らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

堺市内散策(その5)千利休

2013-10-26 | 地元紹介

堺「てくてくロード」散策、5回目の今日はも千利休屋敷跡と与謝野晶子の生家跡をご紹介します。

「千利休屋敷跡」
千利休(せん の りきゅう)は戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人で、わび茶の完成者として知られており、今井宗久、津田宗及と共に茶湯の三宗匠と称せられました。

ここの掲げられている説明によれば、堺の豪商・屋号・魚屋(ととや)の長男として生まれた与四郎(幼名)は、初め北向道陳(きたむきどうちん)に茶湯を学んだが、更に道陳の師・武野紹鴎(たけのしょうおう)に師事し、遂に「わび茶」を大成させました。

千 与四郎は茶名を千宗易と言い、織田信長・豊臣秀吉に茶頭として仕え、正親町天皇(おおぎまちてんのう)より利休居士の号(こじごう)を賜った。
天正15年(1587年)10月秀吉の北野大茶会をつかさどり、秀吉に次いで二番の席を設けるなど、天下一の茶人として茶器などにも種々工夫を凝らし、わび、さびの境地を切り開いた。

その後、天正19年(1591年)2月、秀吉の怒りをかい京都から追放されて堺に謹慎していましたが、京都に呼び戻され同月28日切腹させられました。
この屋敷跡には利休が茶湯に常用していたと言われる椿井が、また南宗寺には実相庵と称する二畳台目(2畳くらいの広さの平台で、官位の高い公家や大将などが座るのに用いる)の茶席がある。

・千利休屋敷跡です。


「椿井」
掲げられている椿井由来記によると、この地は江戸後期から明治中期までこの場所で酒造業を営んでいた加賀田 太郎兵衛が居住した場所です。
そして、嘗ては千利休の居宅や侘びた庵のあった場所でもあります。

「椿の井」という利休が産湯を使ったという井戸があり、ここに加賀田翁が居士を偲んで利休好みの茶室を建て、大徳寺の大綱和尚(大徳寺435世)を迎えて茶室開きをした時、和尚は利休の昔を懐かしむ心の茶室の銘として「懐旧」と名付け利休居士にちなむ茶蹟としました。

・屋敷跡に残る、千利休が茶湯に常用していたと言われる「椿井」です。


「与謝野晶子生家の跡」
与謝野晶子は明治11年(1878年)、菓子商・駿河屋の三女として甲斐町に生まれ、明治33年(1899年)、与謝野寛(鉄幹)と出会い、家を出るまでの22年間を堺で過ごしたそうです。
明治・大正・昭和を短歌とともに生き「情熱の歌人」と呼ばれ、同じ文学者鉄幹の妻であり、11人の子どもたちの母でもありました。
明治34年(1901年)に出版された「みだれ髪」は、鉄幹へのあふれる愛と青春のみずみずしさを歌いあげ、浪漫主義の代表作となっています。

・与謝野晶子生家の跡


「歌碑」
甲斐町の生家跡には「海こひし 潮の遠鳴り かぞへつつ 少女(おとめ)となりし 父母の家」の歌碑があります
 
  意訳:潮の遠鳴りをかぞえながら過ごした日と、 父母に慈しまれて育ったふるさとの家を思い、海がしきりに思われるのです。

・歌碑です。