から揚げが好きだ。

映画とサウナ。

ズートピア 【感想】

2016-04-30 08:00:00 | 映画


ディズニーの快進撃が止まらない。新作となる「ズートピア」から感じるのはディズニーの自信だ。充実の映像演出は小さい子どもから大人まで無差別に楽しませ、魅力的なキャラクターは観客の心を掴み、死角なき脚本は明確な社会的メッセージを打ち出す。それもディズニーならではの勇気と希望を与えるものだから敵わない。ロッテントマトで98%フレッシュという驚愕スコアもダテじゃない。

高度な文明を築いた動物たちが暮らすズートピアを舞台に、ウサギ史上初の警察官になった「ジュディー」と、彼女と共に謎の失踪事件を捜査することになる詐欺師のキツネ「ニック」の活躍を描く。

設定がユニークだ。動物たちは「野生」を過去の遺物として 捉えていて、草食動物と肉食動物という捕食関係もとうの昔に消えている。動物の種別に関係なく、それぞれに平等な権利が与えられている。公平なルールと環境整備がなされているが、そこに暮らす動物たちの種類は千差万別だ。体が大きいものもいれば、小さいものもいる。力が強いものもいれば、力が弱いものもいる。その個体差は、陸上の短距離走でアフリカ系には勝てないというレベルではなく、その種で生まれてしまった以上、絶対に埋められない差として存在している。正義感が強く「世界をより良くしたい」と警察官を夢見るジュディーに対して、うさぎのお父さんは「これまで幸せに暮らしてきたのは夢を諦めてきたからなんだ♪」と誇らしげに言う。夢を唄うはずのディズニーがのっけから仕掛けてくる。

が、ジュディーは警察官への道を諦めない。警察学校に入学した彼女は、案の上、その小さな体と体力のなさが大きなハンデとなるが、人一倍の努力を重ね、持ち前の知力と俊敏性を発揮して見事警察学校をトップ成績で卒業する。この時点で、早くもジュディーの前向きさは観る側を引き付け、魅力的なキャラクターとして確立される。その後、警察学校での輝かしい実績を引っ下げ、ズートピアの警察署に就職するが、彼女のボスとなる署長はジュディーを1人前の警察官として認めない。理由は彼女がうさぎだからだ。うさぎなんかが、警察官が務まるはずがないと頑なに思っている。他の同僚たちは重大な事件を任されるなか、彼女だけ駐車違反取り締まりの担当にされる。それでもジュディーはへこたれない。100件という課せられた目標を200件で返そうと挑戦する。ディズニーが巧いのは、彼女の努力を強調するよりも、200件クリアに向けて奮闘する様子を楽しいアクションとして魅せ切るところだ。観客の想像力を信じ、スピードを緩めることはしない。

本作ではもう1人魅力的なキャラクターが出てくる。ジュディーが違反取締中に出会うキツネのニックだ。「キツネに売るアイスはねぇ!」とアイス屋で彼が排斥される様子から、一見平和なズートピアにも当たり前のように差別がはびこっていることがわかる、差別の被害者としてニックは登場するが、その正体はジュディーも騙されるプロの詐欺師だ。「キツネは悪賢い動物」という偏見のままに彼は人生を歩んでいて、その生き方を肯定している。「偏見で人を判断してはいけない」という教訓に揺さぶりをかけ、観る側を翻弄する。その後、明らかになるニックの過去から理想が現実に打ちのめされる悲劇が浮上する。諦めなかったジュディーと諦めたニックの生き様が交錯し、2人の友情を深まる過程が胸を打つ。努力によって報われることを強く肯定しながらも、それでも変わらぬ現実の世知辛さも否定しない。

人種差別、ジェンダー差別、偏見、社会格差、権力者の表裏、憎悪が広がるプロセスなど、擬人化された動物たちからみえてくるテーマは驚くほど多い。今まさに捉えるべき現代社会の風刺絵にも見える。 その一方で、何も考えなくても楽しめる冒険活劇としてもハイレベルな仕上がりだ。謎を解き明かすミステリーとして、ジュディーとニックの凸凹コンビのバディムービーとして、個性豊かな動物たちが織りなすコメディとして、様々な味がある。完全に大人にしかわからないゴッドファーザーのクダリを入れるなど、かつてピクサーが得意としてきた要素をことごとく取り入れ、さらに発展させることに成功したみたいだ。そんななか少し残念だったのが、黒幕の正体やクライマックスのオチが完全に読めてしまったこと。一番盛り上がるシーンには観る側の想像を超える興奮が欲しいところだが、この完成度でそこまで求めるのは欲しがりすぎか。あと、序盤に登場する動物キャラのハエシーンはアニメでも生理的に無理だった。

吹き替え版で鑑賞。ジュディーとニックの声を演じた上戸彩と森川智之がとてもとても素晴らしい。主人公の2人が魅力的だったのは彼らの功績が大きい。上戸彩の明るく前向きな個性が声色に乗っていて、優しさの中にも意志の強さがしっかりと感じられる。まさにジュディーの声にピッタリ。何かとブーイングが多い歴代の芸能人声優の中でも間違いなくトップクラスに入る成功例といえる。
また、上映後、隣に座っていた女子2人が「ていうか、森川さんステキ過ぎ!」と言っていたとおり、プロ声優として一線で活躍する森川智之をその相方役にキャスティングしたのも大正解。スタイリッシュな生き方のなかに、暗い陰を抱える複雑なキャラクターを演じるには、下手な芸能人では台無しになっていたところだろう。

今年の夏は同じディズニー資本であるピクサーの「ファインディング・ドリー」が公開を控える。ディズニーとピクサーの切磋琢磨は両者のレベルアップに繋がっている模様だ。強烈な先制パンチを食らわしたディズニー映画に対して、ピクサー映画はどんな作品を繰り出すのか今から楽しみだ。

【75点】


アイアムアヒーロー 【感想】

2016-04-28 08:00:00 | 映画


日本映画が突き抜けた。
「よくぞ、ここまでやってくれた!」と、劇中何度も拍手しそうになった。グロ表現だけじゃない。アクションムービーとして、また、非力男子の成長ドラマとして大変よく出来ている。海外のゾンビ映画、いや、海外のSF映画ともタイマンを張れるクオリティ。「日本映画の夜明け」とまでいうのは言い過ぎ!?とりあえずアッパレ。続編を熱望。

漫画から離れて久しい自分が、連載を追っかけている2つの漫画のうちの1つ。
原作に出てくるゾンビ(ZQN)の特徴はとにかく気持ちが悪いこと。顔中から体液が出ていて、目ん玉はいろんな方向を向き、リピートで発する言葉は気味が悪い。何度見ても気持ちが悪くて慣れない。身体能力には個体差はあるものの、動きは普通の人間と同じく俊敏で力も強い。「ウォーキングデッド」で登場する軟体でのろのろしたゾンビとはレベルが違う。その原作ゾンビの再現性は100点満点である。原作ファンとしては拍手ものだが、原作を知らない人たちにとっては引くんじゃないかと思えるほど。映画は映画で本当に気持ちが悪い。特に原作の特徴をよく捉えていると感じたのが感染した人間がゾンビへと変化するシーンだ。「俺は平気だぜ」と言いながらも、どんどん言葉がおかしくなり、目ん玉があり得ない方向にじっくり向いていく。そして動きはひたすら歪で、全身の関節がバラバラに動き、絡みつくように襲いかかってくる。もうこれ以上ない正解だ。

次にグロ表現だ。これは原作よりもオーバーに仕上がっている。冒頭に登場するドランクドラゴンの塚地のシーンで、本作の方向性が示される。スプラッターにも近く、ゾンビの脳天を鈍器でかち割り、返り血をこれでもかと浴びる。注目すべき点は、行き過ぎたグロ描写をユーモアに転じさせるくらいの余裕をみせていることだ。これはアメリカのホラー映画の常套手段だが、真面目な印象を持つ日本人がやると、怖くもあり可笑しくもありで、また違った味わいが出てくる。センスある塚地の熱演も手伝って最高に面白いシーンだった。その後は町中がパニックに陥り、ゾンビが一般人を喰らうシーンも、一般人がゾンビを潰すシーンも、粘度の高い血糊と内臓物が多用され、手加減なしのグロ描写が連続する。何と頼もしいことだろう。

原作の魅力でもある、現実感のある日常が徐々にゾンビ感染によって変化していく過程も秀逸だ。「住人が土佐犬に噛まれました」「訂正します。土佐犬が住人に噛まれました」。。。「今のニュース、何か変でしたよね?」とひたひたと忍び寄る変化に気づく者と、気も止めず素通りする者が交錯する不気味さ。昨今、映画撮影のトレンドになっている長回し撮影だが、本作でも効果的に使われていて、主人公が町中を逃げ回るシーンでは走る主人公に視点を据え置き、主人公の周りで同時進行的に起きる惨劇が矢継ぎ早に映し出される。ゾンビに襲われ逃げまどう人もいれば、状況を呑みこめず立ち尽くす人もいる。中にはその様子をスマホで撮影している人もいて、群衆のリアクションとしてとても生々しく描けている。

原作ファンの多い実写版の宿命は、原作と比べられることである。その点において、本作は原作にまったく引けをとらない。いや、描かれるエピソードのボリュームだけを見れば、原作を超えたのではないかとすら思う。

特に「アイアムアヒーロー」(私はヒーローだ)というタイトルのとおり、銃を使えるというだけで何の取り柄もない中年男子が臆病である自らの殻を破り、ヒーローとして覚醒する過程が実に巧く描かれている。原作では回を追うごとに「ヒーロー」というテーマが形骸化されているので特にそう感じる。映像の力を借りて主人公の活躍にカタルシスをもたせているのも素晴らしい。原作でも用いられる描写であるが、「こうありたい」という主人公の妄想シーンを映画ではより進化させていて、妄想から予測へと脳内描写を広げ、悲観的な予測シーンを繰り返し、主人公の葛藤を表現するためにも用いられている。映像表現ならではの利点を正しく使っているのだ。

そして、何といってもアクションシーンである。見どころは中盤のカーアクションとアウトレットモールでの乱射シーンか。極めつけのラストの「粉砕」にはシビれた。日本映画であんなに振り切ったアクションシーンも珍しい。欲をいえば、乱射シーンで少し変化を付けても良かったかもしれない。本作のアクションシーンの成功は韓国の力を借りたことが大きく影響しているようだ。カーアクションに用いた高速道路や、大規模なアウトレットモールなど、日本国内で撮影可能なロケーションがなかったこともそうだが、アクションに使う装置、効果的にアクションを見せるノウハウ、銃の取り扱いをはじめとする様々な規制の問題など、日本にはないリソース・環境が韓国には揃っている。韓国エキストラ(ゾンビな人たち)もとても優秀だったらしい。本作ではそれをフルに活用していて、実際に日本で撮影していれば実現できなかったシーンも多かったようだ。韓国と日本のエンタメ映画を見比べれば想像がつくことだが、韓国は日本よりも映画製作の先進国であり、本作の日本人スタッフもそれを痛感したとのこと。本作に限らず、日本映画は韓国の胸を借りればよくて、それが結果的に日本映画のレベルアップにも繋がると思う。

主人公を演じた大泉洋が期待通りの好演をみせる。シリアスな空気の中にユーモアを自然体で生み出せる個性の持ち主であり、主人公の英雄役としてはピッタリであった。「ひろみちゃん、出番。」に爆笑。最初は原作のキャラクターに寄せて直毛気味のヘアスタイルだったが、帽子を被って以降、いつもの天パースタイルに戻っているではないか(笑)。反ゾンビとなる、女子高生ひろみ役の有村架純は原作キャラよりも随分と可愛くて完全なファンタジー。可愛いだけで無条件に守りたくなるというズルさも、2時間という短尺の映画では許容される。個人的に最も注目していたのは、原作の最大のチャームである「コロリ隊長」こと、中田コロリであったが、ラーメンズの片桐がキャスティングされていて「まんまじゃないか!!」とその登場シーンに吹き出してしまった。語尾の「しゅ」の言い回しもグッド。

原作ファンとしては、主人公英雄たちよりもコロリ隊長の活躍が見たい。となれば、彼が戦術家として活躍する続編を製作してもらわないとダメだ。無双の「クルス」登場も含めて、本作のクオリティであればその後の原作エピソードも間違いなく面白い実写版に仕上げてくれるだろう。何としてもヒットしてもらって続編を作ってもらいたい。

【80点】

レヴェナント: 蘇えりし者 【感想】

2016-04-27 08:00:00 | 映画


劇場が凍てつく荒野に変わる。曇天の空、わずかに差し込む陽光、行く手を阻む木立、身を切る風、体温を奪う水辺、息を凍らす空気。。。映像の力は鑑賞を体感レベルまでに引き上げる。観客は手つかずの厳しい自然の中に放り出され、復讐心を糧に蘇った主人公と共に壮絶な旅に出る。

今年最も楽しみにしていた「レヴェナント」を観る。イニャリトゥ×ルベツキ×ディカプリオの掛け算は傑作の匂いしかせず、アメリカ公開時での賛否の反応に少々面食らったものの、最高峰のアカデミー賞ではディカプリオが初オスカーを獲得した。しかしそれ以上に驚いたのはイニャリトゥの2年連続の監督賞であり、ルベツキの3年連続の撮影賞であった。その評価に全く異論のない傑作。役者たちを時代の開拓者に変え自然の一部に同化させることに成功した演出、自然と動物と人間が一体となった生態系のスケールを縦横無尽に捉えた超絶カメラワーク。それは想像を遥かに凌ぐ映像体験だった。坂本龍一が奏でる挑戦的なスコアを含め、総合芸術たる映画の至高形ともいえそうだ。言葉ではなく映像で語る映画であり、劇場での鑑賞が必須。いくつかツッコミどころもあるが、この映像の力の前にどうでもよくなる。

舞台は今から200年前のアメリカ開拓時代。パンフ情報によると石油や黄金といった資源の概念がなかった時代で、アメリカという未開の地で人間たちに富をもたらしたのは毛皮だったらしい。ビーバーやバッファローなどがその標的となり、自分たちのための「資源」と勘違いした白人たちは生き物たちの命を奪うことを躊躇わず乱獲を繰り返し、絶滅の危機に瀕するまで狩った。その毛皮ハンターが本作の主人公たちだ。彼らは自然を蝕む侵略者であり、古くからその地に暮らしていたインディアンからすれば強奪者である。物語はそんな彼らが手痛い洗礼を受けるところから始まる。

冒頭シーンが鮮烈だ。毛皮の搬出中にインディアンたちの急襲に遭う。どこからともなく放たれた無数の矢がハンターたちを次々と射抜いていく。銃で応戦するマも与えないほどのスピードで、今度は斧を振りかざしたインディアンたちが襲いかかる。相手を殺さなければ生き残れない緊迫の肉弾戦が繰り広げられる。地表が血で染まっていくのがわかる。カメラはその様子を長回しで捉え、今まさに目の前で起きているライブ映像のように映し出し、観る者を劇中に引きずり込む。息をつく暇を与えない。防戦一方となった主人公たちは多くの犠牲者を出しながらも命からがら船で危機を脱する。そしてインディアンたちは白人たちから毛皮を奪う。

ディカプリオ演じるグラスは毛皮ハンター一行の中でも異色の存在だ。インディアンの女性を愛し、混血の子どもをもうけ、成長した子どもと共に毛皮ハンターたちのガイドとして同行している。現地の言語を唯一話せる人間であり、インディアンとの距離が最も近い白人だ。しかし、彼がとった行動がインディアンたちの急襲の引き金になったのは皮肉だ。その後、彼は偵察のための単独行動中に巨大なグリズリーに襲われる。そのシーンがあまりにも凄まじく今でも脳裏に焼きついている。大の大人の肉体が人形のように振り回され、鋭い爪と牙で肉体が引きちぎられる。鮮血が飛び散り、想像を絶する痛みが伝わる。アンラッキーな事故というよりもグリズリーの本能に基づく結果であって、侵してはならない自然の境界に足を踏み入れた人間の報いともいえる。

本作のテーマとして強く感じたのは自然との共生だ。本作で描かれる共生は助け合いの意味とは異なる。弱肉強食の摂理のとおり、自らが生き抜くために他者の命を奪い、利用することも肯定する。映し出される神々しいほどの自然を目の前に、人間が自然をコントロールするなんてことは実におこがましく思え、人間も動物たちも同じ生物であることを痛感させられる。そう考えると他の動物たちと同様に、グラスも死ぬ運命だったのかもしれない。しかし、彼は蘇った。死の淵から突き動かしたのは人間のみが持ち得た情念である。愛する者を殺した相手への復讐というのは、自然の摂理にはない行為だ。復讐によって何が得られるのか。。。本作は単なる復讐劇に終わることなく、その答えを追い求めたグラスの魂の行方を照射し続ける。

蘇ったグラスは自然に帰化する。冷たくなった息子の亡骸に身を寄せ、自らを殺そうとしたグリズリーの毛皮を身に纏い、臓物を抜き取った馬の体内で冷夜を過ごす。自然の食物連鎖の一部になったグラスは、素手でとった魚をかじり、生のバッファローの肉をほおばる。グラスの命の恩人となるインディアンとの出会いによって、自然の中にいる精霊の存在を感じ取る。復讐の旅路は自然が持つエネルギーと霊気を体内に浸透させる過程でもあったように思う。そうした自然との対峙を経て、ラストの「救済」が必然性をもって響いてくる。

グラスを演じたディカプリオは一世一代の名演をみせる。言葉のない演技をもって動と静の情念を体内から発散させる。また、他キャストたちの熱演にも目を見張るものがあり、ディカプリオの敵役であったトム・ハーディーの人間の臭気を漂わす存在感や、グラスへの贖罪と保身に葛藤する青年を演じたウィル・ポールターや、規律を重んじ裏切り者に対して鬼と化したドーナル・グリーソンなど、いずれの主要キャストも鳥肌が立つほどの迫力をみせた。演技の巧さもさることながら、肉体的、精神的にタフさが要求される過酷なロケ現場であったことは想像しやすく、撮影に関わったスタッフ、キャスト陣に「お疲れ様!」と言いたくなる。自然光のみを使った撮影や、雪山の雪崩シーンは一発勝負の爆破による実写であったことなど、いろんな意味で奇跡的な映画だったようだ。

ディカプリオが本作への出演を受けた理由は、イニャリトゥと組みたかったからだという。イニャリトゥファンとしてはとても喜ばしいのだが、あれだけディカプリオの起用し続けてきたスコセッシを思うと横取りされた感じで少し可愛そうな気もした。

【90点】

日本のTVドラマに最近ハマっている件。

2016-04-26 08:00:00 | 日記
海外ドラマの面白さを知って以降、日本の連続ドラマを見なくなって久しかったが、今年より3本の日本のドラマにハマっている。日記として感想を残しておく。

『真田丸』(NHK大河ドラマ)
歴史マニアの三谷幸喜が描く戦国時代劇ということで、第一話から見ているが、4か月後となる現在でも毎週楽しみにして見ている。大河ドラマを見るのは「龍馬伝」以来だ。魅力は何と言っても個性豊かなキャラクターたち。主人公の堺雅人演じる真田信繁(幸村)よりも、周りの脇役たちの方が見ていて引きつけられる。草刈正雄演じる真田昌幸を筆頭に、内野聖陽演じる徳川家康、藤岡弘演じる本多忠勝、高嶋政伸演じる北条氏政、遠藤憲一演じる上杉景勝、村上新悟演じる直江兼続、小日向文世演じる豊臣秀吉、山本耕史演じる石田三成など、名だたる武将たちの個性をデフォルメしたとも思える明確さがアンサンブル劇として威力を発揮する。とりわけ、ユーモアとシリアスを自在に操れる内野聖陽と小日向文世のパフォーマンスが見事。一方で、現代的なキャラにも映る長澤まさみ演じるキリの存在がいろんな場面で水を差してしまうのが勿体ない。劇中使われる時代言葉も興味深く「さなだあわのかみのこせがれにございまする」とか、その言い回しがいちいちクセになってしまう。当面の楽しみは、現在、秀吉が全幅の信頼を寄せている千利休を見限るまでの過程を本ドラマでどう描くかだ。主人公の真田家よりも他武将の動向が気になってしまう。これもこのドラマの魅力だ。

『ゆとりですがなにか』(日テレ)
ゆとり世代の3人が織りなす騒動記。ありそうでなかったテーマのドラマだ。ゆとり教育の偏見と実態の両面を描いているのが良い。演出は映画監督としてのイメージが強い水田伸生、脚本は宮藤官九郎。主人公の3人はゆとり教育のギリ最前期の人であり、常識と社会性を持っているけれど自立した人間として脆さが拭えない。現在自分が勤める会社では新卒を採用していないので、ゆとり世代と接触する機会はほとんどないが、稀にあったのが典型的な出来事だった。派遣で入ってきたゆとり世代の男の子が、普通にコミュニケーションをとれていたように思えたが、一日で来なくなってしまった。それも連絡なしでだ。他にも、別部署で働くゆとり世代の正社員の女子と関わった際、優秀で仕事もできるのだけれど、「あれ?」と突然、礼儀や責任感を疑ってしまう言動を目撃したりした。「ゆとり世代だから」というより個人の問題のような気もするが、自分はすっかり偏見にまみれてしまった。。。。そんなゆとり世代への偏見を凝縮したキャラとして登場し、「ゆとりモンスター」を演じる太賀が絶品(笑)。彼の圧倒的な怪演が本作の最大の見どころといえる。また、性格俳優としてキャリアを突き進んでいる柳楽優弥のパフォーマンスも印象的で、「おっぱい、いかがすかぁ~?」の収まりの良さに爆笑する。水田伸生の演出は映画よりも冴えているような。。。

『昼のセント酒』(テレビ東京)
「孤独のグルメ」の原作者久住昌之の同名漫画のドラマ化。営業をサボって昼間の銭湯&ビールを楽しむ男の話。前職で営業をやっていた自分には「あるある」な話のオンパレード。営業成績が上がらない中、とりあえずアポを取りまくって、同じ調子の営業トークを繰り返していた新人時代を思い出す。当時、車での地方営業で割と時間を自由に使えていたので、サボっていたこともしばしば。。。本作の主人公と同様に「世の中の皆々様が汗をかいて労働に勤しんでいる中、自分は~」という背徳感と優越感はとてもとても共感できる。そして入浴時の「申し訳な~い」の決め台詞と、必殺の「ノーリターン(会社戻りませんので)」に毎回ニヤけてしまう。毎回登場する実在の銭湯レポートは興味深く、今や絶滅危惧となっている銭湯の魅力を再発見するドラマのスタンスが好印象だ。あと、共同浴場ならではのマナーについても、さりげなく言及してくれるのも良い。現在、通っているジムではかけ湯しないで浴槽に入る人や、浴槽内で顔をブルブル洗う人、結構いるんだよな。。。ひとっ風呂浴びたあとのビールの旨さはひとしおで、ドラマはその描写をケレン味たっぷりに映像化する。主演の戸次重幸がダメ営業マンを好演。毎回描かれる入浴シーンでの彼の裸が非常に綺麗であり、目指すべき中年男子の体系といえる。もっと体を絞らねば・・・・。

海外ドラマ同様、日本のテレビドラマも少しずつ進化してるのかな。。。

ゲーム・オブ・スローンズ 第六章 第1話 【感想】

2016-04-26 00:58:38 | 海外ドラマ


日米同時放送が実現したゲーム・オブ・スローンズの第六章が今日から始まった。NETFLIXでは既に日米同時配信は果たせているが、一般のケーブルテレビ番組の放送では異例の対応と思われる。スターチャンネルに感謝だ。

日本での放送は今朝の10時だったので帰宅後、録画した1話目を観た。

新たなシーズンの始まり!というよりは、前シーズンのおさらいを含めて、それぞれのキャラクターのその後を追っかけた感じだ。個人的に気になっていたのは、サンサとシオンの逃避行、盲目となったアリアのその後、裏切られたジョン・スノウのその後など、辛酸をなめ続けているスターク家の面々の動向である。前シーズンの続きが描かれているが、それぞれに変化の兆しが見えたエピソードであり、来週からの展開に期待せずにはいられない終わり方だ。

ジョン・スノウのエピソードで登場する「紅の女」こと、メリサンドルがヌードのサービスショットを披露。目の保養。相変わらず何て綺麗な体なんだ。。。。と思いきや、知られざる事実が判明し、かなり驚いた。

また、前シーズンで全く登場しなかったブラン君は、予告編では本章で再登場するみたいなんだが、第一話では登場せず。一気に魔法使いになって憎きサイコ野郎こと、ラムジーを抹殺してほしい。

また来週から楽しみであるが、毎週ペースで観るか、2ヶ月後にまとめて観るかで思案中。
本章で何としてもスターク家の逆襲が始まってほしい。まあ、そうはいかないだろうが。。。

ベター・コール・ソウル シーズン2 【感想】

2016-04-22 08:00:00 | 海外ドラマ


本家「ブレイキング・バッド」(BB)はシーズン2から異常に面白くなった。
そのスピンオフである「ベター・コール・ソウル」はどうか。
そのシーズン2(全10話)をNETFLIXにて観終わったので感想を残す。

シーズン1も十分面白かったが、シーズン2に期待するのはシーズン1を上回る引力(中毒性)だ。

結果、めちゃくちゃ面白かった。貫禄の完成度。「引力」という点においては本家BBには及ばないが、このドラマの設定上では仕方ないか。相変わらず演出レベルがハンパない。本家BB同様、映像演出の教材になりうるクオリティだ。最後の最後まで「ヴィンス・ギリガン、さすがだわ~」と唸ってしまった。

前シーズンで兄チャックとの確執によって「ソウル」ことジミーは大きな挫折を味わったが、「捨てる神あれば拾う神あり」で他の大手弁護士事務所にスカウトされ、就職することになる。貧乏暇なしだった前シーズンとは打って変わって、豪華なオフィスに豪華な社宅、高級社用車が支給され、御用聞きの部下まで付く状況になる。超高待遇の会社に就職し人も羨む「勝ち組」弁護士になったが、1匹狼でやってきたジミーが会社という組織で活躍できるのか?というのがシーズン2の大きなポイントになっている。ユニークなのは弁護士ドラマなのに法廷シーンが一切出てこなかったこと。



本家「ブレイキング・バッド」では口達者かつ取引上手の要領の良さで主人公のウォルターを支えていたが、それはドラッグ取引という違法な世界の中でのことだ。「殺し以外なら金のために何でもやります」なソウルだったが、当時のジミーが関わっていた法曹界は当然ながら真っ当でクリーンな世界。社会的コンプライアンス、そして組織の中でのルールを何よりも優先しなければならない。「結果良ければすべてヨシ」というわけにはいかず、彼の正攻法が所属する弁護士事務所と衝突する。「取引で何でも済まされると思うな!」はジミーに対する象徴的な一喝だが、それは同時に彼の素質を殺すことにもなる。本シーズンでも自分らしい生き方をジミーは模索するのだ。

まだ「ソウル」という言葉は劇中に出てこないが、ソウルが誕生した前日譚としてはシーズン1よりも、かなりスピードアップして助走を始めた印象だ。ソウルに繋がる多くの片鱗が垣間見れるが、印象的なのは彼のショーマンシップだ。見る者、聞く者を惹きつけなければ、己のメッセージは届かない。タイトルの「ベター・コール・ソウル」は「ソウルに電話しようぜ!」という彼の代名詞ともいえるCMのキメ台詞であり、本作でも初めてジミーは自身のCMを製作し、その才能を発揮する。そのCMの撮影風景が可笑しくて堪らない。さすがヴィンス・ギリガンのドラマだ、ユーモアもキレキレである。



本シーズンのもう1つの特徴はマイクが前シーズン以上に独立したキャラクターとして描かれていることだ。前シーズンではジミーが彼を巻き込んだ形でマイクにスポットが当たったが、本シーズンではジミーとマイクが絡むシーンはほとんどなく、ジミーの物語と並行して、マイクの物語が描かれている。マイクファンとしては堪らないエピソードが多く非常に嬉しい。前シーズンで「顔馴染み」となったナチョとの関係が継続し、彼の仕事の依頼を受けたことからサラマンカ一族と対立することになる。マイクの豊かな経験に裏打ちされた洞察力と度胸、そして並外れた戦闘力がサラマンカ一族の脅威となり、いやはや痛快。再登場となるトゥコとの対決シーンが秀逸。よくあんな脚本が書けるなーと脱帽する。そして、本家BBで強烈なインパクトを残した、車いすチンチン爺さんことへクターとの知られざる因縁も明らかになる。ブレイキングバッドで登場した無口な双子ヒットマンも登場でテンションが上がる。マイクがへクターの陣地に乗り込むシーンは迫力と緊張で思わず鳥肌が立った。BBでウォルターとガスが初めて対面したシーンを思い出す。



海外ドラマ特有の中毒性は「スリル」によってもたらされる。その点で本シリーズが弱いのは、ジミーが堅気の世界で活躍する、一見、平和な物語だからだろうか。マイク側の物語で全編を綴れば中毒性が増すことは間違いなく、おそらくもっとスリリングなドラマに仕立てることもできただろう。しかし、本作はブレイキングバッドのスピンオフであり、あえて違う方向性を打ち出しているように思う。なのでこのドラマを本家BBと比較して「退屈」などと揶揄されるのは実に腹立たしい。ジミーのパートナーであり自身の力で成功をつかみ取ろうとするキムの物語(チャーミングなキムが萌!)や、ジミーとの摩擦によって苦悩する兄チャック、そして彼ら家族の物語は前シーズン以上に見応えがある。それは時に感動を覚えるほどだ。第7話「風船人形」での編集の妙技、第10話「引き金」の無音演出など、ヴィンス・ギリガンならではの他ドラマと一線を画す名シーンも鮮烈だ。



そんな中、本シーズンで唯一残念だったのは、最終話でのジミー側のクライマックスがなかったことだ。大変嬉しいことに、シーズン3の製作が決まったようだが、その反面、次のシーズンへの繋ぎ程度にしか最終話が描かれておらず、「そこで終わりかー」と拍子抜けしてしまった。もう少しサービスしてくれても良かったと思われる。

本シーズンもまた、前シーズンと同様に多くのドラマ賞にノミネートされるだろう。本シーズンではキム演じるレイ・シーホーンがとても魅力的だったので、彼女の助演女優でのノミネートに期待したい。

あぁ、シーズン3のリリースまで、また1年近く待たねばならないのか。。。
それにしてもNETFLIXのコンテンツ力はやっぱ凄いわ。huluも見習ってほしい。

【88点】

ベター・コール・ソウル シーズン3 【感想】

スポットライト 世紀のスクープ 【感想】

2016-04-20 08:00:00 | 映画


アメリカは世界最大の宗教国といわれる。海ドラ「ハウスオブカード」で、ケビン・スペイシー演じる大統領の演説は必ず「神の加護を」で締めている。カトリックを中心に信仰が根付いたアメリカでは、公人の振る舞いとして当たり前の光景のようだ。神を信じるアメリカ中の老若男女が集い、神と対峙する場所である教会は文字の通りの「聖域」といえる場所だ。その聖域に踏み込み、聖職者による児童虐待という世界を揺るがすスキャンダルを暴いた新聞記者たちがいた。その報道に至るまでの全容を描いた本作「スポットライト」は、今年のオスカー作品賞を獲得。ディカプリオフィーバーに浮かれる中、本作を作品賞に選んだアカデミー会員たちの英断に拍手を贈りたい。

その期待に違わぬ傑作。
偉業を成し遂げた記者たちに敬意を表しながらも英雄談として持ち上げない。本作で示すのはジャーナリズムの力だ。真実を伝えることで世界を変えることができるということ。

タイトルの「スポットライト」には3つの意味が込められていると感じた。

1つは、事件を取材した「ボストングローブ紙」の記者たちが担当している特集記事欄の名称だ。取材テーマを自分たちで選び、綿密な調査のもと、1年という長期に渡り記事連載を続ける特命チームだ。彼らに事件の取材を持ちかけたのが、彼らのボスにあたる新任編集局長のバロンだ。その背景にはインターネットの台頭にあり、2002年の当時、インターネットを早くも新聞の脅威として捉え、見応えのあるコンテンツを提供しなければ生き残れないという危機意識からだ。地域密着型の新聞社には珍しく、外部(マイアミ)からやってきた人間でボストン事情にはまるで疎い彼は、20年以上前の事件に目をつけ、その記事があまりにも小さく扱われていることに疑問を投げかける。ここまでのバロンのモチベーションはおそらく「売れる紙面」への嗅覚であったと察する。そんなバロンの持ち掛けに応じたスポットライトチームは手探りで過去事件の掘り返し取材を始めるが、次第に明らかになる事件の重大さに直面する。

彼らはジャーナリストであると共に、新聞紙面に入魂する「ブン屋」である。徹底取材のためにとにかく足で稼ぐ。関係者を探し回り、対面にて生の声を収集する。まさに「奔走」という言葉があてはまり、その取材風景を追った撮影と編集が秀逸だ。彼らの個性に応じた取材特徴も良く出ており、チームのリーダーであり様々な人脈を駆使するロビー、「変人大好き」でチーム1の行動派&熱血漢であるマイク、チームの紅一点で被害者の心に寄り添うように取材するサーシャ、足で稼ぐよりも資料やデータの中から真相を見つけ出す分析官のベンと、見事に役割分担がなされており、まさに理想的なチームプレーだ。

しかし、そうした設定は物語を面白くさせるための脚色でないことは明らかだ。観客の正義心をいたずらに煽るようなことはせず、史実に忠実であろうとする姿勢を強く感じる。例えは、彼らが取材する被害者だ。過去の子ども時代に性的虐待を受けていたという証言は生々しいが、全員が良いオッサンになっており、想像力がないとその外見からは悲壮感が伝わりにくい。また、現在進行形の事実として、幼い子どもたちの姿をクローズアップさせることもできたのだろうが、本作は限定的な描写に留めている。描かれるのは、いかにして彼らが真相をつきとめ、報道するに至ったのかだ。その一点に絞り、このテのドラマには珍しくキャラクターたちの心理を深く追いかけることをしていない。その脚本の判断は吉と出ており、真相究明に至るまでのスリルと疾走感が最後まで持続する。頑丈な社会派ドラマであるとともに、観る者を引きつける娯楽作品になっている。

スポットライトチームに真相究明の大きなヒントを与えるのが、電話音声のみの登場となる心理療法士だ。「堕落」した神父の療養施設に勤めていた彼は神父と小児性愛の関係について長年研究していた。彼の発言で印象的だったのが、信仰と教会を分けて考えているということ。信仰=教会ではなく、教会は人間が作り出した組織と捉えている。一部の神父の小児性愛傾向は、神父が独身を貫くことにも比例しており、小児性愛者が神父になるのではなく、神父になることで小児性愛に傾くという仮説がある。被害者の証言から浮き彫りになるのは悪徳神父たちの計画的かつ卑劣な手口だ。そうした神父による性的虐待について、教会という組織は「必要悪」として事件を黙認していたという見方もできる。神父「個人」ではなく、教会「組織」をターゲットにすべきというバロンの意思が説得力をもつ。

教会をターゲットにすることは、全世界のカトリック教会に広がる可能性をはらむ。そして、事実が示すとおり彼らの報道の結果、神父による児童虐待とその事実を教会側が隠ぺいしたというニュースは全世界に波及、当時のローマ教皇が約600年ぶりとなる生前退位に至るまでのムーブメントに発展した。

タブーという闇に一筋の光を当て、世界の人たちを動かした彼らの報道が2つ目の「スポットライト」の意味だ。そして3つ目の意味は、事件の真相の先にあったもう1つの真相に繋がる。スポットライトチームを突き動かした原動力は他にもあった。それは彼ら自身の後悔の念にある。結果的に大きな成果を上げたものの、彼らのジャーナリズムの不完全さを本作は隠さない。真相を見つけ出すジャーナリストたちの活動は常に暗闇の中にあり、時に迷うが、指し込む光によって正しい道を進むことができる。。。。ジャーナリズムの本質を突いたようなバロンのセリフに、3つ目の「スポットライト」の意味があると思え、強い感動を覚えた。

主人公はジャーナリズムだ。特定のキャラクターに寄せていない作りからもそう感じる。個々のキャラクターを演じるキャスト陣には演技巧者をもれなく配し、期待通りのアンサンブル劇で引きつける。特定のキャストを褒めるよりも、全員が称賛の対象になるほど素晴らしい。なので、助演でオスカー候補となったマーク・ラファロやレイチェル・マクアダムスは勿論だが、チームリーダーを演じたマイケル・キートンやバロンを演じたリーヴ・シュレイバーの存在感も印象に残った。監督は俳優でもあるトム・マッカーシー。前作の「靴職人と魔法のミシン」は別として、「扉をたたく人」「WIN WIN」に続き、新たな傑作を生みだした。キャラクターに肩入れするでなく、キャラクターの視点を貫いた演出が本作でも光る。カタルシスを抑えたラストシーンが象徴的だった。

【80点】

ボーダーライン 【感想】

2016-04-15 08:00:00 | 映画


麻薬というウィルスが現代アメリカを浸食する。但し、本作で描かれるのは麻薬がもたらす社会問題ではない。麻薬がもたらす戦争の姿だ。9.11以降、アメリカの危機管理レベルは上がり、「やられる前にやれ」に変わったと思われる。それは麻薬戦争も同じことだ。ドゥニ・ヴィルヌーヴが描く世界は一貫していて、本作では「戦争」をテーマに倫理や善悪を超えた先にある人間模様を描く。原題は「シカリオ」。メキシコの言葉で「暗殺者」というが、その意味を知ることになるラストに戦慄する。

アメリカVSメキシコの麻薬カルテル。
メキシコの巨大麻薬カルテルを殲滅するために編成されたアメリカの特殊部隊に、エミリー・ブラント演じる女性FBI捜査官「ケイト」がスカウトされ、彼女はそれに参加する。誘拐事件担当であった彼女が、麻薬絡みの誘拐事件の捜査中、爆破事故に遭遇し仲間を失ったことで、その黒幕を突き止めることが彼女の動機だ。そこで出会うのがジョシュ・ブローリン演じる特殊部隊のリーダーと、ベニチオ・デル・トロ演じる特殊部隊に雇われた傭兵アレハンドロだ。「俺たちがやることを見とけ」と、ミッションの目的を明かされないまま、ケイトは壮絶な戦争の渦中に放り投げられる。

まず脳天を打たれるのは、麻薬カルテルの残虐性だ。個人の判別ができないほど顔面を殴打し、ビニールで圧死させたのち、家屋の壁の中に死体を隠ぺいする。あるときは、殺した死体を裸にして首を切り(順序は不明)、町中の目立つ場所に吊るし上げる。それは「見せしめ」であり、見る者に恐怖を植え付け、黙らせ従わせることが狙いだ。しかし、その恐怖のバラ撒きは、同時に多くの憎悪をバラ撒くことに等しい。かの有名な麻薬王パブロ・エスコバルが罪なき市民をテロによって殺した結果、無力と思われた一般市民たちが立ちあがり、血で血を洗う報復戦争に至った歴史を思い出す。本作で描かれる報復戦争は麻薬カルテル同士によるもので、メキシコ国内で起こっていることだ。しかし、本作の特殊部隊のリーダーはケイトに言い放つ、「この戦争はアメリカでも起きる」と。

ケイトが最初に参加するミッションは、メキシコで捕えた麻薬カルテル幹部をアメリカ側に移送することだ。チームはアフガン帰りの屈強な兵士たちで編成されている。何台ものトラックで隊列を組み、そのトラックの荷台には大きな機関銃までスタンバイされている。人を1人移送するだけなのにとんでもない重装備だ。しかも、そこは一般の民間人が生活している町なかである。その作戦の一連の動きを捉えたロジャー・ディーキンスのカメラワークと、ヨハン・ヨハンソンのスコアが秀逸。何かが起きる不気味な空気が充満し、ついには破裂してしまう。凄まじい緊張と臨場感。警察の多くはカルテルによって買収されており、カルテルの手先たちも命がけで幹部の奪還に挑んでくる。そんな中、危険をいち早く察知するアレハンドロの嗅覚が発揮される。先制攻撃による瞬殺と民間人が密集する場所での銃撃戦にケイトは強く反発する。

正義と法規を重んじるケイトは観客側の視点を1人で背負う。作戦に参加するケイト以外の主要キャラは「自由射撃」であり常識的な尺度から外れている。「毒をもって毒を制す」プロットはファンタジーの世界であれば魅力的なのだが、本作のようなリアルな世界で描かれるとあまり気持ち良くない。本作ではそれをアメリカの国家レベルの意思として描いている。ある意味、挑戦的な映画ともいえるが、本作が描こうとするのは国家の政治的判断ではなく、人間の個人レベルの感情に結び付けられた動機だ。ケイトがスカウトされた本当の理由、謎の傭兵アレハンドロがアメリカに雇われた理由、そしてアレハンドロが特殊部隊への参加に応じた理由が明らかになる。それは戦争の普遍的な本質であり、特段、目新しいテーマではないものの、隙のない演出と一流キャストの確かなパフォーマンスによって強い説得力をもったスリラー映画に仕上がっている。

エミリー・ブラント、ジョシュ・ブローリン、ベニチオ・デル・トロ、3者が素晴らしい。正義と善悪の境界に立たされ、必死に抗いながら翻弄されるケイトをエミリー・ブラントが熱演。作戦の遂行者としてケイトの信念を捻りつぶすリーダーを演じたジョシュ・ブローリンの生々しさ。そして、本作で最も強烈な存在感を放つのがアレハンドロ演じたベニチオ・デル・トロだ。個人的には「トラフィック」のハビエル以来の当たり役と思われる。壮絶な過去を持つ男の闇と、それゆえに揺らがぬ執着心を迫力たっぷりに表現する。暗闇から出現する彼の顔面シーンが脳裏に焼きつく。

本作の撮影地は海外ドラマ「ブレイキング・バッド」の舞台でもあったアルバカーキとのこと。ブレイキング・バッドでブロックを演じた子役の少年を劇中で発見。本作でも多くのメキシコ人の子どもたちが出てくる。他の国の子どもたちと変わらず、楽しくサッカーで遊んでいるなか、その近辺では銃声が鳴り響いている。麻薬戦争と密着した環境で成長する子どもたちの将来には、平和な世界が待ち受けることを願う。

【70点】




ミケランジェロ・プロジェクト 【感想】

2016-04-15 07:00:00 | 映画


新作DVDレンタルにて。
第二次世界大戦末期、ナチスによって奪われたヨーロッパの美術品を奪還するアメリカの中年男子チームの活躍を描く。実話をベースにした映画。美術に造詣の深かったヒトラーが名だたる美術品の数々を占領地から巻き上げ、自身のための博物館に所蔵しようとしていた事実に驚く。ユダヤ人の命よりも美術品を大切にしていたということ。但し、その扱いは極めて雑で、ヒトラーが人格欠陥者であった一端が垣間見れる。映画は美術品の「奪還」というより「宝探し」に近いもので、ナチスが隠した美術品を見つけ出す様子が描かれる。歴史と文化の結晶である美術品は命をかけてでも守る価値がある!というメッセージは響いたものの、映画自体は意外なほど退屈でつまらない。当時の再現VTR、あるいは有名俳優たちの仮装劇といったところか。ノー天気な音楽の使い方含め、全体的にライトな語り口なのだが、内容は人命のかかったシリアスなもの。彼らの作戦におけるリスクや深刻さが一向に伝わらない。また、観たところ「友情」が感動ポイントになっているみたいだが、この仕上がりで観客の共感を呼ぼうとするのは強引だ。豪華キャストの無駄使いも目に余り、ケイト・ブランシェットにフランス女性を演じさせるのは見当違いでは?主要キャラたちはそれぞれ得意分野があるにも関わらず、そのプロットを全く活かしていないのも気になる。
監督は本作で3作目となるジョージ・クルーニーだ。劇中の「地雷」シーンのように野暮でクサい演出が際立ってしまった。

【55点】

4Kテレビをついに購入した件。

2016-04-14 08:00:00 | 日記


4Kテレビをついに購入した。
自宅のリビング用に置いていた10年物の日立のプラズマTV「wooo」が映らなくなったからだ。すぐに新しいテレビを買いたいと思ったが、「どうせ買うなら良いものを」と「一番安い段階で買いたい」という思いから、購入まで3週間近くかかった。

どの製品が良いかを検討するのに、真っ先に調べたのは「価格コム」だ。テレビは絶対ソニーと決めていたので、売れ筋と満足度から早々に2機種に絞られた。「BRAVIA KJ-55X8500C」と「BRAVIA KJ-55X9300C」だ。あとは、実際に家電量販店に赴き、店員の説明と実機を見てからどちらかに決めることに。渋谷のYAMADA電機に行き、店員に話を聞いた。店員が薦めるのは「BRAVIA KJ-55X9300C」。映りも音質も全然違うとのこと。実際モノをみて、他のメーカーのテレビと比べても段違いに映りがキレイだったので、少々金額が高くなるが「BRAVIA KJ-55X9300C」に決定する。

次にどこで買うかだ。直近で高額家電を購入したのは洗濯機で、そのときは池袋のYAMADA電機でネット通販最安値での購入に成功していた。その経験を頼りに、銀行で金を下ろし「いざ!」と、同じく池袋のYAMADA電機に赴くが、完全に値段交渉に失敗する。リモコンを操作し「この人は購入する確度が高い」と踏み、店員が何度も声をかけてくるが、一様に「現金値引きは一切しない」とのこと。YAMADAのポイントカードを持っていない自分はポイント還元はそもそも眼中になかったが、ポイント還元を見越してもネット通販のほうが安い。また、通販では別途料金がかかる延長保証を含めてもYAMADA電機よりも安かった。YAMADA電機はネット通販との競合を無視することにしたのだろうか。早々に店頭購入を諦め、ネット通販の最安値で購入することに。

ネット通販の底値は230,000円だった。最安値を提示しているショップは全部クレカ決済はNG。クレカ決済でのポイントは諦めるとして、少しでも安い金額で購入しようとしばらく様子を見ることに。そして先週、次のソニーBRAVIAの新型が発売されることが発表されたタイミングで値段が下がり最安値を更新、225,000円に。目をつけたショップの延長保証料金も安かったので即購入。しかも入金後の2日後に到着するというスピード対応だ。ネット通販で有名な「PCボンバー」は配送物が大きいため1週間以上かかると表示されていたが。。。

で、先週の土曜日に自宅に到着。デカイ。そして重い。Youtubeにて開封・組み立ての動画がアップされていたので、見ながら組み立てる。組み立て・配線に1時間、初期設定に3時間以上。AndroidTVということでソフトウェアの更新にめちゃくちゃ待機時間がかかった。ネットはWifiで設定。少々手間取ったが問題なく通じた。「ホーム」ボタンで、スマホと同じようにいろんなアプリをテレビで楽しめる仕様であるが、アプリというものを日頃から使わない自分にとってはまるで無用だった。メリットを感じたのはYoutubeをテレビで見られるくらいか。良く視聴している猫の「まる」の動画を55インチの鮮明画面で見られるのは良かった。あとは、音声認識検索の精度に結構感動。NETFLIXのボタンはハード視聴しているので非常に便利だ。

画質と音質を映画のブルーレイで試してみる。
画質を確認するため「マッドマックス 怒りのデスロード」と「シングルマン」を流してみた。両作品も鮮烈な色彩美を堪能できるが、その発色は目を引くほどに素晴らしいものの、近くでみると画質が粗く見える。これはテレビのせいではなく、ブルーレイ画質が従来の1K仕様だからだ。つまり、4Kの実力を知るためには、4Kの映像でないとダメということだ。まーそれでも十分過ぎるくらい綺麗だけれど。


「サイコーな日だぜ」のニコラス・ホルト。


「自分は孤独を感じます」のニコラス・ホルト。

次に音質だ。「セッション」で試してみる。先の「マッドマックス~」で重低音を確認したが、画面のサイドにスピーカーが主張して搭載されているが、思いのほか響かない。前評判とおり、低音は不得意のようだ。「セッション」では高音を試す。っといってもドラム音なのだが。。。。結果はまずまずだが、音の抜けというか、音がクリアであることは間違いなさそう。それにしてもセッションのラスト9分の覚醒シーンは何度見てもアガる。いずれにせよ自分の部屋のBRAVIAの音質とは段違いで、映画鑑賞も十分に楽しめる音質であることがわかったので良かった。


ルーム 【感想】

2016-04-13 08:00:00 | 映画


ジャックの声が胸中に響く。女の子の声にも聞こえる無垢で澄んだ声だ。毎朝、目覚めたジャックはその愛らしい声で部屋にある1つ1つの置物に「おはよう」と挨拶する。ジャックを想い、「部屋」を幸福な空間に変えるための母の教えだろうか。一見、そこには当たり前の平穏がある。ジャックの傍らには常に、自分を愛し自分が愛する母親がいる。母と自分。3メートル四方の部屋。天窓からわずかに見える空。テレビから流れる映像。。。それがジャックが知る世界のすべてだった。

7年間の監禁生活から解放される親子を描いた本作「ルーム」は、感動的な親子愛を描いたドラマであるとともに、「部屋」と「世界」、「個人」と「社会」、「本物」と「偽物」の境界を見つめ、多面的なテーマをはらんだ映画だった。

物語の視点が終始、子どものジャックにあるのがユニークだ。閉鎖的な部屋の価値観しか知らない5歳児が、見て感じて触れるものを丁寧にすくい取っていく。彼が住む「部屋」は、外部の世界から遮断され第三者によって監禁されているという異常な環境なのだが、ジャックはそれを知る由もなく、彼にとっては当たり前の日常として存在するだけだ。それだけに新たな世界との遭遇は、彼にとって全ての価値観がひっくり返るほどの衝撃であり、その恐怖心と高揚感を見事に捉えた脱出シーンが素晴らしい。一方、ジャックの成長を見守る母ジョイはそれとはまったく違う。7年前に誘拐され監禁され、監禁された男にレイプされている。外の世界を知っていて、今の状況を異常と自覚し、外の世界に戻りたいと考えている。彼女は過去の脱出未遂による残酷な失敗によって、部屋から脱出をもはや諦めている。そんな絶望の中で唯一の希望は息子ジャックの存在だった。

そんなジョイを「息子想いの善き母親」という解釈だけでは終われない。子どもを宿し、生まれ出た子どもを慈しむ母性愛は、おそらく本能的なものだろう。彼女がとった行動は彼女自身のエゴにも映り、ジョイとジャックを独立した存在として描く本作の象徴的な描き方ともいえる。嫌がる息子に現実を押し付け、嫌がる息子に大きなリスクを背負わせる。「脱出することがジャックにとって真の幸せ」という信念もあっただろうが、そのためにジャックを利用したという側面は変わらない。「生まれた子どもだけ、外の世界で生活させる方法もあったのではないか?」という心ない第三者の発言も、もしかするとジャックの幸せを考えれば最良の選択だったのかもしれないのだ。しかし、ジョイはそんなことを考えようともしなかった。

本作は母性のエゴを見逃さず、甘い親子愛に溺れていない。ジョイにはジャックへの贖罪の想いが少なからずあったと想像する。だからこそ、ジャックとの束の間の再会にエモーションが爆発し、観客の胸を大きく打つ。

ジャックの動機は母を虐める男から母を救うことであり、外の世界に脱出することではなかった。「配達」なしで好きなときに好きなだけ求めることのできる豊かな世界に順応しながらも、何もかもが不自由であった「部屋」に戻りたいとするジャックに、子どもの想像力の強さを見る。新たな世界を発見したジャックに対して、元の世界に戻ったジョイは、その平和な世界に順応することが難しい。7年間の牢獄生活の後遺症と、愛しいはずのジャックと密接してきた距離の反動ともいえそうだ。また、本作のプロモーションでよく流れていた「好奇の目で見る社会」は実際の映画を見てみると、それほど主張して描かれておらず、周りの社会はデリカシーをもって接しているようにも見える。無用な悪意を提示し、テーマが発散するのを避けたのかもしれない。

しかし、どうしても避けられないことがある。それはジャックが監禁レイプ犯の子どもであるという事実だ。ウィリアム・H・メイシー演じる父親のリアクションの描き方が誠実だ。無論、ジャックに罪はない。7年間の地獄の中でジョイの希望であり続けた存在でもある。ジョイの家族にとっては孫であると同時に、娘の命を救った恩人ともいえる。しかし、2人に待ち受ける将来を考えると複雑だ。今はジャックの愛らしい外見に隠れているが、成長とともに顔立ち、骨格など、憎むべき犯人のDNAを感じるシーンが出てくるだろう。ジャック自身も自らの出生秘密を探り、その父の存在を知ったときは苦悩するに違いない。拭うことのできない事実とどう向き合っていくのか。ジャックの視点から描かれているので、描くことが難しいテーマであるが、そこまで踏み込んで欲しいというのは欲張り過ぎか。少なくとも「ジャックが可愛い!」だけでは済まされない。

親子を演じたブリー・ラーソンとジェイコブ・トレンブレイの名演が忘れられない。ブリー・ラーソンの「ショートターム」でスルーされた悔しさ(個人的に)を見事に晴らしたオスカー受賞に心からの拍手だ。ジェニファー・ローレンスの若手演技派女優「一強」に待ったをかけた彼女の堂々の開花に、今後のアメリカ映画の活況を期待してしまう。そして本作の最大収穫はジャックを演じたジェイコブ・トレンブレイの発見だろう。一連の彼のインタビュー記事を見ていると、そのパフォーマンスは天然ではなく、実年齢よりも幼いジャックを客観的に捉えプロとして演技に臨んでいることがよくわかる。ジャックに起きた心理状況を掌握し、演技する相棒であったブリー・ラーソンとのマを理解しているようだ。つまり子役ながらいろんな演技ができる俳優ということ。今後の彼の活躍に目が離せない。もう1人の天才子役と注目する「ヴィンセント~」「ミッドナイトスペシャル」のジェイデン君との共演予定作にワクワクだ。

【75点】

ファーゴ シーズン2 【感想】

2016-04-09 10:00:00 | 海外ドラマ


先月末まで「スターチャンネル」で録りためていた海外ドラマ、「ファーゴ」のシーズン2を観終わったので感想を残す。

一言「傑作」。
全10話、すべてのエピソードが面白くてゾクゾクした。テレビドラマの枠でここまでのクオリティの映像作品を作れてしまうアメリカのエンタメ界に改めて敬意と憧れを抱く。

冴えない保険営業マンが、無敵のヒットマンに出会い人生を狂わせていく様を追ったシーズン1。そのシーズン1で彼らを追い詰めた女性警察官モリーが、まだ6歳の女の子だった27年前の話がシーズン2で描かれる(モリーが可愛い!)。シーズン1で警官を引退し、ダイナーで働いていたモリーのお父さん「ルー」が警察官として現役バリバリだった頃の話で、シーズン1でルーがヒットマンのマルヴォと対峙したときに昔話として語った「スーフォールズの虐殺」の全容が明らかにされる。

あらすじをざっくりまとめると、平凡で平穏に暮らしていた肉屋と美容師の若夫婦が、南北のギャングの抗争に巻き込まれていくという話で、その事件の解決に向けて若き日のル―が奮闘する。



シーズン1に続き、映画版から引き継ぐ世界観は「身の程知らずな人たちの転落劇」といったところか。取り返しのつかない失敗したのに「自分なら何とかなる!」という過信が大変な事態を招くというもの。悪あがきをする人間たちの様子は滑稽に映るものの、因果応報の言葉通り、次第に残酷で恐ろしい展開に陥ることになる。笑いとスリルの波状攻撃が本シーズンでも炸裂する。

「兵士は撃たれたり、地雷で吹っ飛んだ瞬間、「ある顔」になる。痛みが襲ってくる前だからそいつは起きようとする。『もう自分は死ぬ』ってことが理解できていないんだ。そして俺たちは嘘をつく「もう大丈夫だ」と。君たちはその言葉を聞いて安堵している顔に見える。もし何かしでかしたとして打ち明けるなら今だ。これを逃したら死ぬことになる。」

シーズン1と比べて、登場キャラが増え、語られるテーマも複雑化している。時代は1979年で、ベトナム戦争が終結して間もないが、皮肉にも戦争によって保たれていた道徳感や倫理観が失われつつあるという解釈のもと物語が作られている。これはまさに映画「ノーカントリー」と同じプロットで、古き良き時代のアメリカが、血と暴力によって支配される国に変貌してしまったことを嘆くようだ。

物語の発端は、北部ギャングの一大勢力、ゲアハルト一家の出来損ない三男の失態である。その男が予期せぬ殺人事件を起こしてしまうが、その殺人現場に車でたまたま通りがかった美容師の「ペギー」が、その事件にさらなる事件をかぶせてしまう。一見、平凡な女子に見えるペギーであるが、自己啓発に異常なまでに熱を上げるなど、少々人格面に欠落している部分があり、起きた事件は偶発だが、その事件を肥大化させたのは彼女がとった行動による。一連の事件に完全に巻き込まれたのが、ペギーの夫であり肉屋で働く真面目な男「エド」だ。ペギーがしでかしたことの後処理をする格好となり、お肉の処理は肉屋ならでは。確信犯的(笑)。

その事件と同じタイミングで、ゲアハルト一家は、南部で勢いを増すカンザス・シティーのギャングから家業の買収話を持ちかけられる。それはゲアハルト一家にとって圧倒的に不利な条件であり、「帝国を明け渡すか、死か」の2択を突きつけられた格好だ。ゲアハルト一家のボス「オットー」は脳卒中によって思考機能が停止したため、その妻である「フロイド」がゲアハルト一家の舵をとることに。悪行の英才教育を受けてきた長男の「ドッド」、次男で理性的で息子想いの「ベア」、ドッドの娘でドッドを心底憎むアバズレ女子の「シモーヌ」、ベアの息子で右手に障害を持つ「チャーリー」、ゲアハルト一家の忠実なヒットマンで無敵のインディアン「ハンジー」など、個性的なキャラクターたちそれぞれが展開のきっかけを生む動力になる。

彼らを脅かすカンザス・シティー(南部)のギャング側にもストーリーがある。ゲアハルト一家とは対極的で古いファミリー経営から脱却している組織だ。彼らは効率的なビジネス経営を目指している。その中でゲアハルト一家との交渉に当たるのが「マイク」という黒人ギャングだ。彼は相当なキレ者で、アフリカ系ながら己の才覚1つで組織の中で頭角を表している。組織の信頼を勝ち得て重要な交渉役へ登用されたマイクだが、そこはヤクザな世界の掟であって、失敗すれば「葬儀屋」が待ち受ける。マイクにとっても「成功か、死か」の2択。マイクの手下である無口のヒットマン「キッチン兄弟」のキャラも面白い。



狭い田舎町での事件だ。その町の住人であり州警察のル―は、エド夫妻とはご近所付き合いで親しい間柄だ。ル―の妻であり、モリーの母親である「ベッツィ」は癌を患っており、シーズン1でモリーのお母さんが早くに亡くなった背景が描かれる。シーズン1のモリーは実に魅力的な女性だったが、本シーズンを見ると、彼女の個性はお父さんの正義感とお母さんの洞察力を受け継いでいたことがよくわかる。ギャングという反社会的勢力が警察組織を牛耳っていた時代でもあり、凶悪なゲアハルト一家の圧力に皆が怖気づくなか、ル―はまったく動じず「ダンスする相手が違うぜ(相手は俺だ)。俺はお前らを恐れない。」と放つル―のカッコよさにシビれる。演じるパトリック・ウィルソンがハマり役で素晴らしい好演だ。



そう。シーズン1に引き続き、キャストたちのパフォーマンスも大充実。「前向きペギー♪」(笑)を演じたキルスティン・ダンストは程よく常軌を逸した狂人っぷりが最高に可笑しい。ブレイキング・バッドで冷徹な青年キャラを演じたジェシー・プレモンスは白豚のように脂肪を蓄え、ペギーへの愛ゆえに人生を翻弄されていく平凡男子を演じる。「バーンノーティス」のジェフリー・ドノヴァンは、本作では打って変わって粗野で凶暴で残虐性のある一家の長男ドッドを熱演する。そのほか、狡猾で野心的なマイク演じたボキーム・ウッドバインや、ゲアハルト一家のゴッドマザーとして威厳を放つジーン・スマートの存在感も際立つ。

シーズン1以上に、見方によって主人公が変わるドラマでもある。だから本作は面白い。事件に巻き込まれたエド夫妻や、事件を追うル―を主人公として見ることは勿論だが、瀬戸際に立たされるゲアハルト一家を主人公として見ることもできるし、彼らを駆逐し、南部のギャング組織で出世を目論むマイクを主人公として見ることもできる。そして後半からは、ゲアハルト一家の手下に過ぎなかったハンジーの存在感が効いてくる。当時の社会におけるインディアンという彼の位置づけや、彼がなぜ凄腕のヒットマンになり得たのかという背景も説得力がある。



シーズン1と比べて、描く設定が多いせいか説明不足により引っかかるポイントは多い。未確認飛行物体のクダリは、当時の話題を盛り込んだ結果なのだろうが、未確認飛行物体を物語に絡めた理由は最後までよくわからなかった。また、事件に終止符を打ったハンジーの動機は何となくわかったのだが、とても重要な部分なので明確な事実としてもう少し手ごたえが欲しかった。最終話は逆に語りが多すぎてやや冗長に。

シーズン1を超えるドラマではないが、シーズン1と比較しても全く引けをとらない面白さといえる。特に本シーズンは1970年代末期の時代性をふんだんに取り入れ、ドラマの世界観に相乗されているのが非常に巧い。

抜群の脚本に抜群の演出。
シーズン1に引き続き、本作を指揮したノア・ホーリーはタダものではない。本作の新シーズンとなるシーズン3の製作も決定しているようで、リリースは2017年とのこと。今度は誰がキャスティングされるのだろう。ワクワク。しばらくの辛抱だ。

【90点】

ファーゴ シーズン3 【感想】


ジ・アメリカンズ シーズン2 【感想】

2016-04-03 10:00:00 | 海外ドラマ


NETFLIXにて「ジ・アメリカンズ」のシーズン2を観終わったので感想を残す。

全13話。やっぱりこのドラマもA級。素晴らしい完成度。
最終話に明かされる、まさかの真実に様々な思いが交錯。凍りついた。
あと、フィリップとエリザベスの変装がますます面白い。

シーズン1に引き続き、フィリップとエリザベス夫妻はアメリカでの諜報活動に勤しむ。本部から命令されるミッションはどんどん難易度を増していく。彼らの隣人であるFBIのスタンは、前シーズンでフィリップたちを一旦追いこんだが、本シーズンではそれどころじゃなくなる。

このドラマが面白いのはアメリカ製作のドラマなのに、ソ連側の大義を正義と信じる人たちを描いている点であり、視聴者の感情移入の対象もアメリカ側でなく、ソ連側のフィリップたちにある。視聴者は彼らの活躍を望む格好となり、俯瞰するとそれはアメリカの自虐にも見える。本シーズンではその傾向がさらに強まり、FBIがKGBに完敗する。FBIの無能さとKGBの有能さが際立つ。

シーズン1を観る限り、両者の攻防にこそスリルの源泉があると信じていたのだが違っていたようだ。では、つまらないか?といえば、とんでもない。本シーズンも非常に面白い。

本シーズンは「家族」を見つめる。
今回、フィリップたちと全く同じ境遇にある、もう一組の家族が出てくる。どちらの子どもたちも両親が敵国の工作員であることを知らない。彼らはフィリップたちにとって数少ない、理解を共有できる仲間であり、友情に近い関係を築いている。「仮面」として家族を始めたが、子どもたちへの愛がリアルで深いことも一緒だ。しかしながら日常生活の中で交流することは当然叶わず、それでも互いの家族の成長を見届けたいがために、遊園地で遠巻きに眺めるシークエンスが切なくも暖かい。

その遊園地での両家族の団欒の最中、思わぬ惨劇が起きる。それが本シーズンで描こうとするテーマの始まりだ。

フィリップたちの諜報活動は常に命の危険と隣り合わせだ。多くの人たちを殺し、多くの人たちを利用し続けてきた。そんな彼らに平穏はない。猟犬のようにFBIも追いかけてくる。もちろん彼らは最悪の事態も覚悟のうえだ。しかし、彼らにもタブーがある。それは愛する子どもたちの存在だ。子どもたちは絶対に浸してはならない聖域であり、フィリップとエリザベスは互いにそのことを誓い合っている。そこでまさかの事件が起き、彼らが守り続けてきた家族にも脅威が目前にあったという現実を突きつけられる。折しも、シーズン1から子どもたちは成長を遂げていて多感な時期に入っている頃。特に長女のペイジは、両親であるフィリップたちへの疑念を拭いきれない。確証はないのに感じ取ってしまう子どもの感性の描き方が誠実だ。また、ペイジは親に反抗しながらも自分の生き方を模索する。そこで悲劇にあった、もう一つの工作員家族の存在が繋がってくる。

事件によって取り残された青年の姿は、自分たちの子どもの行く末になるのか。信じてきたフィリップたちの理想は幻想になるのか。。。
衝撃の真実が明かされ彼らの信念が揺れ動く。その答えはシーズン3で見えてくるだろうか。
いやはや素晴らしい脚本。これぞ映画レベルの海ドラである。 日本のテレビドラマ界にも爪の垢を煎じて飲ませたい。

また本シーズンも色恋によってキャラクターたちの行動がコントロールされる。いろんな意味で粗くて脆かった時代だからこそ、ドラマとして描くのに面白いのだと実感する。あれほどクレバーで勇敢だったスタンは本シーズンで、美人KGBのニーナにすっかり骨抜きにされる。 前シーズンでは硬派に見えたスタンがメロメロになってしまうのはあまりカッコよくないが、その結果、スタンの家庭にも大きな影響を及ぼす。女性は男の色情に気づきやすいのだ。スタンの自業自得。

円満なフィリップ一家、崩壊寸前にあるスタン一家、崩壊して消えた工作員一家と、本作では様々な家族の形を提示する。

そんな家族たちを観て思ったのは、家族っていいなーということ。フィリップたちの子どもであるペイジとヘンリーが純粋で可愛いのなんの。ペイジが親たちを怪しんで深夜に親の寝室をのぞき見る。そこで「あるある」の光景を目の当たりにする。家族の中にもプライバシーというものがあって、親子の間には愛情だけでなく、双方の信頼関係が必要なのだ。フィリップたちが子どもたちに対して1人の個人として接しているのが印象的だ。とはいえ、ペイジの行動について頭ごなしに否定することも多いけれど。子育てに悩み、子育てに奮闘するホームドラマとしても見応えがある。

本作で少し物足りなかったのは、フィリップたち(工作員)の諜報活動と、FBI・KGBの攻防が交わらなかったこと。次のシーズンでは3者が絡み合う予感がする。楽しみだ。

その第3シーズンは一昨日からNETFLIXで配信が開始された。ありがとう!

フィリップ演じるマシュー・リスとエリザベス演じるケリー・ラッセルは実生活でも恋人関係にあり、今年に入ってエリザベスが懐妊したという。本作のファンとしては嬉しいニュースだ。

【80点】




バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生 【感想】

2016-04-01 09:00:00 | 映画


DCコミックムービーの逆襲が始まった。マーベル vs DCのことだ。「アベンジャーズ」に対して「ジャスティス・リーグ」。本作でいよいよガチンコ勝負に出るかと思いきや、本作はマーベルによって築かれてきたようなヒーロー映画のセオリーに逆らってみせる。そのセオリーとは観客が求めるものであり、誰が見ても共感できる「論理性」と誰が見ても楽しめる「痛快さ」が肝心だ。本作の製作者がどこまで意図して作ったかは別として、観客のウケは本作を観る限りDCの敗北だろう。奇しくも、ヒーロー同士が喧嘩するプロットがカブった、来月公開の「キャプテン・アメリカ」は興行、評価ともに大成功すると思われる。酷評が吹き荒れている通り、多くの欠点を持った本作を「駄作」とレッテルを張るのは簡単だ。しかし、自分は本作をそこまで嫌いになれない。

前作「マン・オブ・スティール」の続きの話だ。スーパーマンとゾット将軍の戦いによって街はめちゃくちゃに破壊された。地球滅亡の危機を救ったはいいものの、スーパーマンの並外れた力によって被害は拡大したはずだ。「こんなに破壊してしまったら、地上の人たちは巻き添えを食っているだろうに(苦笑)」というツッコミを本作は真に受けていて、前作の戦いによって多くの人命が奪われたという事実を物語の始発点にしている。当時、スーパーマンの存在をリアルタイムで知らなかった一般市民は、上空の光景を見て「2人のエイリアンが街を破壊している!」と思ったに違いなく、その視点の代表者として本作では「バットマン」を登場させている。

これまで異なる製作者、キャストによって映画化されてきた「バットマン」。直近の「ダークナイト」シリーズが最も多くのファンと取り込んでいる思うが、「ダークナイト」はDC映画ではなく、ノーラン映画なので切り離して考えるべきだろう。本作のキャスティングが発表された当時、「なぜクリスチャン・ベールじゃないんだ~」と思っていたが、それはまったくの愚問だった。本作のバットマンは「ジャスティス・リーグ」に繋げるという新たな役割を担っているキャラクターである。これまで描かれてきたバットマン像と区切りをつけるため描き直す必要があり、本作ではご丁寧にバットマンの幼少期まで遡り、彼がバットマンへと目覚めた経緯を駆け足ながら振り返っている。その内容が既知であっても、同じ世界観の中で描くことに意味があったということ。

本作は「マン・オブ・スティール」の続編ではなく「ジャスティス・リーグ」の第一章だった。そして、そこに全ての欠点の温床があるように思えた。「マン・オブ・スティール」から「ジャスティス・リーグ」への移行は、もっと時間をかけるべきだったのではないか。複数に分けるべきボリュームを1本の映画にまとめてしまったがために、本来描かれるべき内容がスルーされ、いくつかの物語が破綻しているように思える。大きいところでいえば、バットマンとスーパーマンが戦わざるを得なくなった状況作りが弱い点か。2大ヒーローの対決については、観るまで「客引きのための話題作り」と斜に構えていたが、実際観てみると「殺さず」の戦いに象徴されるように人間が持つ道徳心を重んじ、限られた生身の能力で戦うことに意義を見出すバットマンに対して、強大なパワーですべてのルールを叩き潰すスーパーマンという構図はなかなかドラマチックであり、相反するものとして対決させる設定は全然ありだと思えた。問題はその描き方だ。2人の動機づけが不十分であり、その発端を作ったレックス・ルーサーが、そもそもどうして強大な力に魅せられたのかもあまり説明されていない。予告編で観た通り、2人は喧嘩を終えたのち、真の敵を打ち倒すべく一緒に共闘する流れになるわけだが、2人の仲直りがあっさりし過ぎていて思わず笑ってしまった。

本作で新たに加わるのが「ワンダーウーマン」である。彼女の登場シーンに「ジャジャーン!」と全く異なるスコアが流れ、演じるガル・ガドットのカッコよさも手伝い本作の中で一番アガる。しかし、ワンダーウーマンのメタヒューマン(超人)という設定が、本作のテーマをさらに膨らませ窮屈にさせる。人知を超え不可能を可能にするスーパーマンはいわば「神」。バットマンは「人間」。その間に「超人」が割って入る。超人の存在を明らかにする描写が、とってつけたかのようなわざとらしさ。本作では「神」vs「人間」に留め、次の2本目で「超人」を本格的に登場させたほうが、論理性を伴う必要な動機・背景を加えることができたのでないかと思う。超人に対する詳しい説明は次回のお楽しみなのかもしれないが、今のところXメンのミュータントとの違いが全くわからないし、本作で登場させた必然性もないので違和感が残った。あと、個人的には前作の「マン・オブ・スティール」が好きだったので、純粋な続編を観たかったという思いも残る。

いろいろ欠点を上げればキリがないけれど、2人の対決を通して見える「神」と「人間」の考察はとても興味深かった。「全能の神は善人ではない」という言葉に表されるとおり、すべての人間に対して平等に恩恵を与える神などは存在しない。いかなる状況のいかなる人間の危機も救うことができるスーパーマンであっても、誰かを救う一方で、間接的にでも誰かを傷つけるに至る。本作ではそれをわかりやすく見せるために「身内にだけ優しい」スーパーマンの盲目っぷりが強調されている。ラストの結末も「神」に対する考察の延長上にあるように思えて深く感じ入った。本作の監督ザック・スナイダーが手掛け、「英雄」像に迫った傑作「ウォッチメン」にも並ぶテーマ力とダークさ。これはマーベル映画では絶対に描けない領域だ。

ザック・スナイダーの代名詞である過剰アクションにも大いに沸いた。やっぱりツボ。アイアンマン化したバットマンは、その説明不足はさておいて、観ていて許容の範囲だった。あんなことでもしないとパワー均衡が取れないし。最大の見どころはバットマンによるスーパーマン母の救出劇のシーン。自分の肉体1つで、バッタバッタと敵をなぎ倒すアクションが痛快。演じるベン・アフレックもかなり肉体をビルドアップさせている模様。ひたすらゴツいアクションが気持ち良い。ワンダーウーマンの剣と楯という一見クラシカルな武装ながら、超人的な力を発揮する攻撃も楽しかった。キャストの演技パフォーマンス面では、レックス・ルーサー演じたジェシー・アイゼンバーグが想定外にハマっていたのが良かった。いつもの早口キャラなのだが、その中にもしっかり狂気が見えていて巧い。前作に続きスーパーマンの恋人を演じたエイミー・アダムスはいささか老けてしまった印象。

「ジャスティス・リーグ」への展開として、「ワンダーウーマン」と「アクアマン」の公開が決まっているらしい。本作で示した方向性を維持していくのか、本作での酷評を反省材料として軌道修正するのか気になるところだ。同じDC映画で、今秋公開の「スーサイド・スクワッド」では新たな基軸を見せてくれそうなので、その勢いのままマーベル映画とは一線を画す我が道を辿ってほしい。

【65点】