホームレスの男は通信機器を持っていないので寿命を知らなかったり(しょーもなw)、エアを追っかけて人間界に降り立った神様が食うものに困り、食事の配給を受けるために向かった教会で散々悪態をついたり、笑い転げるユーモアの中にシニカルな視点が常について回る。ドルマルがどこまで意識して作ったかは不明だが、いろんな視点をもって隠れたテーマを深読みできるのも本作の魅力だ。前作「ミスター・ノーバディ」と同じくリピート鑑賞向きな映画といえる。

ドルマルは相変わらず子役のキャスティングが素晴らしい。主人公のエアを演じたピリ・グロワーヌが最高にキュートだ。ふっくらしたツヤツヤの肌に、口をへの字にして大の大人たちの運命に寄り添っていく。単に可愛いのではなく、勝気な性格なのが楽しい。彼女と同年代の男の子を演じた子役の子も寓話に出てきそうな顔立ちで本作にピッタリだ。ゲス神様演じたブノワ・ポールヴールドの憎たらしい怪演や、ゴリラと恋に落ちてゴリラに胸を揉まれる(笑)名女優カトリーヌ・ドヌーヴのはっちゃけぶりなど、キャストたちのパフォーマンスも見どころ満載だ。

運命を決めるのも神様であり、奇跡を起こすのも神様だ。役立たずな専業主婦だった女神が、女神たる本領を発揮する終盤が痛快で圧倒される。信仰を笑うのではなく、信仰の存在を肯定しながら、人間の生き方について考察していく。笑いと感動の波状攻撃に降参だ。

【85点】

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ブラックフィッシユ 【感想】

2016-06-01 09:00:00 | 映画


日本でのパッケージ化の気配が一向にないので、Amazonビデオで視聴。
公私を問わず動物たちと関わる、すべての人に観て欲しいドキュメンタリー映画。
単に動物愛護を訴えた映画ではない。

2010年にフロリダの水族館でシャチが女性トレーナーを食い殺した事件の全容を探る。タイトルの「Black Fish」はインディアンによるシャチの呼び名だ。インディアンにとって「Black Fish」は神聖な存在であり、シャチ、ひいては野生に対する敬意の念がタイトルに込められている。

海を泳いでいたシャチが人間たちの手によって捕まえられる。目的は水族館のショーの目玉にするためだ。シャチは家族と群れをなして泳いでいるが、人間は飼育に扱いやすい子どもに狙いを定める。親シャチがいる目の前で子どもを誘拐するわけだ。シャチの高い知能は脳科学的にも証明されていて、群れ単位での独自のコミュニケーション言語があり、複雑な感情を持っていると推定されている。自分の子どもを目の前でさらわれる親の心情と、さらわれた子どもの恐怖を思うと胸が張り裂ける。

事件を起こしたシャチの「ティクリム」も幼少期に人間によって捕らえられた。捕獲後、彼が連れていかれたのは動物たちへの理解を著しく欠いた水族館だ。見ず知らずの大人のシャチたちと同じ水槽に入れられ、ショーのない一日の3分の2を身動きがとれない鉄柵の牢屋に閉じこめられた。他の先輩シャチからの攻撃と、環境によるストレスがティクリムをどんなに苦しめたことだろう。はらわたが煮えくり返り震える。

2010年に起きた事件は、その地獄のような水族館からティクリムが他の水族館に移動した後のことだ。浮上するのは、人間の隠蔽体質と拝金主義。未然に防ぐことができた事件だったかもしれない。事件の関係者でティクリムをよく知る水族館のトレーナーはみんな動物への愛情に溢れている。とりわけ被害にあった女性のトレーナーは、シャチと意志疎通がとれている優秀な人だったらしい。「それなのに、なぜ?」というのが本作の問題提起だ。

「しょせん人間と動物は理解し合えない」と短絡的に解釈するのはおそらく間違いだ。映画はトレーナーとティクリムの間にあった絆を否定していない。問題は、住む世界が違う野生動物を人間の都合で作った環境に引き込んだことである。シャチは生きるためのエサ欲しさに人間に従い、芸を覚える。そのサイクルが信頼関係の前提になっていることを忘れてはならず、自分になついていると勘違いするのは人間の奢りだ。事件はティクリムの衝動で起きたのではない。人間は野生動物たちの命を預かり、その手を借りるのではあれば、彼らを理解するとともに人間と野生の境界を意識し続けなければならない。

水族館のシャチの背ビレが曲がっている理由はよく知られている。背ビレをピンと伸ばして大海原を悠々と泳ぐシャチたちを観ていると感動を覚える。自分はやっぱり海洋生物の水族館ショーは見られないな。。。。

【70点】
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