言葉を失う。
絶望の生々しさに触れ、形容する言葉が見つからない。安易に「衝撃」という言葉を用いることすら躊躇われる。物語はフィクションだが、人が人を無造作に殺戮する凶行はほんの70年前に確かに実在した。狂気の果てにあるのは地獄。その世界を体験し、観終わってしばらく茫然とした。劇場を出た足取りが重い。
ハンガリー映画の「サウルの息子」を観た。
カンヌをはじめ、昨年の賞レースを席巻し、来月のアカデミー賞外国語映画賞も受賞確実といわれる話題作だ。「さぞ面白いのだろう」と軽いノリで鑑賞にのぞんだが、とんでもなかった。オープニングのほんの数分で絶望の鈍器で全身を打ちのめされた。人が生を乞いながらも、慈悲なき閉塞の中で死へ突き進む。。。その断末魔を目撃してしまった。
本作で初めて聞いた「ゾンダーコマンド」という言葉。第二次世界大戦下、ユダヤ人強制収容所ホロコーストでナチスに代わり、同胞のユダヤ人を死に追いやる、ユダヤ人収容者の特殊部隊の名称だ。彼らはユダヤ人の収容者の中から選抜されるが、死を免れるわけではない。しばらくその任務に従事したのち、他の同胞と同じく殺される運命にある。ナチスの目的はユダヤ人をこの世から消すことであり、そのためにホロコーストがあった。列車から多くのユダヤ人が集約的に運び込まれ、「まずシャワーを浴びて」と安心させたのち、ガス室に送り込む。扉を締め切って、苦痛と恐怖の嗚咽が聴覚を突き刺したのち、扉を開ければ死体の山ができている。床一面に広がるのは体液と血液。死体を搬出し、まだ呼吸のある者の息の根を止め、次のユダヤ人のために大急ぎで床の清掃にかかる。ガス室の稼働がいっぱいになれば、火の穴に強制的にユダヤ人たちを放り込む。そして最後に残った灰は、殺戮の証拠を残さぬために川にばらまかれる。想像を絶する地獄の世界がかつてヨーロッパに実在した。
本作の主人公「サウル」はゾンダーコマンドの1人だ。撮影カメラはラストの一部を除く全編に渡り、サウルの肉体に密着する。ホロコーストの地獄絵も、サウルの身の回りで起きる事件も、彼の半径20センチくらいの隙間から見える光景だけだ。そのわずかに見える光景すらも、ソフトフォーカスを多用し視界を霞ませている。観る者の想像力によって見えない光景を映し出す狙いだろう。カメラは俯瞰で全景を捕らえることを避け、サウルの視点を崩すことを嫌う。そのアプローチに慣れずに窮屈だった序盤から、時間を追うごとに、サウルの視点が自身の視点に変わっていることに気付く。客観ではなく主観によって観客は物語に参加する。そして劇場にいながらにして、ホロコーストの真っ只中にいることを体感させられる。
サウルはまったく表情を変えない。彼自身も遅かれ早かれナチスによって殺されることを自覚している。ナチスの命令に従い、黙々と同胞の命を奪う作業に徹している。感情を殺しているのか、感情を失っているのか、いずれにせよ絶望の世界で生きながら死んでいる人間の、リアルな反応なのだと思えた。そんなサウルに変化の時が訪れる。ガス室で殺された死体の中に自分の息子を見つけるのだ。そして、その死体が解剖室送りなることを拒み、ユダヤの方法で埋葬するために懸命する。原題のタイトルにもなっている「息子」であるが、おそらく彼が持ち出した死体は、彼の息子ではないと思われる。しかし、その事実関係は本作においてはあまり重要ではない。本作から見えてくるのは親子愛といった性質のものではなく、人間の在り方や人間の尊厳というテーマに踏み込んだものだからだ。
もはや息をしていない肉体だ。自らの生を一日でも永らえることで精一杯な収容者たちにとって、そんな死体に構っている余裕などない。死体を隠し、その死体を弔うためだけに収容者の中からラビ(聖職者)を探すために奔走する。それはナチスの命令に背く行為であり、彼の行動は周りの収容者たちを危険に晒す。サウルの行動は本来然るべきものだが、その状況下においては完全なエゴに見える。それでも、彼は取り憑かれたように息子の埋葬を諦めようとしない。サウルがそこまで埋葬に固執する理由を明確に捕えるのは難しい。人間性を維持するための行為というだけでは説明がつかず、ユダヤの信仰が深く関わっているものと考える。無信仰でありユダヤ教の概念すら知らない自分にとっては、本作を普遍的な物語として租借することができなかった。
いま、ドイツ首相のメルケルさんが頑張っている。シリアの難民問題だ。ドイツが戦後から現在に至るまで人道主義を貫いているのは、本作で描かれたような歴史の汚点を理解しているからだ。その一方で、アメリカでは「イスラム教信者の排斥」を声高に公言している人もいる。人種排斥の価値観が錯綜する現代にあって、世界の多くの人が見なければならない映画だと思う。10年以上前に自分も訪れたことのある本作の舞台だが、当時本作を観ていたら、その場で感じた空気も違っていたはずだ。
物語のラストに大きな変化が訪れる。監督のネメシュ・ラースローは悲惨なリアリティを伝えるためだけに、本作を特異な方法で描いたわけではないことがわかる。それは寓話的であり、死者たちの魂が天国へ導かれたことを意味しているようだった。
【75点】