昨日は「父の日」でした。
私が住まいしている大阪・熊取の山の手台住宅地内でも宅配便が何回も行き来するのを見かけました。
父親に限らず世の親は、子供から贈られるものはどんな品物でも嬉しいものです。
昨日は我が家でも2人の愚息がプレゼントを贈ってくれました。毎年のことながら、父親冥利に尽きる最高の一日でした。
「父の日のプレゼント」は、父親の好きなものを贈るのが一般的ですが、gooが調査した「子供から貰いたいプレゼント」の今年のランニングの5位までの品物は次のようになっていました。
1位、ネクタイ
2位、お酒
3位、トレーニングシューズ・ウォーキングシューズ
4位、トレーニングウェア
4位、洋服
で、4位と5位は同順位となっているようです。
なお、10位までのランクには入ってはいませんが、今年は「おしゃれステテコ」に人気が出ているそうです。
従来ステテコと言えば親父の定番アイテムでしたが、今年はカラフルでポップなステテコが売り出されて人気が急上昇しているそうです。
このステテコは父親世代や若い人たちにも支持されているようですね。
先日、自転車がパンクしていることに気づきました。稀にしか乗らない自転車でも、乗れないと不自由なので修理をすることにしました。
今日はその模様をご紹介します。
先ず、タイヤからチューブを出します。タイヤが固いので、リムからタイヤを外すのが一苦労です。
方法は、へらのような道具を2本使用し、「てこの原理」を応用してリムからはずします。
タイヤが外れると中からチューブを引き出し破れている個所を探します。
・タイヤを外してチューブを出したところです。
破れている個所を探す方法は、チューブに空気を入れて水につけます。
穴があいている個所からは空気が漏れてぶくぶく泡が浮いてきます。
・泡が浮いているところが破れている個所です。
修理の道具はホームセンターに売っているパンク修理セットを使用します。
この中には修理用のヤスリやゴム糊、補修用のゴムなど一式が入っています。
・パンク修理セットです。
先ほど見つけたタイヤの穴のあいている個所をヤスリでこすって汚れを落とします。
・中央の窪んだ処が破れている個所です。
破れている個所を中心に、ヤスリでこすった部分にゴム糊を塗ります。
ゴム糊がよく乾くまで待ちます。
補修用セットの中にある貼付け用のゴムを取り出し、タイヤの穴をふさぐように貼り付けます。
この貼付け用のゴムには予めゴム糊が塗ってあるのでそのまま使用できますが、もし、このゴムがなくなった時には不要になったタイヤのゴムを切り取ってゴム糊を塗り、十分乾かして貼ってもOKです。
・貼付け用のゴムを貼り合わせたところです。右側は以前修理した個所です。
貼った後は手のひらでたたいたり、抑えたりして密着させます。
その後、シールをはがしてパンク修理は出来上がりです。
チューブをタイヤの中に納め、タイヤをリムにはめ込んで空気を入れればパンク修理は完了です。
私は自転車のパンクくらいは自分でも修理出来ますが、それ以外でも出来るだけ補修するようにしています。
現在は物を使い捨てる時代ですが、古い物を補修しながら使用し続けることもまた大事であると思っている一人です。
先日、家内の実家で「ビックリグミ」の実が赤く熟しているのを見つけました。
グミの実は子供の頃よく食べていたので、懐かしさにつられて、撮影したり、食べたりして童心に帰りました。
今日はその時の「ビックリグミ」をご紹介します。
・2本植えられているグミの木です。
ビックリグミはジベレリン処理やトマトーン等のホルモン剤を散布するか、別品種のナワシログミやタワラグミの花粉を人工授粉しないと実がつきにくいそうです。
実家のこの木は別品種の木を植えているものの昆虫による交配が出来ていなかったので、まばらに実がついている状態でした。
ビックリグミの果実は楕円形をした2㎝以上の大粒で、赤く熟すと甘味があります。
苗木の札には『果肉もやわらかく、多汁になり、とろけるように甘くなります』と説明されていますが、私が食べた味覚では、サクランボと同等くらいの甘さがあるように思いました。
名前の由来はビックリするくらい大きな実がつくことからこのように呼ばれているそうです。
ビックリするほどでもないですが、2㎝以上もある大きなグミの実は、色艶がよく、見た目はまるで“赤いダイヤ”です。
子供の頃、山に生えている1㎝弱の小さなグミ(岡山県ではビービーと言います)の実をよく食べたものでしたが、この「ビックリグミ」をつまみ食いしていると、幼かった頃の思い出が一気に蘇りました。
東日本大震災で日本に対する支援・激励が世界中から集まっています。
よく見かけたものを書いてみました。
・Japan we are with you (日本へ 私たちはあなたたちと一緒です)
・Pray for Japan (日本のために祈りましょう)
・Japan we share your grief (日本は、私たちはあなたの悲しみを共有します)
・I love Japan Ganbatte (日本大好き ガンバッテ)
など
テレビや新聞のニュースで過去、これほど「Japan」の文字が取り上げられたことがあったでしょうか?
本当に有難いことです。
そこで、今日は「Japan」の由来について調べました。
日本のことを英語で「Japan(ジャパン)」というのは、マルコ・ポーロの旅行記『東方見聞録』で日本を示した「ジパング」に由来するといわれています。
では、マルコ・ポーロはなぜ日本を「ジパング」と言ったのでしょうか?
イタリア人のマルコ・ポーロは1271年に東方の中国を目指して旅に出ました。
旅の多くを中国で過ごした彼は更に東にある日本のことを伝え聞き、そこで当時の中国の地方の言葉で「日本国」を「jih-pun-guo」のように発音していたのを聞いて、「ジパング」として紹介したと言われています。
この「ジパング」の表記は写本によってさまざまで「Cipngu」「Chipangu」「Zipangu」などと書かれていたようです。
16世紀中頃には英語の「Japan」が使われるようになり、英語だけでなく、ドイツ語の「ヤーパン」、フランス語の「ジャポン」、スペイン語の「ハポン」なども「ジパング」が由来といわれています。
こうして英語表記の日本は「Japan」となったそうです。
意外にも、「Japan」の由来となった「ジパング」は、漢字を使用しているお隣の国、中国の発音がもとになっていたのですね。驚きました!
なお、マルコ・ポーロの『東方見聞録』は、帰国したのち、旅で見聞きしたことを物語作者に口述筆記させて1298年に完成させたと言われています。
梅雨に入ってから連日、蒸し暑く、じめじめした不快な日が続いています。
このような時には一刻も早く風呂に入って汗を流したいですね。
そこで今日は風呂の語源について調べました。
調べてみると、日本の風呂は、自然の石穴や窯に蒸気を充満させた蒸し風呂形式のものだったようであり、そのため、穴蔵や岩屋のことを言う「室(むろ)」が「ふろ」に変化したと言語学者の柳田国男氏は言っています。
また、茶道で使われる「風炉(ふろ)」という道具がありますが、この道具は元々火を入れて暖をとったり湯を沸かしたりするもので、沸かした湯の蒸気を利用した蒸し風呂もあったことから、「風炉(ふろ)」と書かれたのが後に「風呂」になったとも言われています。
なお、日本人の風呂好きについては次のように言われています。
奈良時代、主たる寺院には大きな浴室、湯屋が備えてあり、僧侶が仏に仕えるため、垢を落として清浄にする場所として使われていました。
それを「施浴(せよく)」と言って、寺を訪れる貧しい人や病人などにも開放していたことから風呂の習慣が根付き、更に、江戸時代になると井戸を掘る技術が発達したために蒸し風呂ではなく沸かした湯につかる風呂の形態に変わって町には銭湯が増え、それに伴って風呂好きの人が飛躍的に増加したと言われています。
今日は「トマトの雨除け」についてご紹介します。
「トマトの雨除け」は、雨による裂果防止と、梅雨時期の水分の抑制、更に、疫病、葉かび病などの予防目的で行います。
このため、色づき始めると早めに雨除けをする必要があることから、我が家でも先日「雨除け」のビニールを覆ったところです。
私は1.8mの市販のアーチ支柱を使用し、その上から幅1.8mのビニールシートをアーチの左右に架けて雨除けとしています。
この簡易な雨除けで、裂果防止の目的は十分果せますが、ビニールシートが薄いことから強風が吹くと破れるので、叶うならばビニールハウス用の厚いシートが理想です。
一番成りの果実が熟れてきた中玉トマトです。
ミニトマトも色づき始めました。
二番成りが色づき始める頃には、ヒヨドリとアライグマからの被害を防ぐため防鳥網を張ります。
6月10日から昨日まで,所用があってブログの書き込みを休ませていただきました。
今日からブログを再開しましたので、引き続きご愛読くださいますよう宜しくお願いします。
家庭菜園をしていると珍しい作物に出会うことがあります。
今年も先日からキュウリの収穫が始まりましたが、一番成りの二節目に2本がくっついている珍しいキュウリが実っていることに気づきました。
私はこのキュウリを“双子のキュウリ”と名付けました。
普通、キュウリは下の画像の左の茎のように1本ぶら下がって実りますが、この“双子のキュウリ”は右側の茎の根本に2本くっついて実っていました。
このようなキュウリは市場に出回ることはないので読者のみなさんは初めてご覧になることと思いますが、菜園をしている私もこのような“双子のキュウリ”をみたのは初めてです。
・これが“双子のキュウリ(胡瓜)”です。
珍しいと言えば、昨年の8月20日にはハート型のナスが出来たことをご紹介しました。
ハート型のナスは、このように2個のナスが蔕(へた)の先から分かれて成長しているもので、画像を逆さにしたものが上の画像です。
更に、昨年6月24日にはこのような“悩ましい大根”が出来ました。自然に栽培した作物にしては出来過ぎた芸術作品です。
この大根に可愛い顔をつけて汚れを落とせば、“ミス○○”と言われてもいいような八頭身美人に変身します。
この大根の品種は「青くび大根」です。そこでダジャレで一首。
「収穫で 抜いた大根 おったまげ(おっ魂消) 首はなくても 青くび大根」
“熱海の観光”シリーズ、は本日が最終回となります。
今回のシリーズは、熱海市で高校のクラス会を開催したことに伴い、自由時間の範囲内で観光スポットを巡ったものです。
さて、クラス会の翌日、私たちはバスで熱海から十国峠を経て箱根に行きました。
関西に住む私たちは滅多に霊峰富士を拝むことがなく、十国峠からの富士山の眺望を楽しみにしていましたが、当日は生憎の曇天で顔を見せてくれませんでした。
箱根と言えば、毎年正月に行われる東京箱根間大学駅伝でお馴染みですが、芦ノ湖畔にはその選手たちを讃える 『箱根駅伝栄光の碑・若き力を讃えて』と刻まれたランナーの銅像が建っていました。
その銅像の傍には“駅伝を讃えて”という勝氏の詩碑がありましたのでご紹介します。
“駅伝を讃えて”
若い豹は春の象徴
君たちが走ると 東海に春がよみがえる
富士はおおらかに微笑み
相模の海は夢多い調べをおくる
君たちは意思と力の群像
君たちは青春の花々
赤や海老茶や紫が入りみだれて
春のさきがけのテープを織りなす
君たちは光のようにはつらつと走り
町々を 並木を 野を 山を
呼びさます 春のつばさ
東京箱根間大学駅伝
二日間のレースは
二つないスポーツの交響楽
自然の美とスポーツの美の
明るく開ける新春のフィルム
よろこびと涙を
わかち合う二百二十キロ
若い日の楽しい感激よ
勝 承夫
私たちは、芦ノ湖の箱根町港から遊覧船“海賊船”に乗り、湖畔の眺望を楽しみながら桃源台港まで湖を縦断しました。
・芦ノ湖に面して立つ箱根神社の平和の鳥居です。
・芦ノ湖の遊覧船から眺めた駒ケ岳です。
桃源台からケーブルカーを乗り継いで強羅まで行き、大涌谷の湯けむりを見学しました。
「黒い温泉卵」
大涌谷では真っ黒に茹で上がった温泉卵を販売していました。
珍しいこの黒い卵は、温泉に含まれる硫化水素と鉄分が結合し、硫化鉄となることからできるようです。
この卵はじっくり茹でて蒸すことで、独特な硫黄の風味とマイルドな味が特徴と云われています。
“1個食べると寿命が7年伸びる”とか云われているそうですが、5個500円は上手い商売ですね。
ケーブルカーから眺めた大涌谷の地滑り止めの工事現場です。
ケーブルカーと小田急電鉄を乗り継いで小田原まで下り、小田原から帰阪の途につきました。
(お詫び)
誠に勝手ながら、所用のため明日10日から5~6日お休みさせていただきます。
“熱海の観光”シリーズ、10回目の今日は熱海の海岸沿いにある観光スポットをご紹介します。
「熱海城」
熱海城は、昭和34年(1959年)に海抜100mの位置に建てられた外観5層、内部9階の、日本の城郭に見られる天守を模して造られた鉄筋コンクリート造り建築であり、天守閣風建築物と呼ばれるものです。
天守閣には浅野祥雲作の金鯱を戴いています。
この地は、三方が岸壁で城郭を築くには理想的な場所であり、北条家歴代の武将たちが築城を目指しましたが、果たし得なかったと伝えられています。
歴史上存在した城郭で無かったこともあり、完成当初はあまり注目されませんでしたが、1962年に公開されたゴジラ映画「キングコング対ゴジラ」のクライマックスで熱海城が登場して、キングコングと云う日米二大怪獣に破壊された事でたちまち有名になったそうです。
城内には、日本城郭資料館や武家文化資料館、浮世絵美術館などがあるそうです。
・「お宮の松」付近から10倍ズームで撮影した熱海城です。
「温泉コア」と「築城石」
熱海市街から海岸に下る途中に「温泉コア」と「築城石」の展示があり、次のように説明していました。
*「温泉コア」
円柱形の石は温泉井掘削時、地下200m~300mで出土したものです。現在の工法では取り出せず、非常に貴重なものだそうです。
*「築城石」
江戸城の築城石として熱海市下多賀より出土したものです。同地区は広島城主の福島正則、佐賀城主の鍋島勝茂が担当し、江戸城に運ばれました。石を割るためのくさびの形が現在でもはっきりと残っています。
「初代お宮の松」
お宮の松は、御存じのように尾崎紅葉の小説「金色夜叉」に由来して命名されたものです。この松は江戸前期(1645年頃)、知恵伊豆と呼ばれた老中松平伊豆守守綱が伊豆を巡視した際に植えさせた松の一本と云われています。
昭和24年のキティ台風の影響や観光地としての発展で道路の舗装や自動車の排気ガス等により枯れ始めました。
「初代お宮の松」の樹齢はおよそ300年と云われており、現在ここには切株が展示されています。
「二代目お宮の松」
熱海ホテルにあったクロマツを後継の「お宮の松」に選定し、小佐野賢治氏から寄贈を受け、添え松には小田原市の本多大四郎氏の所有する松を選び、昭和41年(1966年)に現在の場所に「二代目お宮の松」として完成したそうです。
この「お宮の松」の樹齢は平成23年(2011年)現在で105年、添松はおよそ85年だそうです。
「貫一・お宮のブロンズ像」
この像は熱海市在住の日展審査委員・館野弘青氏により制作され、熱海ロータリークラブが創立30周年の記念に昭和61年1月17日に熱海市に寄贈したものです。
「初島」
熱海市本土から南東の海上約10㎞の位置に「初島」が浮かんでいます。熱海港から高速船で25分の「首都圏から一番近い離島」です。
面積は0.437平方キロメートル、周囲は約4キロメートル、最高地点51m、人口は2006年9月現在243人だそうです。
・熱海の海岸から、10倍ズームレンズで撮影した初島です。
「豆相人車鉄道・熱海駅舎跡」
「豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう)」の熱海駅舎跡は現在の南明ホテルの場所だったそうです。ホテルの前には記念碑と説明板がありました。
それによれば、
豆相人車鉄道は雨宮啓次郎氏と地元の有志20余名の努力によって、明治29(1896年)年3月、熱海-小田原間25㎞全線が開通しました。所要時間は4時間ほどでした。
この人車鉄道は定員6名あるいは8名の客車を3名の人夫が押すと云う極めて原始的なものだったそうです。
「豆相人車鉄道」は日本最初のもので、明治40年(1907年)12月、軽便鉄道に代わるまでの12年間、貴重な交通として利用されたそうです。
(参考) 人車続行運転風景です。(人車鉄道の世界より)(写真は宮田憲誠氏所蔵)行運転風写真は宮田憲誠氏所蔵)
“熱海の観光”シリーズ、9回目の今日は「来宮神社」をご紹介します。
「来宮(きのみや)神社」
「来宮(きのみや)神社」の創建は次のように伝えられています。
社伝によれば、太古、「大己貴命(おおなむちのみこと:大国主命の別名)」が海上遥か西方(現:島根県)より諸神を率いて海を渡り、伊豆の国のこの地に着かれるや気候温暖にして温泉湧出し、更に海山の幸にも恵まれているのでここに居を定められ、当神社がその跡と伝えられています。
第12代景行天皇(在位71年8月~130年12月)の御世に東征した「日本武尊(やまとたけるのみこと)」を祀りし、第43代元明天皇の御世の710年(和銅3年)に「五十猛命(いけたけるのみこと)」をお祀りしました。
「五十猛命(いけたけるのみこと)」については次のように伝えられています。
今から1300年前の和銅三年六月十五日に熱海湾で漁夫が網をおろしていたとき、御木像らしき物がこれに入ったので、不思議に思っていると、童子が現れ『我こそは五十猛命(いたけるのみこと)である。この里に波の音の聞こえない七本の楠の洞があるからそこに私を祀りなさい。しからば村人は勿論、入り来るものも守護しよう。』との神託があり、漁師は村人たちとその洞を探し、熱海の西山の地に祠を造りお祀りしたというものです。
「来宮(きのみや)神社」参道です。
「本殿」
来宮神社の御祭神は「大己貴命(おおなむちのみこと:大国主命の別名)」、「五十猛命(いけたけるのみこと)」、「日本武尊(やまとたけるのみこと)」です。
案内板によれば、伊豆の国には古代から来宮信仰が広まっていたが、当社はその中でも最も著名にして諸願成就の神として広く神徳を慕われている。
即ち、御祭神の事蹟にあやかり、殖産興業、温泉守護、縁結び、禁酒、交通安全などを祈願する人々で跡を絶たないそうです。
「大楠」の由来
この大楠は来宮大神の寄代とされた御神木であって樹齢二千年を数え、之を一周すると一年寿命がのびると伝えられています。
この木の生命力にあやかり、不老長生、無病息災の象徴とされ、長寿・病気平癒・健康祈願のお参りをする参拝者が後を絶たないそうです。
また、願い事のある人は、思うことを誰にも云わず一回りすると願い事がまとまる、とも言われています。
「来宮(きのみや)神社」の大楠は、樹齢2000年以上、周囲24mもある全国二位の巨樹で、大正8年に国の天然記念物の指定されています。
「来宮弁財天」
案内板によれば、安永三年八月(約二百年前)、江戸に住いしていた大久保将監という徳川家武臣は自分の立身出世の為、奥州の金華山にもあらたかな弁財天が鎮座されていると聞き、はるばるこの弁財天をめざして江戸を出立しました。
江戸から祈願に来た理由を別当に告げると、神を拝する種々の修法を授けられ、将監は熱心に祈願しました。
更に、別当の言われるまま七ヶ年の間、日夜信心これ怠りなく務めたところ、宝殊の玉威徳があらわれ諸願が成就し、遂には官位豊前の守にまで出世したと云われます。
其の後、天明四年四月(約二百年前)、滝川殿という武臣は信心常に怠りなく務めたので、これまた、大願成就して、不思議にも老中の職にまでも出世されたと古記には記されてあるそうです。
・来宮弁財天です。