オランの夜


24 ミリアニ教授に連れられて、夜のオラン探索(勤務時間外です。御心配なく)。

 いい歌を聞かせる、とあるナイトクラブ。

 伴奏は、長年ライのスターたちと共演してきたナウイ兄弟(↑)。歌うのはカデールという無名の若手歌手。

 うまい。

 ジャンルはなんでもありです。オランの代表歌手アハメド・ワフビのナンバーのあとは、こんなのでした:
 Without you - Let it be - Je ne regrette rien - It's too late - Besame mucho - Parttime lover...

 お客はもちろん、酒ガブガブ飲んでます。

 ここはもう、完璧に地元の人の案内がなかったら入っていけない世界。
 「よそ者がひとりでここへ来たら、確実にボラれる」とミリアニさんは言ってました。

 歌に合わせて男が、女が踊り出します。写真を撮ろうとしたらミリアニさんが言うんです:

 「女性は撮らない方がいい。誰かの情婦だったらまずい」(こういうときは日本語はjoofu「情婦」としたいな・・・「やさしい日本語」じゃないけど・・・)

 オモテのイスラム社会とは違う、裏の、しかし、たぶんなくてはならない裏。

 全身、青いラメの入ったドレスの女。
 超ミニスカートの女。
 蛍光塗料が入っているかと思われる、闇の中で白く輝くタイツの女。
 みんな髪は染めてる。
 別に歌手とか、ミュージシャンとかじゃありません。客席にたむろする女たちです。

 こういうの見ていると、前から感じていること、たぶんアラブのこと少し知っている人はよく思うだろうことを、つい感じてしまいます。
 アラブとかイスラムの問題というのは、大きな部分が性の問題じゃないかって。


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やさしい日本語を実現するには

 最近多くの端末でこのブログの見え方がおかしくなっていたようですね。わたしの端末では異常がなかったので気がつきませんでした。
 ごめんなさい。直りましたでしょうか。
 御指摘いただいたYさんありがとうございます。

 ところでそのYさんから、このエントリーにでている「やさしい日本語」みたいなものがそもそも必要だということ自体、なかなか世間には理解してもらえないというお話がありました。

 この問題に関しても、わたしは以前から主張があります。
 こういうところでこそ「文学」が機能してほしいということです。
 良質の文学があってほしいのです。

 つまりこういうことです:

 フランス語は基本的にラシーヌやモリエールの時代とさして変わらない言語ですが、これは別にアカデミーフランセーズみたいな公の機関が上から規範を押し付けているから、だけではないと思います。

  みながラシーヌやモリエールの文学のフランス語に魅了されて、ああこういうフランス語が本来の、美しくて、わかりやすくて、良いフランス語だ、自分もこういうフランス語で話したい、書きたい、と心底から思わせるからなんだと思うのです。

 だから、現在の日本語の「やさしく」ないところを確かによくないと意識した作家が、その欠陥を改善する方向性をもって、みながほれ込むような日本語でどんどん作品を作っていく、そういう状況ができればと思うのです。

 わたしは、本当に美しい日本語というのは、最終的には日本語弱者によく分かる日本語と一致すると思ってます。

 ただ最初から「これが理想のやさしい日本語だ」という言葉で「傑作」を書くのは無理だとも思います。現在の日本社会の言語感覚が、それを「傑作」とはみなせないからです。

 最初は基本的に「現代日本語」で書かれながら、内容的にそういう問題意識を読者に提起し、書き方の面においても日本語がこれから向かうべき方向性を示唆するような書き方をした作品からはじめるとよい、と思います。

 これは言語の性格的変化、あり方、たたずまいの変化に関わりますから、時間がかかると思います(現代は言語は表面的にはめまぐるしく変わる時代ですが)、もしそういう日本語が社会的に確立するとしても、それはわれわれの生きている時代ではないでしょう。



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やーし


23(前のエントリーから続きます)

 WatsuさんのDeggaというマンガ(どういう意味だか全く不明)は、たしかにスタイルは日本マンガですがこの回の内容は「闘羊」(このエントリーをご参照ください)で、全くアルジェリア的ですね。

 だけどマンガだから、男の子が相手の象みたいに大きな羊めがけて、自分の羊を手づかみにして投げちゃうんです、

"COTON" BAZOOKA !!!

と叫んで。

 あっと思ったのは、投げたところでその男の子が、こぶしをぎゅっとにぎって「や~し」って、ひらがなで言ってる(つまり、書いてある)ことです(↑)。

 どうみてもこれ、「よーし」の変形ですが、どこかの日本マンガで読んだ(見た?)ひらがなをなぞったのかしら。それにしては見事に書けてますね。
 だいたい、これを読むアルジェリア人はみなこのひらがなが「読める」んだろうか????????   ああああ分からない!

 この雑誌の最後(というか右の方ですね)には、「脳を鍛える大人のDSトレーニング」(タイトルだけは立派に日本文字)というのがありますね。

 そして「今月の漢字」Le Kanji du moisコーナーに「切腹」Harakiri ou Senppuku(ママ)というのが載ってて、手足毛むくじゃらのおっさんがドス持ってなぜか畳の上に置いた手紙みたいなの読んでる昔の絵が載ってます。なんなんだこりゃ。うおぉ。

 というわけで、どうみてもこれ、日本紹介誌を兼ねてますが、しかしまあ、世界は驚異に満ちてますなあ・・・


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アルジェリアン・マンガ!


22 あるんですよ、立派に(↑)。

 この「ラ~ブストル」って、ちゃんとカタカナでタイトルが書いてある雑誌、「100% Algerien」と銘打ってあります。月刊誌ですね。ホテルの売店にありました。

 マンガのほかに「11年の不在をこえて、ドラゴンボールZ再び来る!」という記事(雑誌の真ん中に悟空のポスターが入ってます)とかビデオゲームの記事とか。
 
 面白いのは、右から左に読むマンガと左から右に読むマンガが共存していることです。アラブ文字のはなくてフランス語の、アルファベット表記のマンガだけなんですけど。

 たぶん、右から左の日本マンガと左から右のフランスマンガ、それに右から左のアラブ語の表記法とかが頭にあって、どっちでもいけてしまう感覚がアルジェリア人にはできあがっているんじゃないかと思います。(つづく)

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Clesの終わり


 Les Cles de l'actualiteが廃刊になっちゃいました(↑写真の真ん中のが最終号です)。

 こういうやさしいフランス語で書かれた、絵や写真のふんだんに入っている、紙媒体の教材って、これまたインターネット発達の影響で売れなくなったんでしょうね。
 以前にも書きましたが、この若者用週刊新聞、音楽情報や流行情報が早かったから、学生さんたちはもとより、わたし自身が重宝してたんですけどね・・・

 他のフランス語紙は幼稚すぎるか、高度すぎるかで、ちょっと日本の大学生向きではないのです。
 何で代替しましょうか。困ったな・・・
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『アルジェリアを知るための62章』


 定評のある明石書店の地域研究シリーズについに『アルジェリアを知るための62章』が登場、近日中に発売されるそうです!
 期待して待ってましょう。

(↑は同じシリーズの『モロッコを知るための65章』です。これも充実してますからお勧めです。モロッコも、観光や民芸品では日本の人にもなじみのある国なのに歴史や社会のちょっと詳しいことはほとんど知られていないのです)



 
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「やさしい日本語」


 「国際研究集会2009 外国語教育の文脈化:『ヨーロッパ言語共通参照枠』+複言語主義・複文化主義+ICTとポートフォリオを用いた自律学習」(4月3日から5日まで。於京都大学)というのに出てます(↑)。

 うーん、見るからに難しげなタイトルだな。語学教育業界におられない方にはなんのことかさっぱり分かんないでしょうね。

 この「言語共通参照枠(CEFR)」というのは現在の欧州連合の言語政策思想の具体的現われとして重要視されるものですが、ひとことで説明するのはほんとに難しいです。
 それでも、ヨーロッパ語以外の言語教育関係者でも、自覚的に語学教育を行う気概を持つ人なら、このCEFRについてよく考えることがだんだん避けて通れなくなってきているものと思われます。それだけユニバーサルなものを持っているのです。
 しかしその背景にあるのは非常に理念的なものだし、ヨーロッパの歴史と現実から生まれてきたものなので、ヨーロッパ以外の国ではもし一般にその思想が理解が徹底されることになるとしても数十年はかかるような気がします。
 それに、この思想がいろんな形で「押し付け」になっては本当にやばいので、取り組み方もよく考えないといけません。

 この学会の出席者は日本、フランスの語学教育関係者が中心のように思いますが中国、韓国、ベトナムなどからも発表者、参加者がおられて、「欧米vs日本」のような従来型の二項対立思考パターンに陥らないように気が配られていることには好感が持てました。

 なかでも非常に刺激的だったのは岩手大学、松岡洋子さんによる日本語教育に関するお話でした。
 阪神大震災のとき着想されたらしいですが、災害時の情報伝達の場を想定して「みんなが分かる、やさしい日本語」というものを、日本語の良く分からない人たちだけでなく日本人のお年寄りや子供も含めた「情報弱者」のために作ってみてはどうか、ということなんですね。
 そのためにはもちろん日本のふつうの日本語話者の方が「歩み寄り」をする必要があります。それが、日本にひとつの「複言語」状況を作り出すわけです。

 この発想に似たものは、わたしは実はずいぶん若いころから持ってました。フランス語を勉強していると、どうも日本語の使用状況と比べる意識が出てきて、日本人が無益に難しい言葉を使いすぎる傾向があるような気がしていたのです。
 たとえば「考えておく」で全く問題ない状況で「考慮に入れる」と言ってみるような。
 これって外国人にはしんどいだろうな、kangaete okuが聞いて分かる人でも kouryo ni ireru は分かんなくて立ち往生するケースが多いだろうな、と思ってました。kouryoの方は、どうしても頭のどこかに漢字「考慮」を映し出しながらしゃべったり聞いたりしないと、「意味が乗っからない」んです。日本語勉強しているフランス人が、まさにそういうことを言ってました。それが日本語使用の現状です。

 わたしとしてはさらに、まさに水村美苗さんが想定するような日本語エキスパートたちがこういう「やさしい日本語」の意義を意識しながら仕事するようになれば、というところまで考えてました・・・

 CEFRがらみでこういう問題意識がまたわたしのところにやってきたのは、感慨深いです。

 松岡先生は、チームでドイツ、韓国、日本について語学教育の現状を調査されているのですが、この三国が選ばれたのは「言語はひとつ、血もひとつ」という感覚が強く、言語的社会統合の考え方に共通性があるということなのです。
 どうも日本は、外国からの移住者の関係する語学教育に関しては、結局のところほとんど「ボランティア頼り」みたいですね。しばらくこの現状はどうにもならないでしょうけど、知恵をしぼってがんばらないと韓国にもどんどん追い抜かれちゃうでしょうね・・・

(以上わたしが耳で聞いて理解したと思ったことから書いてますので、聞き間違い、誤解等ありましたら全てわたしの責任であることを申し上げておきます)

[追記] 「やさしい日本語」のお話は松岡先生のお話のごく一部です。


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放送しました


 昨日、例の放送をさせていただきました。
 若干不調個所がありましたが、まあまあでしたでしょう。
 DJの中村店長、ありがとうございます。
 それからえふえむエヌワン(↑)のスタッフの方々にも御礼申し上げます。

 このエヌワン局は金沢工業大学の作られたものですね。
 おかげでフランスやアルジェリアの友人たちに日本からわたくしの肉声を伝えることができて、ありがたかったです。

 金沢大もこういう伝播力のあるメディアを持ちたいところですが、工大さんと同じことをやるより、別のやり方を考えた方がよいように思います。

 ちょっとだけ曲の解説の補足です。

 一曲目Fadela & SaharouiのN'sel Fikはライのエンブレムみたいな曲ですね。1995年バージョンはノルディン・ガファイチ、モハメド・マグニの腕が光ります。二曲目KheiraのMektoub mektoubは例のハスニ・コンピからとったものですが、去年2008年で一番気合いの感じられたライのひとつということで。
 三曲目Qum Taraの演奏者Reinette L'Oranaiseはアルジェリア人ですが、アラブの古典音楽全体をこれで代表。
 四曲目Amr DiabのWe yloumouniはスペイン的香りのジールのひとつの典型。五曲目HabetはHakimが力任せに歌ったのがつぼにはまったときの迫力を感じていただくための選曲(彼の曲はちょっと「軽い」のが難だと思います・・・)。以上エジプト。
 六曲目レバノンのSoapkillsはアラブ的ミニマル・エレクトロの成功例。
 七曲目はモロッコ・グナワとNguyen Leのギターの素晴らしいフュージョン。
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