らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

北御堂(本願寺津村別院)

2013-10-10 | 地元紹介

昨日の南御堂に続き、今日は中央大通りの北側にある「北御堂」をご紹介します。

北御堂は1496年に本願寺第8代宗主蓮如上人の手により、大坂に親鸞聖人から伝えられた「念仏」の教えを広めるため、現在の大阪城のあたりに一つの小さな坊舎(後の石山本願寺)が建てられたことに始まります。
しかし、織田信長との長い争いにより、本願寺は生み育てた大坂を離れなければならなくなり、そこで、大坂の門徒はこの地での「念仏」の灯りをまもるため、天満に近い「楼の岸」に新しい坊舎を建立しました。

その後、津村別院の名称の由来となった「津村郷」と呼ばれていた現在の地に移り、津村御坊は「北御堂」と称されるようになり、南御堂(真宗大谷派難波別院)と並んで大坂の人々に親しまれてきました。



この南北両御堂(御堂さん)の近くに、篤信の門徒(近江出身の商人など)が集まり、大坂の商業の中心「船場」の町が築かれました。
ここで働く商人たちは、「ひときわ大きな屋根を誇らしげにしている『御堂さん』の鐘の聞こえるところで商売を……」を合い言葉に商いに精を出したと言います。
当時の津村別院は、昭和20年3月の大阪大空襲で焼失してしまいましたが、その後、多くの方の支援により、昭和39年、西洋風の建物で復興し現在に至っています。
なお南北両御堂を結ぶ道は、この両御堂に因んで御堂筋と呼ばれるようになりました。

・北御堂の本堂です。


「蓮如上人(1415~1499年)」
ここに掲げられている説明によれば次のように書かれています。
本願寺中興の祖、第8代宗主です。
17歳の時、青蓮院で得度し、父存如上人(第7代宗主)に真宗の教えを学び、近江・北陸の教化に取り組み、関東の聖蹟を巡拝される。
真宗の再興を決意し43歳の時、本願寺を継いで近江の教化を進めていたが延暦寺衆徒によって本願寺を打ち壊されたため、河内・近江に移られる。
57歳の時、越前の吉崎に坊舎を建立。平易な言葉で記された『御文章』や今日も行われている「正信偈・和讃」によるお勤めを制定されるなど、積極的な伝道活動を行われる。
66歳の時、京都・山科に本願寺を再建し、その後、寺務を実如上人(第9代宗主)に譲られる。また82歳の時、大坂石山に坊舎を建立される。
この建立から3年後、85歳の生涯を終えられる。

・蓮如上人の銅像です。


「親鸞聖人(1173年~1263年)」
ここに掲げられている説明によれば次のように書かれています
親鸞聖人は浄土真宗の開祖です。
平安時代末期の乱世の中で、9歳の時出家し、以後20年間比叡山(天台宗)の堂僧として修行しますが、自力の修行によっては生死の迷いから離れることができないと思い切り、29歳の時、下山します。
その後、法然聖人のもとで本願他力の教えに出逢われます。
ところが35歳の時、念仏弾圧によって罰せられ恵信尼を伴って越後に流罪となりました。
赦免から3年後、越後から関東に移住し、約20年にわたって阿弥陀仏の本願に誓われた他力念仏の救いを説いて多くの念仏者を育てます。
63歳の頃、関東から京都へ戻り、主著の「教行信証」や「三帖和讃」をはじめ、数多くの聖教を撰述されて、弘長2年(1263年)11月28日90年の生涯を終えました。

・親鸞聖人の銅像です。