曽根崎から淀屋橋まで戻り、更に日本生命ビルの北側通りを東(北浜方面)へ向かって400~500m行くと適塾があります。
適塾は蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾で、正式には適適斎塾(てきてきさいじゅく)と言います。
この名称は緒方洪庵の号である「適々斎」が由来で、適々塾とも言われています。
「緒方洪庵」
緒方洪庵は備中足守(現岡山市足守)の生まれで、文政8年(1825年)に来坂して中天游(なかてんゆう:江戸時代後期の医師、蘭学者)に学びました。
その後、長崎での蘭学修行などを経て天保9年(1838年)、大坂・船場に蘭学の私塾『適塾』を開き、弘化2年(1845年)現在の場所にある商家を購入し大いに発展させました。洪庵自身も、大坂で最初の種痘を実施するなど医学者としても活躍しました。
明治初年に閉鎖されましたが、大阪府が大福寺(上本町)に仮病院・医学校を設立した際には、洪庵の次男で嗣子(しし)・緒方惟準(これよし)、義弟・郁蔵、養子・拙斎らが参加しており、この医学校は後に大阪大学医学部となっています。
・緒方洪庵の銅像です。
「適塾」
1階の奥が洪庵の家族の住居、塾生は2階で起居していました。
塾生のなかから、大村益次郎(ますじろう)・橋本左内(さない)・福沢諭吉・長与専斎(ながよせんさい)らを輩出しており、更に、漫画家・手塚治虫の曾祖父・手塚良庵も359番目の門下生として入門していたそうです。
塾生の勉強は他の塾とは比較にならないほど激しいものがあったということです。
福沢諭吉は自ら述懐して、「凡そ勉強ということについては、この上にしようも無いほど勉強した」と記しているそうです。
適塾は大阪のビジネス街の一角にひっそりと残る古めかしい建物です。
・適塾の隣には、緒方洪庵の像がある公園が整備されています
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同じ時代を生きた、東西の医師でありライバル。
天然痘治療に貢献した「緒方洪庵」
外科医で世界で初めて全身麻酔による乳癌手術に成功した華岡青洲」。
緒方門下の福沢諭吉によると、「適塾」と「漢方塾 合水堂」とは、塾生同士の対立が絶えなかった由。
東京在住のせいか、緒方洪庵は今一馴染みが薄く、華岡青洲は「新派の舞台」などで、見たことがございます。
「まんだらけ(朝鮮朝顔)」を使い、自ら麻酔の人体実験をする青洲に見かねた妻と姑が、実験台を志願する話「華岡青洲の妻」。
嫁姑の意地の張り合いと、青洲の二人への愛情が泣かせどころ。
二代目「水谷八重子」の姑と、昨年12月に亡くなった中村勘三郎の姉の「波乃久里子」の嫁が見もの。
争って実験台を志願し、より多い薬の量の為失明した妻の真情が哀れを誘います。
(らいちゃん)様も税務申告を済まされましたか。
お孫さん達にも恵まれ、お幸せそうですね。
世界で初めて全身麻酔による乳癌手術に成功するという偉業を成し遂げました。
奥さんもお母さん張りあっていましたが、よく青洲を支えたと思います。
その「華岡青洲の里」が和歌山県の紀の国市にあります。
まだ立ち寄ったことはありませんが、案内の標識は何度か見かけました。
付近を通ることがあれば一度寄ってみたいと思います。
福沢諭吉が友とふたりで素っ裸で寝転んでいたら、緒方洪庵先生の奥さまに見られてしまい、あの時ほど恥ずかし
かったことはないと書いたのを適塾で見て、すっかり諭吉が好きになりました。もっともお札の方がもっと好きでは
ありますが・・・。
辞書が1冊しかなかったので、みんなで奪い合うように筆写して勉強しあったとも書いていました。