今日は2月26日です。
2月26日で思いつくのは74年前に起きた「2・26事件」ではないでしょうか?
この事件については、子供の時に歴史の教科書で習ったくらいで、当時は勿論のこと、今に至るまでその背景など全く理解できていません。
そこで、今日は改めて「2・26事件」について調べました。
「2・26事件」とは
2・26事件とは、昭和11年(1936年)2月26日にから2月29日にかけて、日本陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率いて、「昭和維新断行・尊皇
討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件です。
「事件の背景」
この事件の背景には、革命的な国家社会主義者の北一輝が記した『日本改造法案大綱』の中で述べた「君側の奸」の思想があります。
この思想の下、天皇を手中に収め、邪魔者を殺し、皇道派が主権を握ることを目的とした「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた安藤輝三、野田四郎らを中心とする一部の青年将校が、政治家と財閥系大企業との癒着が代表する政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況などの現状を打破する必要性を声高に叫んで行動を起こしたようです。
*「君側の奸」とは、君主に仕える臣下のうち、性情、行状が邪悪で君主に取り入って、その権力を背景に悪を為す者を指します。
「事件の概要」
事件の概要は、大日本帝国陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校らは、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を持って元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が終息すると考えていました。
彼らは、この考えの下、1936年(昭和11年)2月26日未明に決起し、近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの部隊を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣や橋是清大蔵大臣などの殺害を図りました。
斎藤内大臣、橋大蔵大臣、および渡辺教育総監を殺害し、岡田啓介総理大臣も殺害したと発表しましたが、総理大臣については誤認だったそうです。
その上で、彼らは軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えました。
当初、陸軍の首脳部は青年将校たちの行動を容認する態度をとっていましたが、海軍が鎮圧を要求し、天皇も同様の立場をとったので、軍と政府は彼らを「反乱軍」として武力鎮圧を決意し29日に鎮圧を開始しました。
そして飛行機やラジオで投降を呼びかけました。
形勢が不利になったと判断した反乱将校たちは下士官・兵を原隊に復帰させ、2名が自決しましたが、大半の将校は自首して、その日のうちに鎮圧されました。
岡田内閣に代わった広田内閣は陸軍の要求で軍部大臣現役武官制を復活し、これが軍による内閣介入の端緒となりました。
そして、軍部は事件の威圧効果を利用して政治的発言力を強め、戦争体制へと突き進むことになったようです。